眠れそうにない

文字数 1,995文字

 あれも嫌い、これも嫌い、それも嫌い。
 付き合っていた頃は、偏食家であることがかっこいいと思っていたけれど、結婚したら迷惑極まりない、と怒りすら感じる。
 私は好き嫌いがなく、何でも食べるのに151cmで、牛乳を飲めない小魚嫌いな先輩が182cmというのは不公平だと思う。野菜好きな妻は太り、野菜嫌いでスナック菓子ばかり食べている夫は痩せているのも納得できない。アレルギーではなく、単に嫌いなのだから、単なる我がままでしかない。

 要は見た目の問題なのだ。

 先輩は見た目が駄目で、味が駄目という訳ではない。だから、ミキサーにかけてしまえば、憎悪している人参も震えが止まらなくなるピーマンだって、気づくことなく食べている。夫の健康のため、ではなくときどき沈黙の嫌がらせをする。

 ただ、ひとつだけたちはだかる壁がある。
 黒くて苦い液体。
 先輩がなぜか目の敵にしている珈琲は、珈琲という名前ですら呼んでもらえない。彼にとって、珈琲の正式名称は「黒くて苦い液体」である。私は珈琲が好きで一日三杯は飲むのだが、私がペーパードリップを始めると、部屋から消えてベランダで煙草を吸い始める。私は珈琲を飲みながら煙草を吸うので、気を使った訳ではなく、「黒くて苦い液体」を目にしないための行動であることは明らかだ。

 最近になって、珈琲をカレーの隠し味に使うことを知り、「黒くて苦い液体」を意地でも飲ませてやろうと思うようになった。カレールウを入れてから、インスタント珈琲をふりかければ出来上がりである。いつもより深味を感じるが、味覚音痴の先輩が気づくことはないと思う。

「珍しいですね、おかわりして」
 小食の先輩がおかわりすることは、一年で一度あるかないかだ。
「何だか、今日のカレーはいつもより美味しいと思うんだけど、何か変えた?」
「いえ、いつもと同じです」
「なら、僕の食欲の問題かな。とにかく今日は食がすすむんだよね」
 結局、二杯では足りずに冷凍してあったご飯を電子レンジで温めて、もう一杯おかわりした。
「先輩が、こんなに食べるなんて珍しいですね」
「なぁ、木下。その、先輩っていう呼び方、そろそろやめないか」
「はい、先輩」

 あなたは今、黒くて苦い液体の入ったカレーを美味しいと言って、三杯も食べているのだ、と言いたくなったが、言ってしまったら面白くないので、我慢する。

 大学の応援団の先輩、後輩なので、その関係性は絶対である。結婚したからと言って、気安く名前を呼ぶことなんかできない。同じ苗字になったので、苗字に先輩をつけるのはおかしいから、結婚してからは先輩とだけ呼ぶようにしている。そろそろやめないか、と言う本人も、私のことを今でも旧姓で呼び捨てにするのだから、お互い様である。

「なぁ、木下」
「はい、先輩」
「黒くて苦い液体」
「えっ?」
「黒くて苦い液体を盛ったよな?」
 隣で横になった先輩の声が静寂に沈んでは浮かぶ。
「盛った、だなんて、毒みたいに言わないで下さい」
「寝られない。まったく眠くならない」
「珈琲を隠し味に入れましたけど、美味しいと言っておかわりしていたじゃないですか」
 先輩はゆっくりとため息を吐く。
「黒くて苦い液体を飲むと、三日間眠れなくなる病気なんだ」
「えっ、病気ですか?」
「野菜も魚も嫌いだけど名前で呼ぶ。でも、黒くて苦い液体を名前で呼ばないのは、そういう理由だ」
 

 僕は頭を抱える。さて、どうしよう。
 小遣い稼ぎでリレー小説の仕事を引き受けたのだが、既に連載を抱える先輩作家から、あまりにも酷い小説が送られてきたのだ。嫌がらせなのではないかと疑いたくもなる。
 182cm痩身の夫と151cmの妻が、大学応援団の先輩と後輩という設定にも無理がある。応援団は体力勝負なのに。
 それにしても粗雑だ。いや、待て。わざと酷い小説を書いて、僕を試しているのかもしれない。尚且つ、先輩は僕が珈琲を飲めないことを揶揄して楽しんでいる。
 負けてはいけない。ここが踏ん張りどころだ。


「だったら、私も三日間眠りません」
「なぁ、木下。そんなこと無理に決まっているだろう。いい加減なことを言うな」
「実は私も、黄金色した苦い液体を飲むと、三日間眠れなくなる病気なんです」
 私達はリビングに戻り、冷蔵庫から黄金色した苦い液体缶を出して乾杯をした。
「そういえば、木下はワインしか飲まないよな。すまなかった、何も知らずに」
 私はすっかりと眠気が消え、映画を見始める。
 アルコールに弱い先輩は、隣でウトウトし始める。黒くて苦い液体には、黄金色した苦い液体が効くらしい。(完)


 話が広がらず、終わってしまった。どうしよう?
 僕は珈琲だけでなく、麦酒も飲めないのだ。全くリアリティのない小説。読むに堪えない小説。応援団の設定も変えなければ。
 締め切りまで三日間、黒くて苦い液体や黄金色した苦い液体を飲まなくても、僕は眠れそうにない。
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