家族Ⅰ

文字数 1,488文字

 坂道の信号機が赤に変わった。手汗を感じながら停止する。
「坂道で再発進する際、ブレーキを離してもしばらくは後退しません」
 営業担当者が安全機能を説明する。
「ほぉ、それは安心だな」
 青になったので、恐る恐るブレーキペダルから右足を離す。
「あっ、本当だ。すごい、すごい」
「そんなに驚かないでよ、恥ずかしい。うちの営業車でも止まるわよ」
 後部座席で妻がはしゃぐ夫を笑う。定年したら退職金で自動車を買うと決め、免許を取得したばかりで、再来月の退職に向けて試乗しているところだ。
「そうですね。今はほとんどの車種で標準装備しています。でも、運転されている方にはとても喜ばれる機能です」
 営業担当者は二人を気遣いながら百点満点の補足をする。社員教育がきちんとされた企業の製品には信頼感が増す。バックミラーに映る妻は、初心者マークの運転に緊張しているようで、視線が落ち着かない。
 免許を取りたての母が運転する軽トラックに乗って畑に向かっていた。もう五十年以上も昔の話だ。今だと交通違反になるのかもしれないが、助手席には妹、荷台には祖父母と僕が乗っていた。兼業農家というよりも元農家で、父は会社員で祖父母と母が僅かな田畑の面倒を見ていた。祖父が脳梗塞で倒れたため、母が教習所に通うことになったのは三十代後半だったと思う。定年前に取得した僕よりは早いが、世間一般では遅い方だ。
「次の信号を左でお願いします。乗り心地はいかがですか?」
「はい、分かりました。静かでスムーズですね。坂道はかなり急でも大丈夫ですか?」
「えぇ、もちろんです。ご自宅の周りは坂道が多いのですか?」
「そういう訳ではないのですが、先の坂道停止が気に入ったものですから」
 畑に向かう途中、坂道の赤信号で止まった。僕は落ちないように祖母の腕を掴んだ。青になっても、軽トラックは上がっては下がり、上がっては下がりを繰り返した。後続車からクラクションが鳴らされ、荷台の僕は祖母に身を預けた。母は運転席から降りると「大丈夫だからね」と僕の頭を撫でてから、直ぐ後ろの車に歩いて行った。
「まったく、仕方ねぇな」
 そう言いながら、知らないオジサンが運転席に乗り込み、坂道が終わるところまで軽トラックを運転してくれた。母はオジサンの車に乗って後ろに続いた。
「まったく、仕方ねぇけど、坊主の母ちゃんはいい度胸しているよ」
 煙草臭いオジサンは機嫌良さそうに、大きな固い手で僕の頭を撫でた。母は何度も頭を下げてオジサンが助手席に乗った車を見送ってから、僕の涙を拭いた。
「ごめんね。教習所ではうまくできたんだけどなぁ。いい人が後ろで良かった」
 そう言って笑いながら、泣いていた。
「なんで笑っているのに、泣いているの?」
「ありがたいから笑っているの。ホッとしたから泣いているの」
 母が坂道発進できなかったのはあの日だけだった。帰宅した父にお願いして練習を重ねたらしい。負けず嫌いだったから、悔し涙だったのだと思う。
 試乗を終えた僕は、後部座席に移る。次は妻の番だ。職場で乗り回しているので安心できる。静かすぎて眠ってしまうかもしれない。
「どうしたの? 大丈夫?」
 妻がバックミラー越しに声を掛ける。
「えっ、何が?」
「だって、泣いているじゃない。緊張して泣いたの? 涙脆いにも程がある」
 また笑われた。五十年前の家族に再会していたと言ったら、余計に笑われそうな気がして黙り込む。僕が泣いていたから笑い泣きで誤魔化したけれど、本当に泣きたかったのは母だったのだと今になれば分かる。あの頃に坂道停止の機能があったなら、あの日の家族と再会することはなかっただろう。
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