第10話 軋む非常階段

文字数 1,294文字

 蛍は振動音のするほうへと走った。かけたタイミングと音のしたタイミングが一致しただけだとはいえ、それが丹羽のスマホであろうことは確信できていた。ただ応答する気配がないのが嫌だった。無視をしているだけなのか、それとも持ち主を失ったスマホが置いてあるだけなのか。
 屋上の端まで辿り着き足元を探したが丹羽のスマホはなく、それでも振動音は続いていた。
「もしかして、羽島か?」
 男性の声が足元から聞こえた。蛍は屋上の外周を覆うパネルに体を寄せる。
「丹羽君? どこにいるの?」
「喫煙スペース」
 声を張ろうとしない丹羽の声量は小さく、蛍はパネルに耳をつけて必死に聞こうとした。
「非常口ってこと?」
「そうだよ。星が見えてる」
 蛍はツヤダラ食品が、入居するフロアの非常口を喫煙スペースにしていることを思い出していた。廊下の奥に非常口があり、ビルの壁面に設けられた非常階段の踊り場がその向こうにあるのだったが、そこに灰皿を設置しており、喫煙者たちの憩いの場になっている。
「非常階段が出っ張っているから、隣のビル同士の隙間から空が見えるのか」
 慎二が外周のパネルの向こうを見上げながら分析して云った。
「丹羽君、落ち着いて。すぐそこに行くから」
「いや、来ないで欲しい。随分時間がかかってしまって、さっき最後の一本になった煙草を吸い終えたんだ。ようやく気持ちが固まったんだ」
「駄目だよ。絶対に。危ないことは絶対にしちゃ駄目」
 蛍はパネルを叩いて叫んだ。階下を見下ろすことができないため、彼の声とうっすらと残っていた煙草の匂いでしか存在を感じられず、座っているのか立っているのか、それとも非常階段から身を乗り出しているのか、ただ不安が募るのだった。
「危ないことか……そうだね、危ないこと、なんだろうな」
「待って、行くから。私が行くまで、待って」
 蛍はその場を離れたかったが、会話を止めると丹羽が飛び降りてしまうのではないかと思って動けなかった。慎二は蛍の合図で走っていった。
「羽島、すまないな、こんな時間に」
 丹羽がそう云った後、金属の軋む音がして、蛍は彼が非常階段の柵に足をかけたのだと分かった。まだ慎二は向かったばかりで間に合わない。
「丹羽君、きっと働き過ぎなんだよ。疲れているんだよ。少し休んで元気になったら、きっと大丈夫だから」
「疲れているか……確かにそうかもしれない」
「そうだよ。私、前から云っているでしょ、働き過ぎると正しい判断ができなくなるって」
「いや、頭はクリアだよ。自分ではそう思ってる。ただ、結構頑張ってきたんだけど、限界ってあるんだなって思っただけなんだ。自分に絶望したんだよ」
 蛍のスマホに慎二から非常階段の場所が分からないというメッセージが届いていた。蛍は丹羽に声をかけながら慎二に必死で返信した。
「丹羽君にも家族がいるでしょう? 丹羽君がいなくなったら、家族はもっと絶望するんだよ」
「申し訳ないと思ってる。もっと器の大きな人間だったら、こんな決断はしていなかったと思うから。弱い人間ですまなかったって、伝えて欲しい」
 その言葉の後、大きく金属が軋む音がした。蛍は悲鳴混じりに丹羽を呼んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み