証し《あかし》~ 第4話

文字数 1,569文字

<第三分類>
信者たちは、信者らしい言動をします。

第二分類はレベルの問題でしたが、第三分類は種類の問題です。つまり、クリスチャンらしい生き方、死に方をするということです。

たとえば、殉教は最高の”証し”だと言われますが、現在のように平和な日本では、なかなかそういう場面には出くわさないものです。しかし、どういう死に方をするか、ということは、とても大きなことです。

もし、信者がその死に際して、神をほめたたえ、死さえも永遠の喜びへの門出であると晴れ晴れとした顔で告白し、枕元に信者でない人がいたら、キリストを信じるようにすすめ、天国であなたのために祈ると言い、家族や友人に感謝をし、安らかな大往生を遂げたならば、生き残った者は彼を評価して「実にクリスチャンらしい死に方をし、良い”証し”をした。彼は本当のクリスチャンだった」と語るでしょう。

ところが、もし、信者がその死に際して、恐怖に取り乱し、まだ死にたくないと泣き、家族や友人に私のために祈ってくれとすがりつき、苦々しい死に様を見せたならば、生き残った者は彼を評価して「実にクリスチャンらしからぬ死に方をし、悪い”証し”をした。彼は本当にクリスチャンだったのだろうか」とさえ語られるでしょう。

話が少し脱線しますが、この「クリスチャンらしい」というなんとも響きの良い言葉は実に曲者で、なだいなだ氏の『人間、この非人間的なもの』という著書の中に「人間的という言葉は、人間的人間という虚構のイメージを人間におしつけ、あるがままの人間を、それに従属させようとする。」という下りがありますが、この”人間的”を”クリスチャンらしい”に、そして”人間”を”クリスチャン”におきかえれば、そのまま通用するように思われます。

実際、他人に「それでもクリスチャンなの?」と言われて、やけっぱちにもならず、悪びれもせずに「それでもクリスチャンなんですよ」と晴れ晴れと告白できる人は少ないのではないでしょうか。
実はここには、教会用語の『罪』を考える糸口があるのですが、後の機会にゆずりたいと思います。

話を元に戻しましょう。要するに、とにかく、厳密な意味や、本来的な位置づけにはとらわれず、とにかく「クリスチャンらしい」言動をすることです。

死などという極限的状況でなくとも、ふつうの毎日の生活の中でも、信者たちはクリスチャンらしい生き方に努めます。
彼らはクリスチャンらしい、聖潔と節制と克己の生活をし、服装、趣味、娯楽においてもクリスチャンらしくと心がけます。みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談など言語道断です。

そして、何かをするときも、クリスチャンとしてやろうとします。
たとえばクリスチャンの画家がいて、絵を描こうとするとき、彼は「自分は画家である前にひとりのクリスチャンである」と考え、クリスチャンとして、クリスチャンらしい絵を描くのです。その人はおそらく、退廃的で、無秩序で、見る人を不安にさせるような絵ではなく、キリスト像や、聖書の中の物語を題材にしたものや、また、そう直接的でなくとも、建設的で、秩序があり、見る人に希望を与え、最終的には神やキリスト教をたたえる絵を描くことでしょう。そういう人は”クリスチャン画家”と呼ばれます。
同様に、クリスチャン作家やクリスチャン政治家、クリスチャン医師、クリスチャン学者、クリスチャン学生と、枚挙にいとまがありません。そういえば、クリスチャン主婦という言葉もきいたことがあります。

しかし、なんといっても信者たちが神経を遣うのは、信者以外の人々が注目する、金、酒、タバコ、女、バクチなどに対するクリスチャンらしい対処のしかたです。おもしろ半分に信者たちをからかったりする人たちもいて、信者たちは、”無価値な者ほどよけいに愛そうとする愛”とのハザマで、頭を悩ますものです。
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