第10話 霊宮

文字数 8,216文字

 ある意味、最初のつがいは双子の妹だった。
 けれど彼女は、レティシアは私から引き剥がされて、死んだ。
 数年後、太子の添臥(そいぶし)

)としてやって来たセシリア。
 私は彼女を気に入っていたけれども、彼女は私の本性を見て、バケモノと叫び、逃げ出していった。
 私は――今度こそ手放さない、と。
 この黒蛇を手放しは、しない。

   ◇ ◇ ◇

「っ……セシリアぁっ!」
 一度は妻にと望んだ相手だったが、もはや躊躇なく、レイシアは、折れた槍で彼女ののどを突いた。
 首全体を覆っていた鎖帷子は破け、衝撃に面頬が飛び、かぶとは重い音をたてて、石畳の上を転がっていく。
 セシリアは膝をつき、自身の鎧の重さに耐えられず、倒れた。
 歓声とともに、アルゼン兵が集まってきたが、すべて無視し、片腕に抱いたティファレトを見る。
 わき腹に深く、セシリアの剣が突き通され、持ち主がこれを引き抜こうとした結果、傷口は無残に割り裂かれていた。
「起きて! ティファレト、しっかりしてください!」
 なぜ前線に来たと、責めるつもりはない。この娘が割って入らなければ、セシリアの剣は、レイシア自身の命を絶っていたはずだ。
「そんなに揺らすな、内臓がまずいことになる」
 アギトが、平手で、レイシアの頬をかるく叩いた。
「この傷、長距離の移動は、できん。動かさないのが一番いいが、夜間に外に出してもおけん。感染症が怖いからな。すぐそこの空き倉庫を使う。剣は、まだ抜くな、医者にまかせるんだ。……ああ、担架を作れ、棒二本と上着の何枚かで足りる。揺らすんじゃあ、ないぞ」
 アギトの声は落ち着いていて、信頼おける。
 彼の誘導のままに、ティファレトを運んだ。
「――伝令は、飛ばした。じきに医者と、あの片眼鏡も来る」
 空き倉庫は戦にそなえて、必要最低限の毛布や、食糧、水が置いてあった。矢の数本が入った空箱をふたつ並べて、寝台をつくる。
 その作業が終わると、アギトが立ち上がった。
「女王を斃した功労者だ、多少は融通する。だが、俺も国も、おまえさんだけに、かまっていられない。これで勘弁してくれ」


 一日、二日と時間は過ぎる。
 戦後処理で国全体が慌ただしかったが、唯一、この倉庫内は静かだった。
「これは、まずいですね」
 静寂のなか、ユーグが口を開いた。
 ただティファレトの手を握っていたレイシアは、男を見上げた。
「各種縫合は完璧、傷口もふさがりつつは、ある。さすが、くちなわ族と言いたいところですが、」
 片眼鏡をはずしたユーグは、こめかみを揉みほぐした。
「このまま意識が戻らなくては、脳が先に死ぬでしょう。そのあとで、体も死ぬ」
「そうか」
「冷静ですね」
「医術の心得が、ない。どうしていいのか、わからない。レティシアのときと同じだ」
「ちがうでしょう。いつでも、あなたの隣にいた妹君は、心臓を持っていなかった。あなたの心臓に、寄生していたからだ。だから、あなたから切り離されたとき、死ぬより他になかった」
「ああ」
「ですが、ティファレトは、ちがいます。あなたが隣にいなくても、彼女は生きていけるはず」
「何が言いたい?」
 従者が回りくどいことを言い始めたので、レイシアは単刀直入に訊ねた。
霊宮(れいみや)に、助力を願っては? 蛇の道は、蛇というでしょう」
「…霊宮に?」
「この世の始まりから終わりまで生きている存在ならば、あるいは。少なくとも、ここで死にかけている黒蛇に寄り添って、ほうけているよりは建設的でしょう」
「しかし、私は国外追放の身だ、あれが一時でも解除されない限り、クロイツ本土に戻ることは、できない」
「この土地にも、霊宮はいるでしょう。霊宮アルゼンが」
「アルゼンの霊宮」
 ああ、とレイシアはようやく膝を叩いた。
「そうか。アギト議長の住まいを探せば、霊宮への入口は見つかるはずだな」
「べつに、あそこまで、行かなくても、離宮(はなれ)の、」
「どこにあるかもわからない非常口などより、こちらのほうが楽だ。ユーグ、あとを頼む」
 言うが早いか、レイシアは飛び出していった。
「……離宮の入口、実は、ここにあるんですけどね」
 残ったユーグは、積み上げられた木箱の陰にある落とし戸を一瞥した。
「そのほうが、おもしろくなりそうなので、べつにかまいはませんが」


 アギトの住まいは、いつも以上の賑わいを見せていた。
 戦勝の祭の打ち合わせやら、傷病軍人や寡婦の手当、家屋損壊の訴えなど。
「レイシアさん、大手柄でした」
 顔なじみの門衛に声をかけられる。
「議長閣下は、どちらに?」
「表玄関は長蛇の列です。ご用があるなら、裏庭のほうへ回ってください」
 声を低くして、門衛が耳打ちしてくる。セシリアを討った功績により、特別待遇を受けているらしい。
 屋内は、さらに混雑していた。
「ああ、一番の立役者が来たな」
 階段付近で、立ち話をしていたアギトが、レイシアを手招きしている。
「そう。こいつが、セシリア嬢を斃したレイシアってのだ」
「おまえ、」
「盗賊王の甥御どの、でしたか」
 招かれ、紹介された相手は、リィゼン盗賊国の王子だった。
「なんだ、世間てのは、せまいな。うちのお茶くみ娘も、知っていたし」
 アギトがふと真顔になる。
「忙しくて、忘れていたな。ティファレトの容態は?」
「は?」
「意識が、まだ戻りません」
「…あー。あいつか。あいつが、どうしたって」
「私をかばって、重傷です。意識不明の状態に」
「はあ? なんでだ? 女が前線に出るほど、兵隊不足だったのか?」
 詳細をアギトが説明すると、シェンナが顔をしかめた。
「自業自得じゃあ、ないか。鎧なし、武器なしで前線に出る女が悪い」
 指摘そのものは正しいが、レイシアは苛立った。
 よりにもよって、この少年にだけは言われたくない。
「あなたがっ」
 反射的に、握りこぶしを突き出した。
 それを横から、議長がたたき落とし。少年は、後ろに飛び退くと同時に、剣に手をかける。
「おまえさんは、たしかに功労者だ。が。たかが一兵卒が、盗賊王の甥に手ぇ出すんじゃねえ! こっちの国事情に影響すんだよ!」
 大喝し、次にシェンナをにらむアギト。
「口を開くまえに、頭使えや。そんなだから、おまえは、金でしか軟派できない、貧相な男になっちまうんだ」
「女は関係ないだろ!」
「おまえ、最近、ルヴァンの真似してんだってなあ。女遊びしても、あいつの百分の一にも近づけん器だぞ」
「………………」
「………………」
「目は覚めたか。じゃあ、おたがい言うことはあるな? ん?」
「わるかったな」
 意外にも、少年は素直に謝罪した。
「いえ。こちらも、精神的に詰まっていたので」
 レイシアもまた、ばつ悪く、髪をかき上げた。
「港の、十八番倉庫で伏せっています。お見舞いに行ってあげてください。意識はなくても、きっと彼女は喜ぶから」
「よし、話はまとまったな。ああ、そうだ、おまえさんの報奨金が未払いだ。これから、」
「アギト議長! 議員の方が、」
「わるい。明日また出直してくれ。おい、坊、おまえも来い」
「あ?」
「ルヴァンの跡継ぎになる気なら、うちの会議に出てみろ。これも勉強だ」
「おい、銀髪。十八番倉庫だな?」
 猫のように襟首をつかまれた少年は、議長に引きずられて、会議室へと消えた。
「……とりあえず、議長は、あと一、二時間は拘束される、か」
 今ならば霊宮で鉢合わせということは、ない。
「霊宮は、かならず地下だ」
 忙しく立ち働く振りをして、館内の探索を始める。
 やがて緋色の絨毯のうえに、血色の斑点を発見した。
「セシリアの首か」
 ――島国同士を一時的ではなく、永遠に結びつけるには、敵国の王将の首ひとつか、国民全員をいけにえに捧げる、というのが、この世の倣いだ。
 血痕に気づけば、あとは簡単だった。
霊宮は、王将の住まう場所の地下か、あるいは離宮と呼ばれる遠方に出入口がある。
 大量のいけにえを処理するなら、順次、離宮に放り込まなくては、時間がかかる。だが、王将の首ひとつで終わるなら、王将の住まいに運び込んでも、問題はないだろう。
 ――血痕をたどり、行き着いた先には、空箱ばかり置いてある倉庫だった。
 既視感を覚えつつ、靴裏で床を叩きながら歩く、と、一カ所、音が変わった。丹念に調べると、偽装された落とし戸を発見する。
 そこから長い、地下への階段を進み、最下層で鉄格子に行き当たった。
「ここだ。ここがアルゼンの霊宮」
 鉄格子に手をかけもせず、そのまま直進する。
 それは、レイシアの邪魔を決してしなかった。何もなかったかのように、するりと通り抜ける。
 鉄格子の次に扉があったが、これは手で押し開いた。
 内部は、青白い光が満ちる石室で、光は、波のように揺らいでいた。光源は、すぐそばの井戸だ。
「我が背、我が君の許しなく、霊宮に入ることができるのは、」
 朗々と歌うような声が響く。
「くちなわのみ」
 井戸のなかから、裸の女が這い出て、レイシアのほうを見た。
「……おんし、まさか」
 井戸の女は、レイシアを凝視したあと、首を振る。
「よもやクロイツと戦うことなく、クロイツの息子を見るとは、思わなんだ」
「霊宮アルゼンは、母と面識ありましたか」
「知るも何も、我ら霊宮はみな、姉妹のようなもの。おんしが生まれたとき、波の下では、大騒ぎであった」
 濡れた青い髪を顔の左右に撫でつけて整え、霊宮アルゼンと呼ばれた女は、表情を曇らせた。
「霊宮は、島国ひとつ背負い、大海を泳ぐ者。いわば国土そのものを夫とし、国民は皆、実の子同然。それを霊宮のまま、王将の子を孕むとはな」
「……素行に問題のある父でしたが、母を愛していたとは思います。それだけは嘘とは思えません」
 あの夫婦に、愛はあったと思う。代わりに、正妃とその息子は――
「うらやましいこと。アギトは、わらわには、つれないのだぞ」
 霊宮アルゼンは、声をあげて、笑った。
「しかし、合点いった。おんしの顔、吉相だ。クロイツは、その胎から、英雄を生み出し、上帝の卵をつくったのだな」
「卵……上帝の候補となる英雄のことですか。それは自分には、わかりません。現に、私はこの世すべての救世主でなく、大事なひと一人の命を助けたいのです」
「はて。医者ならば、地上にたっぷりとあろうに。なぜ、わらわのところに?」
「そのひとは、」
 レイシアは、井戸のへりに優雅に座る、女を見た。
 座るといっても、彼女の腰から下にあるのは、途方もなく長い蛇の胴。これははたして、座っているといってもよいのだろうか。
「あなたと同じ、半人半蛇の女性です。黒い鱗の、雌蛇」
 アルゼンの表情がふたたび凍りついた。
「なんてこと! 黒蛇の、雌ということは、名は、ティファレトで間違いないか?」
 名前を言い当てられても、レイシアは動揺しなかった。
「生きていたとはな。あれは不完全な玄女ゆえ。どこかで野垂れ死んだかと」
「話の腰を折るようですが、彼女の氏素性に興味はないのです。瀕死の、くちなわの娘を治療する方法を、私は知りたい」
「経緯を訊ねても、よいか?」
「私がセシリア……フロイデンの女王と戦っている最中、窮地に陥ったところで、彼女が割って入ったのです。結果、私は生き延びてセシリアの首を落とし、ティファレトは意識不明に」
「なるほど。フロイデン女王のセシリアに傷つけられたか。あれも、うちのアギト同様、英雄であった」
 霊宮アルゼンは、自身の腹を愛しげに撫でている。――すでに、セシリアの首は、その腹のなかで消化されてしまったのだろう。
「では、黒くちなわの娘が瀕死となるのも、うなずける」
「そうなのですか?」
「玄女というものはな、上帝の卵――英雄になつく。そして彼らに傷つけられることを一番きらうのだ。好ましく思う相手に、おまえは不要だと言われれば、殻に閉じこもってしまうのよ」
「……私は、もう二度と片割れを、つがいにと願った相手を失いたくありません。どうぞ、お導きを」
「霊宮に懸想した男の息子が、今度は玄女を望むのか。つくづく因果な父子だのう。……おお、こわ、睨むでない。うらやましいだけだ」
「――ずいぶん賑やかだと思ったが、驚いたな、こりゃあ」
 振り向くと、アギトが石室――霊宮に入ってくるところだった。
「アギト議長……」
「我が君、何日ぶりだろう。二日ほどかえ?」
「おい、アルゼン。おまえか、こいつを霊宮に入れたのは」
「まさか! あの格子をくぐり抜けられるのは、我が君と、それが認めた者。そして、くちなわのみと常々、」
 アギトは、霊宮アルゼンとレイシアを交互に見た。
「くちなわってのは、あれだ、おまえさんと同じ、下半身が蛇の獣人だろ」
「成体になれば、姿かたちは、人間と変わらぬぞ」
「てことは、レイシア、おまえさんは、」
「私は、純血のくちなわでは、ありません。クロイツ王兵師団の前総長レドリックと、霊宮クロイツのあいだに生まれた、亜種です」
 アギトが、ぽかんと口を開けた。彼にしては、めずらしい表情だ。
「ああん? てことは、アルゼンよ。おまえら霊宮は、こんなご立派な坊主を生むのか? 聞いてないぞ」
「問われぬゆえ、わざわざ答えなかった。それだけのことよな」
「根性ねじ曲がってんな。おい、レイシアよ、よその霊宮も、こんなふうに性格が悪いのか?」
「母以外の霊宮のことは、知りませんが、たしかに口が軽いほうでは、なかった」
 官僚時代のユーグが好奇心を満たしたいばかりに、母にあれやこれやの疑問をぶつけていなければ、彼女は何も話さなかっただろう。
「アルゼン様と同じ顔かたちでしたが、性格や口調、雰囲気は……まあ、ちがいましたね」
「だとよ」
「失礼な、我が君ほど、性悪でないわ」
 言動とは裏腹に、霊宮アルゼンの声は、楽しげだ。そのやりとりは、どこか両親を思い出させる。
「議長閣下、無断で、この国の霊宮に侵入した件、お見逃しください」
「順序をまちがえるなよ、この悪たれ」
 アギトは眉間にしわを作った。
「理由も聞かないうちに、誰が許すかい。まったく。おまえさんといい、坊といい、最近の若いのは、礼儀知らずでいけねえな」
「これの愛しの姫が傷つき、意識がないと、思いあまってのことじゃ。最近の若いのは、愛だの恋だのと、かわいらしいこと」
 レイシアの窮地を見かねて、霊宮アルゼンが擁護を始めた。
「彼女は、くちなわです。同じ半人半蛇の霊宮なら、彼女を癒やす方法を知っているかもしれないと思い、」
「ああ!? おまえさん、ティファレト以外の女にも手ぇ出してんのか」
「ティファレトが! くちなわなんです!」
「なんだ、そういう……ん? ちょっと待て。ということは、」
 アギトは頭を掻いた。
「ありゃあ坊が飼っていた、蛇っこかよ。名前が同じだとは、思ってたが」
「玄女と呼ばれる、黒くちなわの雌は、この世にただ一匹」
 アルゼンが口をはさむ。
「これまでに赤眼のゲブラーが現れておるな。もっともゲブラー以外の名が残っていない。みな、本来の役目をはたせず、朽ちていったのだろうよ」
「あーあーあー、わかった、もうわかった。つまり、創世神話のあれだな。全部の島国くっつけて空に打ち上げて、玄女ってのを嫁にすると、上帝って名前の神さまになれるっての」
「およそ、そうだ。ひとつ、ふたつ、語弊はあるがの」
「伝説の玄女さまってのが、ティファレトなんだとしたら、あれだな、」
 石室の入口の扉に背をあずけていたアギトは、右足のかかとで、がんと扉を蹴った。
「何もかも、却下だ。おい、アルゼン、俺はアルゼンの王将として、ただちに命じるぞ。『アルゼン国内において、玄女を救う方法を知る者は、レイシアにその内容を話してはならん』とな」
「っ……何を!」
「アギト! おんし、たった今、上帝の吉相を失ったわ! 今後、何があろうと、おんしは上帝にはなれんぞ!」
「そんなもん、誰がなるかい! 俺はな、世界の、全島国の統一なぞ、いかれ野郎のすることだと思っている。だが、本当に玄女が現れてみろ、この世に安住の地はないぞ」
 霊宮アルゼンの金切り声に対し、アギトが怒鳴り返す。
「私は、世界征服など、望んでいません」
 レイシアは怒鳴り返したが、アギトは小指を片耳にいれ、そこを掘った。
「おまえさんでなくとも、他の誰かが、だ」
「私はただ、ティファレトを失いたくなくて、」
「ガキの恋愛事情なぞ、知るかい。俺は、おまえさんの親父じゃあ、ない。一国を預かる、王将だ」
「………………」
「世界を統一すれば平和になると、本当に思うか? 国なぞ小分けにして、林立しているほうが都合いい。ちがっているからこそ競い、助け合える。一国が滅んでも外国に逃げ出せるなら、まだ、どうにか生きていける」
 だが、と。アギトは一呼吸おいた。
「玄女の存在は、くだらん幻想をかき立て、そのうち世界を滅ぼす。――死にかけた女にわざわざ、とどめを刺す気はねえが、見捨てるくらい、わけもない」
「わらわも女ぞ!」
 アルゼンが怒鳴った。
 その悲痛の叫びに、レイシアもアギトも硬直した。
「合理主義の、おんしからすれば、さぞ滑稽だろうな。……今日ほど、霊宮クロイツが、玄女ティファレトが、うらやましいと思ったことは、」
 井戸のへりに座っていたアルゼンが、ずるりと水面に腰を落とした。
「今日はもう、誰の顔も見とうない」
 ぽちゃんという水音とともに、アルゼンは井戸のなかへ沈んでいく。
 その波紋は、石室に満ちる青白い光も揺らめかせた。
「出て行け! このまま、霊宮に海水引き入れて、水没させる。男ども、土左衛門になりたくなければ、早う地(う)上(え)へ帰りや」
 実際に、井戸は大量の潮を噴出した、
 海水が満ち始めた地下室から、レイシアとアギトは、息せき切って逃げ出した。


 ――霊宮から有用な情報は得られず、アギトからは出入り禁止を言い渡され、さらには借りていた倉庫から数日内に出て行けと命じられる結果に終わった。
 海水を含んで重くなった裾を引きずるように。倉庫街へ戻る。
 戦争にそなえ、移動していた物品がふたたび倉庫街に戻って、ここも賑やかになるだろう。
 しばらく視線を落として歩いていたが、仮の宿の前に、三人の人物が待っていた。
「ユーグ……?」
 自分の従者と、盗賊王の甥と、かつてその愛玩動物だった娘が、そろって倉庫の入口にいる。
 どういうわけか、ユーグは全身ずぶ濡れ、けが人を抱いたシェンナは膝あたりまで、服を湿らせている。
「何が、」
「たった今、倉庫内で、津波が起きましてね」
 ユーグが、にやりと口角をあげて、笑った。
「とっさの運動能力と、反射神経の差で、僕だけ、このとおり」
「わるかったな。俺は非力だから、女子供しか運べないんだよ」
「怒っていませんよ。むしろ愉快で、愉快で、」
「さっきから、こんな感じで、にやついてやがる。こいつ、頭おかしいのか?」
「ユーグは、それが正常です。おもしろがりなだけで」
 シェンナま率直すぎる言動に、レイシアは苦笑した。そして、ティファレトの顔をのぞき込む。目覚める様子は、ない。
「首尾は、いかがですか?」
 従者に訊かれ、レイシアは首を振る。
「議長の横槍が入った。もう霊宮からは――ユーグ、何がおかしい?」
「これを」
 片眼鏡の男は、硝子の小瓶を、上着の隠しから取り出した。
「倉庫の床下から突然、海水が噴出して、大波になったのですが。その波をかぶった際、僕の頭をぶん殴ってくれた瓶です」
「なかに、手紙が……」
「確認しました。蛇がのたくったような文字で。レイシア様あてです」


『先ほどは失礼した
 あの権柄づくには ほとほと愛想つきた
 しかしながら霊宮にとって おのが王将は夫同然
 ゆえに玄女の救命について話すことは まかりならぬ
 だが話すな と命じても 書くな とは言うておらん
 最近は 様々なものが海底に落ちておるな?

 クロイツの息子に届くものと信じて 記す
 マルセル上帝の生国たる世界の中心の島へ行け
 わらわに救命の知識はないが 島に住む夫人に訊ねてみよ
 かの方こそ 世の始まりから終わりを知る者ゆえ

 追伸――
 波間に伝え聞いたところによると
 おんしの弟がクロイツの王将として立ったそうじゃな
 母親が あんまり国が大きくなったので 肩と背の痛みがひどいと嘆いているそうだ
 娘を失い 息子は国外追放 頼りの夫も亡くした女だ

 おんしが生きてふたたび 母国の土を踏めるよう 祈る』
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