第3話 睡眠前の上司の気配

文字数 1,932文字

「気味が悪い」
 蛍がそう云ったのは、慎二や友人たちとのやりとりばかりだったSNSの履歴に石原の名前が刻まれた様子を見てのことだった。どこで調べたのか知らない業者からダイレクトメッセージが届いたときは即座に消して履歴を整えるのだが、上司からの連絡となるとそれも憚られる。
「その部長、ハラスメント気質があったよね。随分危険人物だと思うな。僕がこれまでにビジネスで接した人たちにはおかしな連中も多かったけれど、そんな異常な行動をする人はいなかった。良識ある社会人ならそんなこと絶対にしないよ」
 慎二は蛍より十歳年上。国内で最も難関と云われる大学を出た後、国内外の大企業を複数渡り歩いた経験を持っていた。
「無視していいよ、そんな連絡」
 慎二は断言した。業務時間外、しかも就寝しようかという時間帯に電話をかけてきて、応答がないからといって大量のメッセージを投げつけるんなんて非常識でしかなく、たとえそれは業務中であったとしてもやりすぎであるのだからそのまま放置しても問題ない筈で、万が一、翌日部長から蛍が咎められるのだとしたら、部長のさらに上席に報告し対処を求めてもよい程の事案なのだと彼は補足した。
「そうだね、もう寝よう」
 蛍はそう云ったものの寝室へと歩き出すことはなくその場に立ち尽くしてしまう。彼女が考えていたのは、慎二の云ったことはもっともであり、蛍としても異論はないのであったが、過去に経験したことのない内容と頻度の連絡であり、もしかしたら会社で想像も出来ないトラブルが起こっているのではないかということだった。
「念のため、折り返してみようかな」
 蛍がつぶやくと慎二は顔をしかめる。
「蛍ちゃんらしくないね」
「そうかな」
「上司からの無謀な指示。蛍ちゃんが一番憎むべきことでしょう?」
 慎二が云ったのは羽島家にとっては当然のことだった。慎二と蛍の出会いは慎二が蛍の父夏雄に連れられて自宅に遊びに来たのが最初で、慎二は亡くなった夏雄が可愛がっていた部下だったが、当初会社が夏雄の死を過労によるものだと認めず、蛍たちがそんな筈はないと声を上げたとき、慎二は同僚たちが我関せずの態度を取る中で夏雄に恩を受けたのだからとひとり蛍と一緒になって会社と闘ったのだった。そういう経緯もあり恩人を死に追いやった過重な労働というものは、慎二にとっても憎むべきものでしかないのである。
「そうだね、無視すべきだね」
 蛍は慎二の言葉を噛みしめながら、ついさっきまで感じていた眠気がすっかり失われてしまっているのに気が付いていた。
「さ、寝よう」
 慎二はそう云うとリビングの灯りを消した。
「慎二、お風呂は?」
「朝入るよ。それより蛍ちゃんの気持ちを落ち着かせるほうが優先だと思う。仕事のことなんて気にしないでふかふかのベッドに入ろうよ。あんなメッセージ送りつけられたら不安になるのは分かるけど、僕がついているから大丈夫。とにかく会社なんて無責任な組織なんだから、義理立てする必要はまったくないよ」
 慎二は夏雄の死後、会社と揉めたこともあり退職し、多くの企業を渡り歩いた後、稼いだ金を資金として個人投資家をやっている。正確な収入を蛍は知らされていなかったが、月給で働く蛍と同程度かそれ以上の儲けがあるのは確かなようで、会社に雇われると無能な上司にこき使われる羽目になり無駄なストレスに晒されるのだと事あるごとに云うのだった。
 蛍は慎二に手を引かれ寝室へと向かうが、逆の手の中にあるスマホが震動するのではないかとそちらに神経が集中してしまう。石原部長は尊敬できる上司ではまったくないし、人間的にも魅力はなく好意的にも感じていないが、会社におおきなトラブルが発生したのだとすれば、営業二課の課長の責任として何かしらすべきことがあって連絡を受けたのかもしれないとは思うのだ。
「スマホ、僕が持っておくよ」
 そう云う慎二にスマホを託し、蛍はベッドに潜る。低反発のベッドにふかふかの布団。遮光カーテンで月明かりも外灯も入り込む余地のない部屋。両隅に置かれた小さなスピーカーから聞こえるか聞こえないかくらいの波の音がしている。
 最良の睡眠が最高のパフォーマンスを生み出すのだという慎二のこだわりによって設えられた寝室は快適で、どんなに興奮状態であっても数分で別世界にいるような気分になり、間もなく睡くて朦朧としてしまう程であるため、蛍は寝付けない夜を長らく経験していなかったが、その日は目を瞑っても寝返りをうってもいつもの心地よさが訪れず、しかも隣で眠る慎二の寝息がスピーカーから流れる波のリズムとずれているからだろうか、まれにスマホの振動音が鳴っているかのような錯覚が生じてしまい、いつまでたっても眠れなかった。
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