第8話 切迫時の入浴剤の必要性

文字数 1,525文字

 蛍にはそつなく仕事をこなす優秀な丹羽が追い詰められる理由は分からなかったが、周囲の期待に応えようと熱心に働いたあまり心や身体が蝕まれてしまったのだろうと想像し、何故仕事ごときにそう一生懸命になってしまうのかと思う。
 仕事は所詮、人生を豊かにするための手段の一つでしかなく、もちろん報酬をもらうのだからまったく辛い瞬間を伴わずにやりきれるとはいわないが、辛くなったのなら周囲に助けを求めるか逃げるかすればいいのであって、蛍としてはその日のうちに解消しきれない疲れが残るような働きかたは無益だと考える。
「入浴剤持ってきてあげればよかった」
 蛍が脈絡なく急に云ったので慎二や運転手を驚かせた。入浴剤というのは、身体の緊張を和らげるという稀有なミネラルを含み心を穏やかにする効果を持つ香りを放つアフリカ産の石が混ぜられたもので、SNSで話題になっているのを蛍が見つけ大量購入していたため、いくつか丹羽にプレゼントするのがよいだろうと思いつき、彼の自宅に向かうのなら持ってくるべきだったと考えての発言だった。
「本当に彼が飛び降りようとしていたのなら、もっと状況は深刻なんじゃないかな」
 慎二は呆れたようにそう云って、触っていたスマホに視線を落とした。
「深刻だから必要なんだよ。追い込まれた人って気分転換ひとつできなくなっているんだと思う。例えば、スマホだってね、本来は暇つぶしに使えばいいものなのに、暗い話題にばかり目が行って余計に追い込まれてしまうようなことになっているんじゃないかなって。だから、丹羽君がお風呂好きなのかどうかは分からないけれど、日常じゃないのなら余計に、あの入浴剤は本当にリラックス効果が高いから騙されたと思って試してもらって、そういうのが状況が好転するきっかけになってくれるんじゃないかと思ったんだ」
 蛍は至極真面目に云った。慎二は頷きながら聞いていたが、スマホから目を離さずで、蛍はそれが気に入らず横から覗き込んだ。彼の仕事である株式投資をやっているのか、もしくは趣味である歴史ゲームに興じているのか、もし後者であるなら文句を云うつもりだったが、彼は慌てた様子で運転手に声を掛けた。
「すみません、Uターンしてください。行先はツヤダラ食品です。急いでください」
 慎二は蛍に相談することなくそう指示し、狼狽えた運転手が路肩にタクシーを寄せる間に意図を話し始めた。
「丹羽って人のマンションを住所と建物名から調べてみたんだ。賃貸情報サイトに載っていたよ。それで分かったのは、彼のマンションが二階建ての低層マンションだってこと。つまり、彼が自宅にいて屋上にいるなら二階の高さ。飛び降りの場所に選ぶにはちょっと低いと思わない? 大怪我にはなるだろうけど、僕ならもっと高いところを選ぶ。確実なところに行くと思うんだ。となると自宅じゃなく、会社にいる可能性が高くなる。ビルの屋上が施錠されているということだから、どこかの窓からとか、鍵をどうにかして手にいれたのかもしれない。確証はないけど僕らが思いついている場所のうちで、今向かうべきはツヤダラ食品なんじゃないかなってこと」
 蛍は丹羽の住まいがスカイパレスというマンションであると知り、それなりに高層の建物だと決めつけていたが、慎二の調べと彼の考えを聞いて納得し、一切の異論はなかった。会社の前に到着したら、夜間通用口から入って、最上階である七階に直行しよう。屋上への入口が開いていれば彼はそこにいる。柵に手をかけ南の空を見上げているのだ。
 タクシーのフロントガラスに見慣れた風景が映し出された。突き当りを右折してすぐのところがツヤダラ食品の入るビルである。視界の正面にオリオン座がはっきり見えた。
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