野球と僕、ときどき妹

文字数 1,996文字

 妹が生まれたのは、高校二年生の五月五日で、十七年前の五月五日に生まれた僕と同じ誕生日だから、誕生日だけは直ぐに覚えたけれど、兄妹という意識はなくて、三人目の親みたいな気持ちだった。
 甲子園出場を目指し、高校から他県で寮生活を始めていたので、会う機会はなくて、母からのメールに添付された写真で顔を確認するくらい。とにかく野球優先で、二年生の夏には一塁手のレギュラーとなり四番を任されて決勝まで進んだが、決勝戦では二年連続で甲子園に出場しているドラフト候補の相手投手を打てずに、完敗だった。4打数ノーヒット3三振。あと一歩が遠いと痛感した僕は、盆休みも実家に戻らず、練習に明け暮れた。
 新チームで主将となった僕は秋季大会で打ちまくり、県大会を制し、地方大会でも準優勝したので、春の甲子園出場はほぼ確実となった。

 年末年始は寮が完全に閉まるので、全員が帰省する。僕も一年ぶりに実家に戻った。
「ほら、にいにいが帰って来たよ」
「へぇ、実物はこんなに小さいんだなぁ」
 母から妹を渡されて腕に抱くと、あまりの軽さに驚いた。写真では分かるはずもない。
「じいにい、じいにい」
「じいにい?」
 微妙だが、その時初めて自分が兄になったことを実感した。
 年末年始は、妹と遊び、草野球チームで監督兼一塁手の父とキャッチボールをして過ごした。

 三学期が始まると、帰省していた一年生エースが、地元で飲酒問題を起こしたことが判明し、春の甲子園は辞退することになった。責任を感じたエースは退部したが、それで心の整理がつくものではない。僕らは、不祥事高校のレッテルを張られて、一度落ちた士気はなかなか上がらなかった。
 
 下級生エースを失った僕らは、夏の大会を前にようやく一丸となり、三年生の意地を見せて二年連続で決勝戦に進んだ。相手は昨年完敗を喫した甲子園常連校だが、秋季大会では勝っている。ただ、その時のエースはいないので、継投で挑むしかなかった。春の悔しさを晴らすべく、僕も5打数2安打3打点と責任を果たし、5-4とリードして、9回裏の守備に。家族も応援に来ており、気合が入った。2アウトランナーなし。あと一人で念願の甲子園だ。サードゴロになり、僕はウイニングボールを受けるべく、ファーストミットを構えた。スリーアウト、ゲームセット。僕は飛び跳ね。マウンドへ向かった。
「セーフ」
 背中で塁審の大きな声が聞こえた。
 応援団も両ベンチも静まり返っている。僕は全速力で一塁に戻った
「捕球前に、足がベースから離れていたから、セーフです」
 捕球を噛み締めれば良かったのに、歓喜のフライングをしてしまったらしい。集中力が切れた投手は、続く打者に二塁打を打たれて同点、延長10回の裏に三塁打を打たれ、スクイズでサヨナラ負け。僕の野球人生は終わった。

 夏休みは実家に戻った。大学で野球を続ける気力もなかったので、受験勉強に明け暮れるつもりだった。
「おかえり。ゆかたにいちゃん」
 久しぶりに会った妹は、言葉の量が増えて「にいにい」から「にいちゃん」に進化していた。
「いいかい、ゆかた、じゃなくて、ゆたか」
「うん、ゆかたにいちゃん」
「ゆ、た、か」
「ゆ、か、た」
「だから、ゆ、か、た」
「あんたも、ゆかたになっているし」
 母が笑うから僕も妹も笑った。
「もう、いいや。ゆかた、でいいよ」

 あの夏から8年。僕は東京の大学を卒業し、文具メーカーの営業として働いている。あの時、足が離れずに甲子園に出場していたら、大学でも野球を続けていたかもしれない。あの日以来ボールに触れることもなかったのに、最近になって会社の同好会で草野球を始めた。つき合い始めた彼女がマネージャーをしているのだ。今は一塁手ではなく、センターを守っている。

 盆休み、僕は実家に戻った。
「おかえり、ゆたかにいちゃん」
 幼稚園の頃までは「ゆかた」だったのに、近頃では「ゆたか」と正しく言うようになった。
「ただいま」
 毎年、浴衣を着た妹を連れて盆祭に出掛けるのが当たり前だったが、9歳になった今夏は友達と出掛けると言う。妹の成長を感じるとともに、少し淋しいと思った。
「ゆかたにいちゃんって言い間違えていた子が、ああして友達と出掛けるようなるなんてね」
 母も同じように言い間違いを懐かしがっているようだ。

 大人3人の夕食は、なかなか会話が弾まないのでポツリと話す。
「最近、会社で草野球を始めた」
「おぉ、そうか。うん、そうか」
 父の嬉しそうな顔を久しぶりに見た気がする。
「ファーストではなくセンターだけどね」
「ポジションはどこでもいいよ。甲子園に行け、プロになれ、なんてお父さんは言ったことないから。お前がいつかまた野球を楽しんでくれたらいいなとずっと思っていた。飯食ったら、キャッチボールにつき合え」
「うん」
 父とのキャッチボールから始まった僕の野球人生は、遠回りして新たな一歩を踏み出した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み