第1話 健全なる中間管理職

文字数 1,933文字

 一人の人間が死を選んだのに、その死について責任をとった者がいるのか、反省した者がいるのかはよく分からない。追い詰められた人間がいたのに、追い詰めたのであろう者たちは霧のように姿をくらます。
 殺意はなかったのだろうと思う。けれど間接的だったり潜在的だったり、もしくは無意識な殺意というのは確かに存在し、確かに人が一人死んだのだ。なのに事件後、マスコミやネットが騒いだとしても、現場に近いところから、遠慮や忖度、温情や圧力によって段々と静かになり、いつのまにかすべて有耶無耶となってしまう。
 営業二課課長の羽鳥蛍は真剣な顔でそう話した後、一転して笑顔を浮かべた。
「私の云いたいことはつまり、長時間労働は命に関わるってこと。さ、帰りましょう。お仕事は終わり」
 オフィスの時計が午後七時半を回ったとき、蛍は自席で立ち上がった。営業二課には蛍の他に部下が三名。蛍の話を神妙に聞き、いつものように困惑した表情で周囲を見渡した。
「周りは気にしなくていいよ。そろそろ理解してくれたよね。営業二課のポリシーは残業を良しとしないこと。本当は十七時の定時に切り上げたかったけど、皆のペースに合わせてこの時間まで我慢したんだからね」
 周囲の同僚たちはまだあくせく働いており、蛍の部下たちはそれを気にしたのだったが、蛍が周りに聞こえる声で話すのでうつむくしかなかった。
 蛍は周囲が顔は向けないまでも手を止め様子を伺っているのを感じながら「もう業後だよ」と心の中で訴えかけるのと同時に、もし声に出して云ったとしても誰も共感してくれないのだろうと寂しくなる。
 食品製造会社ツヤダラ食品に蛍が入社して十年ほど。彼女は父親夏雄を過労によって亡くすという経験をしていたため、決して働き過ぎるべきではないというのが一貫した考えで、周囲にもそう伝えていた。
 もちろん、入社直ぐのころは強く主張できなかったし、一切の残業をしないというような極論を掲げたこともない。職場環境に慣れ、上司たちのタイプをおおよそ把握できた一年が経つ頃にようやく夏雄の話と共に長時間労働は人生を滅茶苦茶にするのだと説き始めたのだ。
 しかし当たり前なこと程、周知は難しい。殆どの人が蛍の考えに賛同してはくれるのだったが、ツヤダラ食品の業であるスーパーやデパートへの総菜製造受託界隈というのは競争が激しく、自分たちの職や給料を守るという名目で上司たちは夜遅くまでの仕事を命ずるし、下の者たちも従うしかない。
 蛍が三ヵ月前、営業二課の課長になることを打診されたとき、成績に優れている訳でもない彼女に声がかかったのは、会社として女性管理職を増やしているという社会アピールのためであるのだろうと分かったし、だいたい管理職は僅かばかりの手当てと引き換えに経営陣の意を汲むことを強いられ、売上のために部下をこき使い、それでも足りない分を自身の無茶な働き方によって補うだけの立場であるのだから決してやりたくないと思ったものの、悩んだ末に引き受けたのは、自らが権限を持つ営業二課だけでも健全な職場環境にしてみせようと考えたからだった。
「家で仕事してもいいですかね?」
 部下の一人が云った。
「そんなことしたら早く帰る意味がなくなっちゃう。リモートワークは賛成だけど、業務を終えたのならもう仕事の事は一ミリも考えちゃ駄目。しっかり切り替えて、翌日集中するほうが効率的だって研究もあるんだから」
 蛍は呆れた表情で答えた。会社には指示をそのまま対応しておけばよいのだという考えの者が一定数いて驚かされるが、質問してくれただけましなのかもしれない。
「週明けのプレゼン資料がまだ一ページもできていないんです」
 その部下が不安げに云った。蛍は深く頷くことで理解しているという素振りをした後、首を横に振った。
「Aストアのプレゼンだよね。苦戦しているのは知ってるけど無理はしなくていいよ。もし間に合わないんだったら、プレゼンの日程を変えてもらえばいいんだから」
「でもお客さんには既に日程の確定を連絡してしまっていて」
「だから変えてもらうの」
「こちらの都合でですか?」
「そう」
「とても無理です。そんな失礼な事」
「私は睡眠不足の頭で考えた提案書のほうが失礼だと思う」
 蛍は課長になる前はひとり自らの考えを実践してきた。日中は私語もスマホ閲覧を控え、営業活動は電話やリモート会議を積極的に取り入れることで効率化した。そのうえで取引先との会議の準備が間に合わないとなれば、より良いものを作るためという名目で躊躇なくスケジュールだって変更してきたのだ。
「帰ります。帰りますから」
 無言で見つめる蛍の圧に屈した部下たちがようやく立ち上がる。蛍は「お先です」とフロアに頭を下げた。
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