泣かせ屋

文字数 2,061文字

 日々に追われ、いつのまにか命日が過ぎさり、二十年も経つとこんなものかと愕然とする。

 自覚したとたんに日々のちいさな幸福はしおれ、しわ枯れ、かけらは切り花のようにバラされていく。
 俺の足元は散らされた幸せに彩られ。
 けれどそれは見せかけだと知っている。
 爪先から透明な、水のような虚無が波打ちせり上がり、いつか俺は――。

 そんなものは妄想だと気持ちを強く持てばいいのだろう。けれど現実は残酷だ。

 片手でピアノは弾けない。
 事実としての黒いカレンダー。

 過ぎた命日。
 白く朽ちていく、せりあがる、喉の、すぐ上まで。

 たまらず帰宅の足を西日に向け、俺は急いで目薬屋に行った。
 商店街の路地からはずれた暗い通りに、ひとつだけ灯りがある。無垢の扉に丸い窓がついており、そこから光が漏れているのだ。

「いらっしゃいませ。あぁ、久しぶりですね。お待ちしておりました」

 扉を開けるといつもの青年が、ふんわりと笑みをうかべた。

「今年はもう来ないんじゃないかと思っていましたよ。どうぞ、お掛けください」

 店内には美容室のような椅子が3つ並んでいる。
 だがここは美容室ではない。
 鏡のかわりに棚があり、色の違う目薬の小瓶が等間隔に置かれている。

「え? はは、いやぁ……、また種類が増えまして。全種類制覇するには、年一回じゃなくて年十回は来ないと無理なんじゃないですかね。メーカー側も、ほら、今、こんな感じでしょう? 妙に需要が増えまして。テレビ、見てます? 泣きながら窮地を訴える嘘吐きばかりですよ」

 財布から札を取り出し、青年に渡す。

「五千円お預かりいたします。いつものコースでよろしいですよね? いまお釣りを準備いたしますね。……ここだの話、実は…、私が手掛けた「泣き」が結構あるんですよ。テレビ、信じられなくなりますから、常連さんにしか言いませんけどね。お釣りとレシートのお返しです。では、棚から好きな目薬を選んで、お声をおかけくださいね。個室にご案内しますから」

 椅子の背もたれに体重を預け、様々な目薬を眺める。典型的な目薬の瓶に詰められているが、すべて色が違う。棚は虹色に彩られていた。
 時間をかけて眺めた末、今年は紺青色にしようと決めた。

 日々の、なかで。
 目に与えられる特別を選ぶとき、花の香りがどこにでもあるように。あふれ出た海の味が口まで届くのにふさわしい色。

 そういう気がしている。

「これですか? わかりました。それでは個室にご案内しますので、お立ちください」

 青年の案内で、カーテンに仕切られた店の奥へと歩く。
 ここにも3つの扉があり、青年は一番奥の扉を開けた。
 中にはまた椅子がある。
 サイドテーブルにはティッシュ。
 それだけの空間だ。

「目を大きく開けてー…もう少し上を向いて……。はい、入りました。ティアセコンドはいつも通り二十秒です。三十分後にお声をかけますね。お判りでしょうけれどティッシュはご自由に。では、」

 二十秒のうちにティッシュをできるだけ引っ張っておこうと、手を伸ばす。
 けれど、十秒もしないうちに目から涙があふれてきた。
 あわててティッシュを目頭に持ってくる。
 止まらない。
 流れ続ける。
 命日も過ぎてしまったというのに――。

 事情を知ると人々は決まってこう言うのだ。
『きっと悲しいはずだ』『きっと悲しいはずだ』『きっと悲しいはずだ』

 涙が。
 あふれてくる。
 それから吐息が。
 次に、想い出が。
 あとから。
 あとから。

 どうしても泣けなかった。死んだと知った時も、遺体と対面したときも、葬式の最中も、納骨のときでさえ。
 すべてが終わったがらんどうの部屋で。
 虚無だけがいつも這い上がる。
 どうして。
 どうして。

 喉を。

 しぼりだして。

 嗚咽の真似をしてみる。ヘタクソな鳥真似が、ちいさな部屋に消える。
 涙は流れ続ける。
 きっと悲しいはずなんだ。
 そうでなければ。
 毎年。

「――失礼します。入ってもよろしいでしょうか? えぇ、では失礼します。ホットタオルをお持ちしました、どうぞ」

 腕をふりあげてスマートウォッチを確かめる。
 早いものでもう三十分も経っていた。

「扉はこのまま開けておきますから、落ち着いたタイミングで出てくださいね。おわかりでしょうけど、言う決まりなのですみません」

 腫れぼったい目で頷くと、青年は思い出したように

「あ、」

 と言った。

「そうそう、今度の日曜に放送される子犬のドラマ、時間があれば見てみてくださいよ。テロップに私の名前出ますから。でもテレビ局ってこういうのまともに書けませんから、どこで出ますかねぇ……美術、とか、特別協力、とかで個人名だけかなぁ。大々的に宣伝できれば嬉しいんですけど、世の中そう上手くはいきませんし、大勢でワッと来られてもさばけないですし……。……今年も、」

 青年はすこし目線を下にして、次に眉尻をさげて俺を見た。
 静かな声で微笑む。

「今年も青色でしたね」

 日々を繰り返しいつの間にか積もり埋もれていく命日。時折取り出して、嘘でもいいから泣くためだけの夜。
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