証し《あかし》~ 第7話

文字数 877文字

(B)宗教的体験の告白

しばしば、キリスト教の伝道を目的とした集会などでは、”証し”と称して、信者が自らの体験談を語るプログラムがあります。
その体験談は、その集会の目的に沿って、多くの場合、その信者がどうのようにしてキリスト教を信じるようになったか、そして、信じる前に比べて好転したことは何か、という話題が中心になります。
なにせ、集会の目的が、キリスト教を信じるようにおすすめするようなものですので、いきおい、証しする人も、信じる以前がいかにみじめで情けなく、むなしい生活であり、信じた後がいかにすばらしく充実した、楽しい生活であるかということを強調してしまう傾向がありますが、無理もないことです。

キリスト教の神は人格神であり、信者たちは「神はいつも私を愛し、私といっしょにいて下さる」と信じておりますので、当然、神と信者の間には、不断の人格的交流があるわけです。
ですから、神と没交渉である一般の人々にはとてもできない体験を、信者たちはすることになります。
たとえば、”神の声を聞いた”とか、”神に祈ったら病気が治った”とか、”祈ったらなくしたサイフがみつかった”などです。

また、逆に言うと、信者たちの生活は、すべてのことについて神との関係の中で理解される、とも言えます。
ですからたとえば、”病気になったのは、神が私に何かを示すためだ”とか、”ウチの猫は私の言うことをきかない。私もこの猫のように神の言うことをきいてないかもしれないと反省した”などです。
これは、宗教的体験の告白というよりは、体験の宗教的告白、というのが良いかもしれません。
とにかく、このような告白をする信者たちの集会は『証し会』と呼ばれ、また、文章にして集めたものは『証し集』と呼ばれています。

このような告白の類は、その内容が実際的にはどんなに不幸でも、最終的には神をほめることばや、神に期待することばで閉じるのが常です。
それは、枯木の下に水があると判断する人はいないわけですから、どんなときにも”青々と茂って”いなければならないという”証し”の性質を考慮すれば、容易に理解できることです。
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