第12話 同士

文字数 1,617文字

 蛍が丹羽の声と金属音から想像していた扉の向こうの光景は、実際のところ全く違っていた。扉を開けた目の前に、大きな背中があったのだ。
 もちろんそれが丹羽の背中であったのならなによりで、慎二は真っ先に丹羽が立っているのだと確信して笑顔を浮かべていた。
 しかし蛍の表情は固いままだった。彼女は目の前の男が丹羽ではないとすぐに分かっていた。屋上で丹羽とやりとりしていたときにはまったく存在を認識していなかった人間で、それは部長の石原であった。
 蛍は何故彼がそこにいるのか、もしかしたら元々いたのか、状況が理解ができず混乱していたが、丹羽の生死を確かめるのが先だと柵へと首を伸ばした。だが地上にも彼の姿がなかった。
「危ないところだった。滑河君がぎりぎりのところで丹波の体を引き戻した」
 石原の視線が踊り場から下る階段に向いており、蛍がつられてそちらを見ると、丹羽が足を下段に放り投げて寝転んでいた。隣には丹羽の体に手を添えた滑川がいて、並んで寝転んでいた。
 言葉が出てこない蛍に石原は、丹羽が飛び降りようと柵を乗り越えていたこと、しかしそこに滑河と石原が到着し、滑河が素早く丹羽を抱え込んで事なきを得たことを説明した。
 蛍は今度こそ安堵してその場にしゃがみ込んだ。丹羽は生きている。音だけではまったく認識できなかったが、屋上で金属の軋む音を聞いたとき、同時に非常階段の扉が開かれていて二人が飛び込んできたのだろう。自身が丹羽の名前を叫んでいたこともあって聞き分けられなかったのだ。とにかく無事でいてくれてよかった。
 慎二が蛍を気遣い肩に手をやった。非常階段の踊り場で蛍と慎二、そして石原が一様にほっとしているのが互いの表情から読み取れた。極度の緊張が解けたことで、蛍は石原に抱いていた印象の悪さをすっかり忘れていたし、初対面かつ事前にはハラスメント上司だと詰っていた慎二にしても石原と昔からの知り合いのような親しさで笑顔を交わしていた
「丹羽君、一人で思い詰めたら駄目。相談してくれれば、こうして皆が心配して駆けつけるんだから、早まったらぜったい駄目なんだから」
 蛍は自身の言葉に熱意が含まれているのを感じていた。働いているときに仲間意識を過度に訴えかけることはないが自然とそうしていた。そして同時に父夏雄のことをうっすらと思ってもいた。夏雄には駆けつけてくれる仲間が社内に殆どいなかった。追い詰められていたのに手を差し出してくれる者はあまりに少なかった。
「滑河に助けられるとは皮肉だよな」
 空を見上げた姿勢のままずっと黙っていた丹羽がポツリと云って、苦笑いを浮かべた。
「お役に立ててなによりです」
 隣の滑河は表情を変えずに云った。丹羽と滑川は蛍たちと違ってずっと静かで蛍には不思議だったが、営業一課はツヤダラ食品の営業担当の中でも特に重要な顧客を抱えているため成果に厳しく向かう姿勢が強く、属する従業員たちへのプレッシャーも多大なものになるからだろう、同じ会社であるのに蛍の営業二課とは違って常に深刻な雰囲気を帯びているのが常であったから違っていてもおかしくはないのであったが、蛍が特に気になったのは、滑川の表情にどこか見下しの色があることだった。
 蛍は彼が中途採用で最近入社してきたこと、とても優秀であるらしいこと、出社時乗ってくる列車の車両が同じことが何度かあって互いに気付いているようないないような感覚であったことを思い出しながら、彼の冷めた視線が、ちょうど蛍が早い時間に帰宅する時に、隣の課から――いつも誰からの視線であるとまでは分からなかったが――投げかけられていたものと同種であると気がついた。
 石原部長と慎二が武勇伝を語る調子で一連の出来事を話しているのを蛍は聞きながら、滑河が丹羽を助けた名残で掴んでいる姿が、まるで刑事が犯罪者を確保しているかのように見えてしまい、丹羽の無事を喜びたいのに、不穏な気持がどうしても抜けなかった。
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