遠い親子
文字数 1,967文字
遠くから、はるか遠くから聞こえてくる声。どれくらい経ったのか、忘れてしまうほど、ずいぶんと長い時間が過ぎ去った。
あなたはまだそこにいて、僕を呼んでいる。あなたはまだそこにいて、僕を探している。あの頃の僕は、もういないのに。あの頃の僕は、僕ですら見失ってしまった。あの頃の素直さを求められたら、あなたをお世話できなくなる。あなたが探している僕が大人になり、目の前にいるのに、あなたは大人になった僕に気づくことなく、あの頃の僕を探している。
思い出は時に重く、切ない。
僕はあなたが母であると認識している。あなたは僕が息子であることを認識していない。
看護士さん、悪いわね。
僕は週末になると、懐かしい商店街を抜けて実家に向かう。
看護士さん、ありがとう。
気づかれないほうが楽だから、僕は「看護士さん」と呼ばれても笑ってお世話する。母が僕を僕として認識しなくなって久しい。毎週末通っていれば、何かの拍子に思い出すのではないかと期待して、積極的に昔話をした頃もあったが、母は目の前の僕にあの頃の僕の話を聞かせてくれるばかりで、僕と母の僕とは違う存在なのだと思い知らされ、次第に看護士に徹するようになった。
僕も、あの頃のあなたを探している。亡くなった父は優しく、あなたは厳しかった。躾はほとんどあなたからで、ずっと怖い人だった。叩かれることはなかったが、食事を抜かれ、押し入れに閉じ込められことはある。今となっては懐かしい。優しかった父との思い出はほとんど覚えていないのに、厳しかったあなたとの思い出は消えていない。
厳しかったあなたが、今はいつも笑顔でいる。悪いわね、ありがとう、と優しい言葉をかけてくれる。あなたは変わってしまった。僕の知っているあなたとは大きく違う。でも、とても楽しそうだから、僕は嬉しい。変わったのに、あなたはあの頃にいる。
昼ご飯に茹でた素麺を食べさせ、昼寝を見届けると、住み慣れた家を出て、子供の頃に良く遊んだ公園に向かう。いつものように途中のコンビニでメロンパンと微糖缶コーヒーを買って。子供の頃からメロンパンが好物なのだ。公園のベンチに座り、あの頃のあなたと僕を探す。
あなたに手を引かれ、ほぼ毎日連れて来てもらった。滑り台、ブランコ、砂場で夕暮れまで遊んだ。自転車に初めて乗れたのもこの公園だった。
あなたは憶えていますか?
ベンチは大きな樹の下にあって、ちょうど陽射しから守られる。
男児が山鳩を追いかける。頭が重すぎて、転んでしまいそうではらはらする。彼の全力で追いかけるが、本気で捕まえるのではなく、山鳩と遊んでいるようにしか見えない。
「鳩さんがかわいそうでしょ」
母親の正論は、男児には届かない。気にせず、山鳩と追いかけっこを続ける。山鳩もさっさと飛んでしまえばいいのに、なかなか飛ばずに、いつまでも走って逃げ回る。僕からは、山鳩も楽しんでいるようにしか見えない。彼らは僕には分からない会話をしているのかもしれない。
「こうくん、鳩さんがかわいそうでしょ」
山鳩を追いかけるのをやめさせるため、母親が男児を追いかけ始める。山鳩を男児が、男児を母親が追いかける。山鳩は男児から逃げ、男児は母親から逃げる。
「ママこないで、きちゃダメ」
「こうくん、待って」
僕はメロンパンを齧りながら、一羽と二人を眺めている。みんな、追いつく気はなさそうだ。でも、追いつかれないように必死に逃げる。捕まえることではなく、文字通り追いかけっこを楽しんでいる。男児と母親は笑顔だ。たぶん、山鳩も笑っているような気がする。
僕と母との追いかけっこは逆で、母が逃げ僕が追いかけるのだ。母はわざと止まって、捕まえられそうなるとまた走り出し、速さを緩めたりしながら、僕がへたりこむまで追いかけさせてくれた。男児が僕の年齢になる頃に、今の僕と同じように看護士さんと呼ばれるかもしれないと思うと、今の光景をしっかりと思い出に焼きつけて欲しいと願う。また、そのようにならないことを祈る。
「すみません、仲間に入れてください」
僕も追いかけたくなる。それくらい楽しそうなのだ。僕がベンチから立ち上がり、追いかけっこに加われば、母親が警官を呼ぶだろう。僕は警官に追いかけられる。そうしたら、きっと捕まるだろう。捕まえることを目的とした追いかけっこではないのに。
それでも、腰が浮きかける。だけど、このまま母親を追いかけたら、母の介護に戻れなくなってしまう。
いや、待て。もっと頭を使え。
母親の後ろではなく、山鳩の前に加わったらどうだろうか。僕を山鳩が追いかけ、山鳩を男児が追いかけ、男児を母親が追いかける。それなら、警官に追いかけられることはないだろう。
僕は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がる。
屈伸して、アキレス腱をしっかりと伸ばす。
あなたはまだそこにいて、僕を呼んでいる。あなたはまだそこにいて、僕を探している。あの頃の僕は、もういないのに。あの頃の僕は、僕ですら見失ってしまった。あの頃の素直さを求められたら、あなたをお世話できなくなる。あなたが探している僕が大人になり、目の前にいるのに、あなたは大人になった僕に気づくことなく、あの頃の僕を探している。
思い出は時に重く、切ない。
僕はあなたが母であると認識している。あなたは僕が息子であることを認識していない。
看護士さん、悪いわね。
僕は週末になると、懐かしい商店街を抜けて実家に向かう。
看護士さん、ありがとう。
気づかれないほうが楽だから、僕は「看護士さん」と呼ばれても笑ってお世話する。母が僕を僕として認識しなくなって久しい。毎週末通っていれば、何かの拍子に思い出すのではないかと期待して、積極的に昔話をした頃もあったが、母は目の前の僕にあの頃の僕の話を聞かせてくれるばかりで、僕と母の僕とは違う存在なのだと思い知らされ、次第に看護士に徹するようになった。
僕も、あの頃のあなたを探している。亡くなった父は優しく、あなたは厳しかった。躾はほとんどあなたからで、ずっと怖い人だった。叩かれることはなかったが、食事を抜かれ、押し入れに閉じ込められことはある。今となっては懐かしい。優しかった父との思い出はほとんど覚えていないのに、厳しかったあなたとの思い出は消えていない。
厳しかったあなたが、今はいつも笑顔でいる。悪いわね、ありがとう、と優しい言葉をかけてくれる。あなたは変わってしまった。僕の知っているあなたとは大きく違う。でも、とても楽しそうだから、僕は嬉しい。変わったのに、あなたはあの頃にいる。
昼ご飯に茹でた素麺を食べさせ、昼寝を見届けると、住み慣れた家を出て、子供の頃に良く遊んだ公園に向かう。いつものように途中のコンビニでメロンパンと微糖缶コーヒーを買って。子供の頃からメロンパンが好物なのだ。公園のベンチに座り、あの頃のあなたと僕を探す。
あなたに手を引かれ、ほぼ毎日連れて来てもらった。滑り台、ブランコ、砂場で夕暮れまで遊んだ。自転車に初めて乗れたのもこの公園だった。
あなたは憶えていますか?
ベンチは大きな樹の下にあって、ちょうど陽射しから守られる。
男児が山鳩を追いかける。頭が重すぎて、転んでしまいそうではらはらする。彼の全力で追いかけるが、本気で捕まえるのではなく、山鳩と遊んでいるようにしか見えない。
「鳩さんがかわいそうでしょ」
母親の正論は、男児には届かない。気にせず、山鳩と追いかけっこを続ける。山鳩もさっさと飛んでしまえばいいのに、なかなか飛ばずに、いつまでも走って逃げ回る。僕からは、山鳩も楽しんでいるようにしか見えない。彼らは僕には分からない会話をしているのかもしれない。
「こうくん、鳩さんがかわいそうでしょ」
山鳩を追いかけるのをやめさせるため、母親が男児を追いかけ始める。山鳩を男児が、男児を母親が追いかける。山鳩は男児から逃げ、男児は母親から逃げる。
「ママこないで、きちゃダメ」
「こうくん、待って」
僕はメロンパンを齧りながら、一羽と二人を眺めている。みんな、追いつく気はなさそうだ。でも、追いつかれないように必死に逃げる。捕まえることではなく、文字通り追いかけっこを楽しんでいる。男児と母親は笑顔だ。たぶん、山鳩も笑っているような気がする。
僕と母との追いかけっこは逆で、母が逃げ僕が追いかけるのだ。母はわざと止まって、捕まえられそうなるとまた走り出し、速さを緩めたりしながら、僕がへたりこむまで追いかけさせてくれた。男児が僕の年齢になる頃に、今の僕と同じように看護士さんと呼ばれるかもしれないと思うと、今の光景をしっかりと思い出に焼きつけて欲しいと願う。また、そのようにならないことを祈る。
「すみません、仲間に入れてください」
僕も追いかけたくなる。それくらい楽しそうなのだ。僕がベンチから立ち上がり、追いかけっこに加われば、母親が警官を呼ぶだろう。僕は警官に追いかけられる。そうしたら、きっと捕まるだろう。捕まえることを目的とした追いかけっこではないのに。
それでも、腰が浮きかける。だけど、このまま母親を追いかけたら、母の介護に戻れなくなってしまう。
いや、待て。もっと頭を使え。
母親の後ろではなく、山鳩の前に加わったらどうだろうか。僕を山鳩が追いかけ、山鳩を男児が追いかけ、男児を母親が追いかける。それなら、警官に追いかけられることはないだろう。
僕は缶コーヒーを飲み干して、立ち上がる。
屈伸して、アキレス腱をしっかりと伸ばす。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)