第4話 優秀な同期が見上げたのは星空

文字数 2,710文字

 羊でも数えてみようか。そんなものは迷信で余計に眠れなくなるのだと慎二は云っていたが、油断すると石原部長の顔が浮かびそうになっていた蛍にとっては頭の中を草原に並ぶ羊だらけにしたほうがましな気がしていた。目覚ましを時刻を寝床から見えない向きに置くという慎二の習慣があって、その時点の時刻が正しくは分からなかったが、寝室にはいってから一時間くらいが経ったように蛍には感じられていた。
 まただ、またスマホが震動している。しかし気にしてはいけない。意識を違うところに向けるのだ。蛍は布団を頭まで引き上げて、目を強く瞑った。しかし布団の中では震動音が余計に大きく聞こえるのだった。小刻みで一定の振動音。蛍はすぐにかき消えてしまうのだろうと耐えていたがそれは想定より長く続いた。いや、これは本当にスマホが震動しているのだ。蛍はそう気が付くと飛び起きて慎二の枕元に手を伸ばす。
 気配を感じ取って何事かと目を見開く慎二の顔を跨いで蛍はスマホを耳に当てた。控えめにもしもしと声をかけると向こうから風の音がする。
「羽島、すまない」
 着信の液晶画面を確認はせず石原部長からだろうと確信して電話をとったが、その男性の声は彼ではなく、しかし聞き覚えがあると記憶を辿ると営業一課の課長丹羽であると分かった。
 丹羽は蛍の同期社員で人柄がよく、仕事も出来る男であって、年に一度開催される同期会の幹事を進んでやるような人柄ではあったが、蛍は彼と個人的に連絡を取り合う関係ではなく、しかも夜中となると過去に例のないことでもあったし、多数残されていた石原部長のメッセージもあった訳で蛍としてはまず間違いなくその件であろうと考えた。
「トラブルが起きているの?」
「いや、そういう訳ではないんだ。たんに俺が不甲斐ないだけのことで……」
 丹羽の声は落ち着いていたが、オフィスで聞こえてくるいつもの彼の熱意の込められた喋りかたと比べると随分弱々しいと蛍は感じていた。だいたい丹羽は結論から先に述べたがるようなタイプであり、言葉尻をぼかす話しかたは彼のイメージと違っていた。
 不甲斐ないというのは彼が致命的なミスをしたからだろうかと蛍は想像し、そのフォローのために石原部長が連絡をしてきたのだろうかと考え、ともかくまずは慰めるべきであろうかと思ったが、しかし彼がトラブルではないというのが正しいのであれば、少々矛盾するようにも思え、次にかける言葉を探していた。
「ほっとけばいいよ」
 小声で慎二がそう云ったのは、静かな寝室に蛍のスマホから丹羽の声が漏れていて内容を聞いていたからだった。慎二は構うべきではないという顔で首を横に振っていた。ミスをしたなら最後まで自分で何とかするのがプロというのが慎二の考えかたであり、夜中に不甲斐ないなどと吐露してくる職場の人間を非常識だと云っているのが蛍には分かったし十分に理解できることではあったが、慎二の声をスマホのマイクが拾うのではないかと心配になり、指でシッと合図した。
「一つ、頼みがあるんだ……」
 次に言葉を発したのは丹羽で、蛍は彼の声が疲れていると感じた。慎二は翌日でいいだろと口だけ動かした。
「続けて」
「俺の部下の面倒をみてもらいたいんだ。皆頑張り屋で向上心があって、あとは俺の課の取引先ともうまくやって欲しい。どこもツヤダラ食品にとって大事なお客さんだし、良くしてくれるところが殆どだから……」
「それって一課を私が担当するってこと? 私に異動の話があるの?」
「組織のことまでは俺には……ただ、羽島には迷惑がかかるだろうと思ってさ……」
「話がよく分からないから迷惑かどうかも」
 夜中の電話がまず迷惑だと慎二がつぶやいていた。蛍は丹羽の言葉を待ちながら最低限推察できたのは丹羽が一課を離れるのであろうということだった。彼が異動するのか、もしくは転職するのかもしれない。同期で一番優秀なのだから、社内で必要とされてもおかしくないし、社外でも評価されるに違いない。蛍はベッドから出て、室内灯をつけた。慎二がまぶしそうな顔で迷惑そうにしていた。
「ありがとうな、同期の中でも羽島は考えかたがちょっと変わってて、刺激にもなったよ」
「会社辞めちゃうってこと?」
 蛍はほぼ確信して云った。丹羽の言葉が退職の挨拶にしか聞こえなかった。しかしそう云ってから、わざわざ夜中にそれを伝えたかったのだろうかと思いつき違和感が残った。個人的に強い関係があったのならまだしも、翌日も出社するのだしそのときに伝えることもできた筈である。慎二が蛍の側にきてスマホに耳を近づけた。
「あれ、星が見えるんだな、ここ。三つ並んでるよ、キラキラとさ。十年以上働いてて初めて知ったよ」
 丹羽がそう云うのを聞いていた慎二はもう耐えられないという顔で蛍のスマホのマイクに向かって、何時だと思っているのかという苦情とともに、叙情的な話であれば友人とやってもらいたいこと、例え仕事のトラブルなのだとしてもろくな具体性もなく業務時間外に電話をしてくるのはあまりに非常識であることを冷静に言い切った。蛍は同僚との会話に夫が割り込んでくるのは気恥ずかしいとは思ったが、彼が大切にしている睡眠を阻害されている訳であるし、不条理な会社のトラブルに蛍を近づけたくないのは蛍の父が過労で亡くなっていることを踏まえれば家族として当然の反応であると思って止めなかった。
 しかし慎二は言い終わると首をひねり、電話が切れているのではないかと蛍に云った。いつからか判断がつかなかったが確かに電話は切れていた。丹羽は話し終えたタイミングで電話を切ったのか、それとも慎二が話し出したからそうしたのか。
「僕の存在に怖気づいたんだ。さ、眠ろう。馬鹿馬鹿しい」
 慎二はそう考えを述べたが、蛍は電話を折り返そうとしていた。
「蛍ちゃん、構っちゃ駄目だって」
「でも話の途中だったから」
「星がどうのってもう仕事の話じゃないかったよ。多分、取り返しのつかないミスをして愚痴を聞いてもらいたかっただけなんだ。本当に非常識な奴だよ」
「そういうタイプの人じゃないと思う。理論的に話す人だし、失敗しても愚痴るっていうよりは挽回のために頑張ろうとする人だよ」
「心が折れたんじゃないか。ちょっとできるって評価される奴にはよくあるんだ。それまで順調に評価されていたのにあるとき壁にぶつかって、そうしたらびっくりするくらい脆い」
「だったら余計に心配」
 蛍がそう云い切ったのは、丹羽の様子がいつもと違っていると感じていたからで、しかも仕事で追い詰められているのだとしたら余計に放置はできないと思ってしまうのは、やはり父親のことが大きかった。
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