第5話 ファミレスでの消えない後悔

文字数 1,574文字

 蛍の父、伊吹夏雄が亡くなったのは彼女が高校生の時。ちょうど十八歳の誕生日で、友人たちが学校帰りにファミレスで祝ってくれているときに父から着信があった。
 蛍が後悔しているのは、父からであると確認はしていたが電話にでなかったこと。友人たちの手前であるし、仕事人間であった夏雄が毎年、蛍の誕生日の朝に早く帰宅すると宣言するものの一度もその日中に帰ってこれたことはなく、だいたい言い訳の電話を寄こすのであったからその時もそういう用件であろうと推察してのことだった。
 そして夏雄はその日の夜、会社の屋上から飛び降りた。蛍の母も彼が遅いのが珍しくないことから、夕食の時間に帰宅しない夏雄に連絡をすることもなく、ささやかながらも用意した誕生日ディナーにラップをかけて冷蔵庫にしまっていたくらいで、それが日付が変わって暫くしても帰宅せず、どうしたのだろうかと電話にもでないことで俄かに心配になったので、深夜三時を回った頃ではあったが、蛍とタクシーで会社まで様子を見に行き、変わり果てた夏雄を発見することになった。
「蛍ちゃんの気持ちは理解できるよ。だけど巻き込まれるべきじゃないと思う。僕は蛍ちゃんが困っている人を放っておけるタイプじゃないって誰よりもわかっているからこそ云っているんだ。さっきの彼が弱っているのは確かだと思う。仕事で追い込まれてもいるんだろう。でもそれをカバーするのは会社の役目、上司の仕事なんだ。恐らく原因は部長さんなんだろうから部長さんが対応すればいいことだよ」
 慎二が恐らくこうだと予測したのは、石原部長が丹羽に過重なノルマを課していたところ、優秀である丹羽であっても常に完璧とはいかず、ついには顧客に迷惑がかかるようなミスを起こし、石原は激しく叱咤した。丹羽は優秀な人間であるとのことなので、それまでなら反省し逆にやる気を出したのかもしれないが、溜まりに溜まったストレスに耐えられなくなったのだろう、無気力になり、会社を辞めたいと申し出るまでになってしまった。一度そうなれば人間はどこまでも転がっていく。石原が激励しても発破をかけても立ち直ることはなく、部長が困り果てて蛍に連絡してきたのだろうというものだった。
「でも、もしも、さっきのが最期の電話になってしまうのだったら嫌だよ」
 蛍は静かに云ったが、言葉には力が込められていた。後悔したくない、蛍の後悔はとても深く、それは彼女が、父夏雄から最期の着信があった事実を誰にも云っていないことにも現れている。
 蛍は、もしあのとき、友人の目を気にせず、会話の楽しい雰囲気に水を差すのを恐れず電話に応答していれば、夏雄が今でも元気にしてくれているのではないかと考えてしまう。唯一事実を伝えている慎二は、夏雄が過労で正常な判断ができなくなっていた筈であるからいくら蛍が説得したところで結果は変わらなかったのだと庇ってくれるのではあるが、母親にそれを告げたとすれば、何故電話に出なかったのか、かかってきた時点ででられなくても折り返すことはできたはずではないか、せめてメッセージの一つでも返しておけばよかったのだと悲痛な顔をされるに違いない。
「君はなにも悪くないんだ。責任を感じる必要はすこしもない」
 慎二は蛍のスマホに手を伸ばしたが、蛍は既に折り返しの電話をかけていた。静かな部屋に漏れてくる電子的な呼び出し音は、スピーカーからの波音くらいの音量であったがより明瞭で、部屋中を僅かに振動させているようだと蛍に錯覚させたが、それは緊張のせいだった。蛍はその時、ビルの屋上にポツンと置かれた丹羽のスマホが着信音を夜空に響かせる様子を思い浮かべていた。それは二度と持ち主が手に取ることのない物となる。
「おかけになった電話は――」
 留守電に変わった瞬間、蛍は目眩に襲われふらついたが気づいた慎二に支えられた。
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