着せ替え妻
文字数 2,411文字
常々、こんな性格の妻とは別れたいと思っていた。
自分が家事しない事を棚に上げ、俺の給与の額をけなしまくる。
俺だって毎日汗水たらして働いているんだと怒鳴ると、やれDVだのモラハラだのとわめきちらす。
結婚した当初は、まさかこんな暗澹とした生活になるとは誰が想像できただろう。
ベッドサイドに見慣れぬ小箱を見つけたのは、2日前のことだった。
中には短い針のついたチップが1つと、キッチンタイマー型のリモコン、そして小さな説明書が入っていた。
「性格着せ替えセット……このピンを相手の頭頂部に刺し、リモコンでナンバーを入力すると、あなたのお気に入りの性格に大変身! 安心のスペアチップ付き……」
TVに夢中になっている妻を後ろから羽交い締めにし、頭に、ぶつけるようにチップをつきさした。
「なにするの!? ッ痛!」
腕をふりほどいてリビングの隅に走る妻めがけ、俺は急いでリモコンのボタンを押した。
032、送信。ピッ。
「痛い! もうっ、ホント訴えてや……、申し訳ございません。何か御用でしたでしょうか?」
妻は急に姿勢を正し、申し訳なさそうに一礼した。
ひかえめに首をかたむけ微笑む仕草に、こちらの思考が追いつかない。
「……は、や、いや、腹減ったなーと」
「かしこまりました。只今昼食をお持ちしますね」
妻は、今度こそニッコリと微笑み、しずしずとキッチンへ向かった。
あれは、誰だ?
まさか。
本当に?
「――あの!」
ドキリと心臓が跳ね、恐る恐る振り返った俺が見たものは、数年ぶりにエプロンをつけた妻の姿で。
「昼食、まだできていなかったようで……、今作りますので、もう少しお待ちいただけますか? ご主人様」
なにもかもが天国のようだった。
コンビニ袋がいくつも転がるあの汚いリビングは見違えるように掃除され、食卓には毎日、できたての飯が並ぶ。
会社に行くと声をかけると、弁当まで用意して見送りに来る。
朝は猫のような優しい声で起こしてくれるし、風呂上りにはマッサージ、夜の晩酌はこれも手作りのおつまみが付く。まるで結婚当初に戻ったようなー…、いや、それ以上の待遇だ。
だが、感動的だったハズの数年ぶりの夜の行為は、言い様のない違和感を俺にもたらした。
こいつは妻じゃあない。
妻のかたちをしたなにかだ。
説明書には999もの人格が番号とともにリストされていた。
男性用と女性用に分けられているため、実質は499項目。
俺が適当に押した032は従順な英国式メイド。他にも286:姉さん女房、415:ツッパリ系少女、439:ツンデレお嬢様などなど。
手のひらにおさまる丸いリモコンで数字を押すと、ディスプレイに数字が表示される。それからリモコンを妻に向け、送信ボタンを押すと人格は簡単に変わった。
最初はビクビクしながら、人格の変わった妻との生活を続けていたが慣れるとどうという事もない。
いくつか試してみたが、やはりどの人格も、妻だ! というしっくりくるものではなかったからだ。
なら前の、ヒステリックに叫ぶ妻に戻すか?
冗談じゃない。
ゴミ屋敷と化した家で、栄養も何もないコンビニ弁当やスーパーの惣菜を出される日々なんて、もうこりごりだ。
そのうえブクブクと豚のように太り、日がな1日ジャージを着たまま過ごし、外出なんてキティちゃんのサンダルでどこへでも行く。金髪は中途半端に伸びて黒髪と金でプリンのようだし、出会った頃の美人はどこにいってしまったんだ。
まともな人格に変えてから、妻の外見は清潔そのもので、少しばかり昔に戻ったようだった……そうだ。俺は。
せめて新婚当初のような、あの可愛らしい妻に戻ってほしかっただけなのだ。
そんな中、じっくり眺めていた説明書の最後に、オールドという人格を見つけた。
それはリストの中ではなく、説明書の、メーカー名や型番などが記されたその下に、ひかえめに記されていた。
たしかに、説明書表のあおり文句には「999の人格」と書かれているが、男女とも499の人格――合計で998の人格――しかリストになかったのは、ずっと気になっていた。
説明書を穴が開くまで読んだ人間にしか見つけられない、これが最後の人格というわけか。
999:オールド。
オールド……一体どんな人格なのだろう? 古くてスタンダードだが愛にあふれる結婚生活、が思い浮かんだ。俺がそれを望んでいるからだろうな……。
過去の愛を、取り戻すことができるだろうか?
今の妻は、長年よりそった良妻という人格だ。
晩酌を終えた夜、TVを見て時折クスクスと笑う妻の横顔をひとしきりながめてから、俺はリモコンに999、と番号を入力した。
妻の名前を呼ぶ。
「なぁに? あなた」
送信。ピッ。
その瞬間、妻の目は驚いたように見開かれた。
茫然と俺を、いや、リモコンを見ている?
「おい、どうしたー…あッ?!」
妻はあらん限りの力で俺から素早くリモコンを奪い取り、立ちあがった、走り出す。
俺はたまらず追いかけた。階段をかけあがり、開きっぱなしになっている寝室のドアに手をかける――!
そこには、片手にリモコンを持ち、片手をグーにしている仁王立ちの妻と、床に投げ出されたあの小箱があった。
妻が拳をブンと振りあげた。
俺に投げつけられたのは、引き抜かれたチップだった。
オールドって、まさか、元の人格に戻るってことなのか?
愛は?
結婚は、俺の願いは??
「スペア使うなんて、考えなかったあたしもバカだったわ。そっちから離婚言い出すような人格にしてたのに。もっと馬鹿なヤツを選んでおけばよかった」
「なに、を」
唇を噛み、しばらく目を閉じていた妻が、ゆっくりとリモコンを掲げこちらに向けた笑みは、諦めたような慈しむような、俺はー……。
ピッ。
「……ママ、ママ。ぼくねれないの、こわいよぉ」
「よしよしいい子ね、りこんの紙にお名前書いたら、おねんねしようねぇ」
自分が家事しない事を棚に上げ、俺の給与の額をけなしまくる。
俺だって毎日汗水たらして働いているんだと怒鳴ると、やれDVだのモラハラだのとわめきちらす。
結婚した当初は、まさかこんな暗澹とした生活になるとは誰が想像できただろう。
ベッドサイドに見慣れぬ小箱を見つけたのは、2日前のことだった。
中には短い針のついたチップが1つと、キッチンタイマー型のリモコン、そして小さな説明書が入っていた。
「性格着せ替えセット……このピンを相手の頭頂部に刺し、リモコンでナンバーを入力すると、あなたのお気に入りの性格に大変身! 安心のスペアチップ付き……」
TVに夢中になっている妻を後ろから羽交い締めにし、頭に、ぶつけるようにチップをつきさした。
「なにするの!? ッ痛!」
腕をふりほどいてリビングの隅に走る妻めがけ、俺は急いでリモコンのボタンを押した。
032、送信。ピッ。
「痛い! もうっ、ホント訴えてや……、申し訳ございません。何か御用でしたでしょうか?」
妻は急に姿勢を正し、申し訳なさそうに一礼した。
ひかえめに首をかたむけ微笑む仕草に、こちらの思考が追いつかない。
「……は、や、いや、腹減ったなーと」
「かしこまりました。只今昼食をお持ちしますね」
妻は、今度こそニッコリと微笑み、しずしずとキッチンへ向かった。
あれは、誰だ?
まさか。
本当に?
「――あの!」
ドキリと心臓が跳ね、恐る恐る振り返った俺が見たものは、数年ぶりにエプロンをつけた妻の姿で。
「昼食、まだできていなかったようで……、今作りますので、もう少しお待ちいただけますか? ご主人様」
なにもかもが天国のようだった。
コンビニ袋がいくつも転がるあの汚いリビングは見違えるように掃除され、食卓には毎日、できたての飯が並ぶ。
会社に行くと声をかけると、弁当まで用意して見送りに来る。
朝は猫のような優しい声で起こしてくれるし、風呂上りにはマッサージ、夜の晩酌はこれも手作りのおつまみが付く。まるで結婚当初に戻ったようなー…、いや、それ以上の待遇だ。
だが、感動的だったハズの数年ぶりの夜の行為は、言い様のない違和感を俺にもたらした。
こいつは妻じゃあない。
妻のかたちをしたなにかだ。
説明書には999もの人格が番号とともにリストされていた。
男性用と女性用に分けられているため、実質は499項目。
俺が適当に押した032は従順な英国式メイド。他にも286:姉さん女房、415:ツッパリ系少女、439:ツンデレお嬢様などなど。
手のひらにおさまる丸いリモコンで数字を押すと、ディスプレイに数字が表示される。それからリモコンを妻に向け、送信ボタンを押すと人格は簡単に変わった。
最初はビクビクしながら、人格の変わった妻との生活を続けていたが慣れるとどうという事もない。
いくつか試してみたが、やはりどの人格も、妻だ! というしっくりくるものではなかったからだ。
なら前の、ヒステリックに叫ぶ妻に戻すか?
冗談じゃない。
ゴミ屋敷と化した家で、栄養も何もないコンビニ弁当やスーパーの惣菜を出される日々なんて、もうこりごりだ。
そのうえブクブクと豚のように太り、日がな1日ジャージを着たまま過ごし、外出なんてキティちゃんのサンダルでどこへでも行く。金髪は中途半端に伸びて黒髪と金でプリンのようだし、出会った頃の美人はどこにいってしまったんだ。
まともな人格に変えてから、妻の外見は清潔そのもので、少しばかり昔に戻ったようだった……そうだ。俺は。
せめて新婚当初のような、あの可愛らしい妻に戻ってほしかっただけなのだ。
そんな中、じっくり眺めていた説明書の最後に、オールドという人格を見つけた。
それはリストの中ではなく、説明書の、メーカー名や型番などが記されたその下に、ひかえめに記されていた。
たしかに、説明書表のあおり文句には「999の人格」と書かれているが、男女とも499の人格――合計で998の人格――しかリストになかったのは、ずっと気になっていた。
説明書を穴が開くまで読んだ人間にしか見つけられない、これが最後の人格というわけか。
999:オールド。
オールド……一体どんな人格なのだろう? 古くてスタンダードだが愛にあふれる結婚生活、が思い浮かんだ。俺がそれを望んでいるからだろうな……。
過去の愛を、取り戻すことができるだろうか?
今の妻は、長年よりそった良妻という人格だ。
晩酌を終えた夜、TVを見て時折クスクスと笑う妻の横顔をひとしきりながめてから、俺はリモコンに999、と番号を入力した。
妻の名前を呼ぶ。
「なぁに? あなた」
送信。ピッ。
その瞬間、妻の目は驚いたように見開かれた。
茫然と俺を、いや、リモコンを見ている?
「おい、どうしたー…あッ?!」
妻はあらん限りの力で俺から素早くリモコンを奪い取り、立ちあがった、走り出す。
俺はたまらず追いかけた。階段をかけあがり、開きっぱなしになっている寝室のドアに手をかける――!
そこには、片手にリモコンを持ち、片手をグーにしている仁王立ちの妻と、床に投げ出されたあの小箱があった。
妻が拳をブンと振りあげた。
俺に投げつけられたのは、引き抜かれたチップだった。
オールドって、まさか、元の人格に戻るってことなのか?
愛は?
結婚は、俺の願いは??
「スペア使うなんて、考えなかったあたしもバカだったわ。そっちから離婚言い出すような人格にしてたのに。もっと馬鹿なヤツを選んでおけばよかった」
「なに、を」
唇を噛み、しばらく目を閉じていた妻が、ゆっくりとリモコンを掲げこちらに向けた笑みは、諦めたような慈しむような、俺はー……。
ピッ。
「……ママ、ママ。ぼくねれないの、こわいよぉ」
「よしよしいい子ね、りこんの紙にお名前書いたら、おねんねしようねぇ」