2022年7月「賞与日」をめぐる話

文字数 1,733文字

 飲み過ぎた。賞与日はついつい飲み過ぎる。いかん、いかんと思いつつ止まらない。おまけに今日は金曜日なので、いつもより飲み過ぎてしまった。それでも、終電には間に合わせるのだから、我ながら生真面目な男だと思う。飲み過ぎたけれど、泥酔はしていない。うんっ、大丈夫だ。

 最寄り駅に戻ると雨が降っており、今夕、出張帰りに百貨店で買ったばかりの折り畳み傘を鞄から取り出す。最近、日焼けが気になって、でも恥ずかしさもあって、ずっと買うかどうか迷っていた日傘兼用を思い切って買ったのだ。安くはなかったが、待ちに待った賞与が背中を押してくれたと言っても過言ではない。来週の出張から使うつもりでいたのに、一足早く雨傘としてデビューが決まった。
 日傘兼用折り畳み傘くん、おめでとう。
 心躍らせ、勢い良く開いて、いざ雨中へ。



 やけに
 降りやがる

 買ったばかりの傘を盗まれ、雨宿りする中年男。
 心の声はトーンダウンして、酔いはすっかりと醒めてしまった。真っ直ぐ帰れば良かったのに、コンビニに立ち寄ったのが悪かった。明日が土曜日、いや、正確には今日が土曜日なのが運の尽き。十分に飲み過ぎたのに、休みだからと更に飲もうとした自分が悪いので、言い訳しようのない自業自得だ。賞与で得た心地良い酔いも日傘兼用折り畳み傘くんもあっという間に消えてしまった。
 生真面目なのに、どこか抜けている俺らしい。
 日傘兼用折り畳み傘くん、さようなら。

 買ったばかりの缶ビールが二本、ビニール袋で汗をかいている。俺は顔色悪く、じっとり冷や汗をかいている。
 ビニール傘を買えば良いのだろうが、心の整理がつかない。ビニール傘は玄関に数本並んでいる。盗まれたのは日傘兼用なのだ。ビニール傘を買ったところで何の救いにもならない。どうせなら、濡れて帰ろうか。賞与がスーツのクリーニング代に消えるのも悪くない、と思い始める。自棄クソ地獄へまっしぐらだ。

 とりあえず、何はともあれ、缶ビールが温くなるのがもったいないことに気づいて、雨宿りしながらゆっくりと喉に流し込む。考えるまでもなく、何の予定もないのだから、出張帰りではなく、週末にゆっくりと買えば良かったのに、賞与日に浮かれて買った自分の軽さと運の悪さに呆れてしまう。
 コンビニ店員に盗難を伝える気力も湧かない。どうせ警察に届けてみたところで、返ってこないのだと諦めつつ、心の声は呟き続ける。

 盗んだ奴が
 日傘兼用だと
 分かってくれれば
 諦めもつくが
 雨傘としてしか使わないなら
 諦めがつかない
 日傘兼用折り畳み傘くんを
 その辺の
 折り畳み傘と 
 一緒にしてもらっては
 困るのだ

 缶ビールを二本飲み終え、盗人への怒りと能力を最大限に発揮されない可能性のある日傘兼用折り畳み傘くんに対する申し訳なさで、再びアルコールが全身に行き届いた頃に雨は上がった。怒りの矛先が見つからないまま、缶チューハイを追加で二本買う。雨宿り代だ。やはり賞与日は気前が良くなる。矛盾だらけの不運男が一匹、自棄クソ地獄に両足を突っ込み、すっかりと気落ちして、重い足取りでアパートに向かう。


 もっと
 大事に
 してあげる
 べきだったのに
 俺は
 できなかった

 後悔、後悔、また後悔。賞与で買ったばかりの日傘兼用折り畳み傘くんを盗まれたショックから立ち直れないまま、土日は一歩も外に出ることなく、デリバリーと冷凍食品で過ごした。


 月曜日、出社して鞄を開けると、盗まれたはずの日傘兼用折り畳み傘くんがしんなりと横たわっていた。いつもは傘置き場に置くのだが、買ったばかりだからわざわざ折り畳んで鞄に仕舞ったらしい。もちろん、全く記憶にない。
 酔っぱらった自分と愛情が溢れた自分による自作自演の出来の悪い独り芝居だったのだ。

 日傘兼用折り畳み傘くん、無事で良かった
 でも、ごめん

 どうしても諦めきれずに、昨晩ネット注文した君に似た日傘兼用折り畳み傘が今晩届くのだが、君を忘れた訳では決してないから、許してくれたまえ。この通り、と頭を下げる。

「次長、金曜日はごちそうさまでした。先から一人でペコペコして、大丈夫っすか?」
「えっ、あぁ。今日、得意先に謝りに行くから、その練習」
「はぁ、なるほど。涙まで浮かべて、凄いっすね」
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