第6話 行先は屋上

文字数 1,937文字

「どうしよう丹羽君まで父さんみたいに死んでしまう……」
 蛍は寝室を出て、リビングへ移動した。なにを探している訳でもなくキョロキョロと周りを見渡したのは次にすべきことがあると思っているのに頭に浮かばないからだった。後からついてきた慎二が蛍の背中に手をやって顔を覗き込む。
「落ち着いて、寝室に戻ろう」
「ごめんなさい……そうだ、着替えないと」
「着替える? 蛍ちゃん落ち着いて。もう寝巻きになっているんだから着替える必要はないから」
「ううん、出かけるの。丹羽君を止めなきゃ」
「出かける? こんな時間から?」
「急がないと間に合わない」
「待って、落ち着くんだよ。ゆっくり深呼吸して冷静になろう。だいたい彼がそんな行動に出るとは限らないよ。蛍ちゃんが不安に感じるのは分かるけれど、その丹羽って人は君のお父さんとは別の人間なんだし。もうちょっと状況をしっかり把握してから行動したほうがいい」
「星が見えるって云ってた。それって屋上のことだと思わない?」
「家の窓からも見えるよ」
「風の音がしてた。外にいるんだと思う」
「道端からでも星は見える。きっと嫌なことがあって眠れそうにないからコンビニにでも行っているんだ。ずっと以前、僕もそういう時期があった。仕事がつまらなくて、信号待ちのふとした瞬間に空を見上げて三日月だなぁとか。そうしたら不思議と真面目に考えるのが馬鹿らしくなって、少しは元気になったものだよ」
「丹羽君が高いところにいたら、もしかしたらいまにも身を投げそうな場所にいたとしたら私はどうしたらいいの? 放っておいたら取り返しがつかないんだよ」
 蛍は困った顔で云い返した。
「僕は部長さんが対応している筈だと考えるよ。あれだけ着信があったというのはきっと丹羽さんのことで、上司として危機感を覚えたんだろう。だからというか、既に対応に動いていて、蛍ちゃんに連絡があったのは何かしらの援助を求めたのかもしれないけど、会社というのは組織だからね、蛍ちゃんに連絡がつかなければ他の人が替わりに役目を果たすものだよ。僕が云いたいのはつまり、蛍ちゃんが背負う必要は全くないってこと」
 そう云った後慎二は部長に連絡をとるよう蛍に助言した。蛍はその通りだと思ってかけてみたが部長はでなかった。
「あんなにメッセージを残しておいて、無責任な人だな」
「石原部長はだいたい肝心な時に頼りにならないから……丹羽君が追い詰められているのにほったらかしだよ」
「でもさ、蛍ちゃんが追い詰めた訳じゃないよね」
 慎二はそう云った後、蛍の主張する最悪の事態をまったく想定しない訳ではないと付け加え、ただ慎二としては禍根を残すようないざこざから蛍を遠ざけたく、既に彼女は父親の過労自殺という悲劇を経験していたところ、まんにひとつでも丹羽が自殺でもしようものならまた新たなトラウマを抱えることになる訳で、そんな結末は人生を共にする夫として耐えられず、しかも蛍にまったくの非がない問題に関係したことでそうなってしまう恐れがあるならなおさらだと説明した。
「そう思ってくれるのは嬉しい。だけど私はこのままじゃとても眠れない。どれだけ寝室を快適にしても、アロマの香りを浴びたとしても、慎二が隣にいてくれたとしても頭の中にこびりついた悪い想像は消えてくれない」
 蛍は泣きそうな顔で訴えかけた。杞憂に終わるのであればそれでいい。ただ最悪の事態が起きてしまうのであればやれることは全てやっておきたい。もちろん蛍自身は日頃から誰かが追い詰められるような職場は健全でないと説いている訳で、もし丹羽が追い詰められているのだとしたら、それは慎二が云うとおり蛍の意見に耳を貸さない上司や同僚たちのせいだとは思う。しかし受動的であるとはいえ関わってしまった以上、どれだけ無視をしようとしてもできないのだというのが蛍の実情であった。
「分かった。だけど僕も一緒に行く。今の蛍ちゃんは冷静さを失っているから、一人にはさせられない」
 慎二はそう云うと蛍よりも早く着替えを終え、玄関でタクシーの配車を依頼した。
「まだ終電あるけど……いいの?」
 蛍は日ごろから倹約家である慎二に気を使ってそう尋ねた。
「緊急事態ならこれが一番合理的だと思う。ちなみに彼の住所は分かるの?」
「……知らない」
「家にいるんだよね?」
「どうなんだろう……」
 蛍は丹羽がどこにいるのか、おそらく建物の屋上であるとは直感的に思っていたが、建物自体を問われるとさっぱり分かっていないことに気がついた。同期が集まる宴会で、一度くらい住んでいる場所が話題になったに違いないと記憶を探ったがマンションを出ても思い当たらず、そのうちタクシーがやってきて仕方なく乗り込んだが、行先を告げられず運転手を困らせた。
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