第11話 確かめる責任

文字数 1,189文字

 絶望的な音を耳にした蛍はたまらず引き返した。どうか無事でいて欲しい。身の凍るような音を聞いたとはいえ、実際に丹羽が落ちる姿を目にした訳ではないのだから望みはある。
 とにかくその場に早く行く。きっと丹羽は生きているから、第一に彼の安全を確保し、その後時間をかけて説得するのだ。仕事に縛られる必要はない、追い詰められるなんて馬鹿馬鹿しい、人生は会社の利益獲得のために浪費してはいけない、自身のため、家族の幸せ実現のために生きるのが正しいのだと。
 蛍はそんなふうに冷静かつ論理的に先の対処を考えられている気でいたが、屋上へ来る際にゾッとした筈の階段をどう降りたのか記憶がまったくなく、エレベーターにも乗ったのだろうが扉をくぐったことも行先ボタンを押したことも覚えておらず、蛍の記憶に刻まれたのは彼女がオフィスフロアに辿り着いてからで、無意識に非常階段の方へと走っていたときに、背後から呼ばれた瞬間だった。
 蛍はその声が慎二のものだとすぐに分かり、そうだ彼が先に向かっていたのだと安堵の気持ちに包まれた。既に慎二が丹羽を救い出してくれていたのだ。
「ごめん、非常口を見つけられなくて、あちこち探して、片っ端から扉を開けようとしたけど、駄目だった」
 見たことがないくらいに落胆した慎二の表情を前にし、蛍は立っていられないくらいに力が抜けた。
 屋上から先に丹羽の元へと向かった慎二だったが、一度も立ち入ったことのなく灯りの落とされたビルフロアを進むのは簡単ではなく、しかも従業員でなければ開けられない扉がいくつかあったことで混乱してしまい、ツヤダラ食品の喫煙所となっている非常階段を見つけ出すことができなかった。
 蛍は早とちりであったとはいえ、一度は安堵した落差から涙がこぼれる。慎二が不慣れなのは当たり前であり、場所を正しく伝えられなかったのが情けなかった。だいたい慎二に頼むのではなく自身が駆け出したほうが良かったのかもしれない。一生懸命丹羽に語り掛けたつもりではあったが、止めることができなかったのは、選択を誤った結果ではないか。そもそももっと賢く、適確に行動できていれば、例えば自宅で着信を見た時点で正しい対処ができていれば、丹羽は助かったのではないか。
 それでも蛍はどうにか気を保ち、非常階段のほうへと進んだ。
 その扉の向こうには見たくもない光景が広がっているのだろう。踊り場の灰皿からは消しそこなった煙草の煙が立っていて、つい直前まで人がそこにいたと感じられるのに誰もいないのであろう。顔を上げればビルの隙間から星空が見える一方で、地上のアスファルトには丹羽が血を流して倒れているのだろう。
 蛍は逃げ出したくて仕方がなかったが、確かめる責任があると感じていたし、まだほんの埃くらいの希望は無意識ながら持っていた。慎二は蛍の隣で心配そうな顔をしていた。蛍が非常口の扉に手をかける。
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