始まらない恋の行方

文字数 2,127文字

足音で好きになる癖は誰にも言ったことがない

ラーメンを啜れない男に見惚れてしまうなんて

女の脇汗に惹かれることを誰かに知られたら大変だ

傘がうまくさせずにいつも肩口が濡れる男が好きなのは

人には言えないことがある。人にはどうしても気になることがある。人には譲れないことがある。人にはどうしたって分かってもらえないことがある。みんながみんな、同じだったらつまらない。隠しごとがあるから面白い。けれど、隠しごとは隠すから隠しごとであって、みんな黙して語らない。

雨の中
健太郎は蘭香の足元を見て歩く
健太郎は傘がさすのが下手なので
肩口が派手に濡れている
郁乃は濡れた肩口を眺めながら追いかける
蘭香がラーメン屋に入ったので
健太郎も郁乃も自然に流れて行く
郁乃は幸運に感謝する


 コツコツとリズミカルな足音ではなく、ペタペタと歯切れの悪い、足を引きずるような足音を聞くと、顔を見ることもなく好きになる健太郎は、最近気になる足音に出合った。あまりにもタイプなので目を閉じて足音に聞き入り、何度も頷く。顔を上げて後ろ姿を見送ると、制服ではないのでアルバイトらしい。

 本当は厚底を履いて、少しでも目線を上げたいのだが、昔から歩き方がぎこちなくて、着地に失敗して繰り返し足首を捻るので、なるべく底の薄い靴を履く。高校までは陸上部で短距離をやっていて、走ると別人なのだが、歩く時は運動能力ゼロのように見えてしまう。だからといって、ずっと走るわけにもいかず、背が低いのに恥ずかしくて背中を丸めてペタペタと歩く。どうにかしたいと思っているが、どうにもならない。いつも笑われているような気がするので、蘭香は余計に背を丸める。
 先週からアルバイトを始めたのだが、会社の周りにラーメン屋が多いので毎日が楽しい。基本的には雑務だから、言われたことは何でもやらなければならない。仕事は楽ではないが、大学から近いから通勤は楽なのだ。その上、昼も夜もラーメンが食べられる。ラーメンも好きだが、ラーメンを食べる男を見るのか好きなのだ。特にうまく啜れない男。ラーメン好きが集まる訳だから、滅多にお目にかかることはない。厚底を履きたいのに履けない自分と、ラーメンを食べたいのに啜れない男を重ねる。啜れない男は、注文する前から落ち着きがないので、食べなくても何となく分かる。昨日見かけた男は、後を付けたらアルバイト先の社員だった。今日は会社から追いかけることにする。

 麺を啜れないのにラーメン屋に通うのは、啜れるようになりたいという願いもあるが、汗をかきながらラーメンを食べる女を見るのが好きだから。額はもちろん、脇汗を見るとどうしようもなく惹かれてしまう。そんなことを言ったら、変な目で見られるから誰にも言ったことはない。もちろん、ラーメン屋に行かなくても脇汗を探すことはできるのだが、ラーメンを食べている時、人は無防備になるのだ。汗なんか気にせずに堂々と食べる女は魅力的だと思う。
 信孝は自分が麺を啜れるようになったら、声を掛けると決めているのだが、なかなか啜れるようにならないから、いつまでも眺めるだけ。周りに啜る手本はいくらでもいるのに、どうしても真似ることができない。

 汗かきで困っているのだが、汗をかくと体調がいいのでラーメンを食べることが多い。汗をかかないと悪いものが体内に溜まってしまう気がしてならないから、とにかく汗をかく。ずぶ濡れみたいになるので、いつも着替えを用意している。特に脇汗が多くて困っているのだけれど、どうしようもないと諦めている。会社の人に会わないようにわざわざ一駅歩いている。一駅歩くとラーメン屋が立ち並んでいるのだ。
 雨の日は電車で移動してもいいのだが、雨の日はわざわざ傘をさして歩く。なぜか傘を上手くさせない男を見るのが好きで、本来はしっかりした男が好きなのだが、なぜか傘のさし方が下手な男に惹かれるのは、幼稚園の頃に好きだった男の子が下手くそでいつも傘をさしながらレインコートを着させられていたからかもしれない。ケンちゃんという子だったが、小学校も違ったので卒園以来会っていないし、顔も忘れた。いまだに幼稚園の初恋を引きずっているなんて、我ながら可愛らしいと思う。
 
 郁乃は傘をさすのが下手な健太郎の肩口に惹かれて追いかける。健太郎はアルバイトの蘭香を追いかけるのに必死だから、余計にびしょ濡れになる。蘭香は信孝を追いかける。信孝が入ったラーメン屋に四人が続けて入る。
 恋と呼ぶ出会いはないが、それぞれが好きを追いかけてラーメン屋にたどり着く。

 八分後、信孝は左隣りに座った郁乃の大量の脇汗に見惚れている。緊張のあまり、啜るのがより下手になる。蘭香は信孝が見える向かいのカウンターに座り、口元を眺める。いつもより上手く啜れないので、いつもよりときめく。健太郎は右隣りに座った蘭香の足音を思い出しながら、ラーメンを上手に啜る。蘭香は健太郎に見向きもしない。健太郎の向かいのカウンターに座った郁乃は健太郎の濡れたジャケットの肩口を気にしながら、大量の汗をハンドタオルで拭きながらラーメンを啜る。

すでに見つけて
いるのに
始まりそうで
始まらない
四人の嗜好が
静かに錯綜する
恋の行方はいかに
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