長い夏

文字数 1,402文字

 32年前、二人は京都で出会った。大学の先輩と後輩として。いつしか名前で呼び合うようになり、木屋町で夕飯を終えると鴨川に並んで、彼女の終電まで時を過ごした。何を話したのかは憶えていない。ただ隣にいるだけで心がほんのり温かくなった。
 
 恋人になって初めての祇園祭。宵山に彼女は浴衣姿で現れた。何も聞いていなかった彼は言葉が出なかった。自分のために浴衣を着てくれた気持ちがあまりに嬉しくて、言葉を見失ってしまったのだ。白に紺柄の浴衣は、細身の彼女をいつもよりも更に細く見せて心が大きく高鳴った。
「ねぇ、どう思う?」
「えっ、あぁ。とても似合っている」
 ありきたりの褒め言葉は、精一杯の褒め言葉。彼女は言葉ではなく、彼の上ずった声に満足すると、右手で団扇を持ち、左手で手をつないだ。
「えっ、すごい汗」
「ごめん。いつもと違うから、なんか緊張しちゃって」
 彼はジーパンで右手を拭いてから、手をつなぎ直す。
「意外と緊張しいなんや」
 先輩と後輩の立場が逆転した瞬間だった。

 出会ってから18年後、大阪で暮らす二人は二人の息子を連れて宵山を歩いた。浴衣の日よりも、随分と観光客が増え、四条通は危険すら覚える状況に。離れたら迷子になるから、家族四人で手や服を掴んで流れに身を任せた。露店で焼きそばとフランクフルトを食べた後、子供はかき氷、大人は生ビールで涼んだ。土産にきかんしゃトーマスのお面と綿あめを買ってあげたのに、すっかりと人酔いした次男は、近所の神社祭の方が楽しいと真顔で文句を言い、途中で歩くことを諦めたので、彼が抱っこして四条大橋を渡った。
 渡り終える頃には、熟睡してしまった。

 その後、家族は東京と京都の転勤を繰り返し、東京に居を構えた。現在、彼は単身赴任で京都に住んでおり、社会人になった長男も家を出て一人暮らしを始めた。

 二人が出会ってから32年後、3年ぶりに開催された祇園祭の宵山は、マスクをした観光客でごった返した。出張で自宅に戻り、ニュース番組で賑わう様子を見たが、以前は自分達も人混みに紛れていたことを実感することは難しかった。
 彼はテレビ画面を見ながら、彼女の浴衣姿を鮮明に思い出した。あの日がなければ、結婚することはなかったかもしれない。

 彼は彼女を後祭に誘った。
 32年前はなかった後祭は、世間で言う祇園祭(前祭)の一週間後に開催されるのだが、前祭に比べると観光客も少なく、ゆったりできるのだ。どうしても案内したいイタリアンレストランも予約して、久しぶりに京都の夏を一緒に過ごすことになった。今回の後祭は196年ぶりに復活した山鉾「鷹山」がニュースでも取り上げられ、いつもよりも話題になっていた。
 
 京都駅で待ち合わせることを約束して彼は京都に戻った。

 前日に職場で新型コロナ陽性者が出た。雨天の予報も後押しとなり、大事を取って来京は中止となった。
 悪天候の予報は外れ、晴天の下、後祭は執り行われ、特に「鷹山」には人だかりができるほどの大盛況だった。32年目の二人の祇園祭は叶わなかったが「鷹山」は196年ぶりなのだから、来年に持ち越しても大した長さではない。どこに住んでいても、出会った京都が二人の基地だ。
 ふと振り返ると、二人で歩いた道は思いのほか長くて、再び彼は言葉を見失う。向き直ると、長い道はまだまだ続いている。
 33年目の二人の祇園祭。今から来年が待ち遠しい、と彼は静かに思う。
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