第9話 屋上の幽霊

文字数 1,618文字

 蛍が新入社員の時、ツヤダラ食品が入居するビルの屋上へとつながる階段に、建築時の事故で亡くなった作業員の幽霊が出るという話を先輩社員から聞いた。馬鹿げていると思ってすぐに忘れていたが、幽霊に導かれた社員が屋上で重大事故を起こした時から開放されていないのだと話す先輩の表情の真剣さを久方ぶりに思い出したのは、その屋上へ続く鉄扉の前に立っていたからだった。
 蛍は幽霊なんて信じてはいないし、事故がどんなものであれ原因を霊的な現象に求めるのはあまりに残酷だと思いはするが、父親のこともあり、そこにいる丹羽が起こそうとしている絶望的な行動を想像しそうになり必死でかき消す。
 慎二が一階の保安室で借りた鍵で扉を開けた。あまり使われていないのか扉を開ける時にパラパラと埃が落ちた。
「僕の演技、なかなかのものだったよね?」
 真っ暗な階段の照明スイッチを探す慎二が云った。蛍は彼の気楽な物言いが気にはなったが、窮地を乗り越えた達成感でいくらか高揚しているのだろうと理解し頷いた。
 慎二が云ったのは、守衛から屋上へと続く扉の鍵を借りた際のことだった。蛍が社員証を見せ、精神的に追い詰められた同僚が屋上にいるから上がりたいのだと伝えても守衛が深夜のことであるし事故でも起こったら責任を問われるから断ると云い、蛍が責任を取ると申し出ても取り付く島もない様子であったところ、後ろから慎二が、ビルに入ってくるときに人影が屋上に見え今にも落ちそうであったと訴え、人命にもしものことがあれば不作為で守衛が責められることになるだろうと身を乗り出して話したことで、守衛がようやく顔色を変えて鍵を差し出したのであった。
「ありがとう。助かったよ」
「マニュアル通りにしかできない人間には脅しで迫るしかないからね」
「急がなきゃ」
 灯りのついた階段を蛍は走ってあがる。屋上への階段は黴臭く、照明が小さな豆球であったからだろう、不安は増幅し、祈るような気持ちでいた。
 無事でいてほしい。もしかしたら丹羽は柵に手をかけた状態でいるのかもしれない。そうであるなら全力で止めるのだ。気持ちや言い分を聞いて、生きることの大切さを語るのだ。蛍ができることは残されるものの辛さを伝えること。丹羽にも大切な人がいて、丹羽を大切に思う人がいるのだから。
 階段をあがりきったところにまた扉があって、蛍は勢いよく開ける。正面に隣のビルの壁が見えていた。丹羽の名を呼び、周囲を見渡す。エアコンの室外機や電気設備が並ぶそこは蛍が勝手に想像していただだっ広い屋上に比べると機械的で、幽霊が現れそうな雰囲気はまったくなく、なにより想像と違っていたのは、周囲が背よりも高いパネルに覆われていたことだった。そして丹羽はそこにいなかった。
「隣のビルの壁でオリオン座がぎりぎり見えないよ」
 慎二が南の方角を指しながら云うのを聞きながら、蛍は困惑していた。会社の屋上でないとしたら自宅マンションだったのだろうか。それともまったく別のところにいるのだろうか。
「もう駄目だ」
「全力を尽くしたんだ。蛍ちゃんに責任はないよ」
 項垂れる蛍の顔を慎二が覗き込んで励まそうとした。蛍は何が間違っていたのか必死で記憶を辿っていた。着信履歴を見つけた時点で部長に折り返していたらよかったのだろうか、丹羽からかかってきたときに場所をしっかりと尋ねるべきだったのだろうか、通話の状況から彼の居場所を推察したが誤った分析をしてしまったのだろうか。
 慎二が様々な言葉で励ましていたが蛍は諦めきれず丹羽の番号にもう一度かけることにした。おそらく出てはくれないだろうし、もう出ることができない状態になってしまっているかもしれないとさえ思えた。慎二は深入りしたら傷も深くなるのだと止めようとしていて、蛍はその通りだと思いながらも従うことはできず、かけた。そして呼び出し音が鳴りだした時、屋上の隅から微かにスマホの振動音がしたのだった。
「丹羽君がいる!」

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み