十 策 その三 潜入

文字数 1,216文字

 中村屋の二階の障子戸が開いた。佐恵は多恵之介と眼差しを交わし、青葉屋の暖簾を潜った。

「ごめんくださいまし」
 この日も佐恵は風呂敷包みを抱え、今流行(はやり)の紺地に浅葱色の小紋の小袖を着こなし、白足袋の足に雪駄を履いて、髪は玉結びで前髪を立てて膨らませた吹前髪(ふきまえがみ)だ。
「へい。どのような者でも、私どもで手配いたします」
 店の奉公人は、店先に立つ多恵の五尺七寸の上背と、目鼻立ちの整った器量の良さに目を見張った。
「あんたが番頭の吉二さんかえ」
 佐恵は睨むように奉公人を見た。奉公人の上背は低く多恵より小柄だ。
「いかにも私が吉二です。お客さんはどちら様でしようか・・・」
「この口入れ屋にやっかいになった武家の夫婦連れがいなかったかえ。
 名は野上義太郎(のかみよしたろう)美音(みおん)だ」
「そのまえに、お前さんの名は何というのですか」
「あたしゃ、野上佐恵(のかみさえ)だ。野上義太郎の姉だわさ」

 番頭の吉二は一瞬考えて言った。
「確かに武家の夫婦が来たことがあります」
 こいつ、でまかせを言いやがって。義太郎と美音が来ているはずがねえだろう・・・。
「弟夫婦とおなじ御店に奉公させて欲しいんだ。
 実は、弟が駆け落ちしてね。戻らないと、世継ぎが逃げた武家は困るのさ」
「いや、そういう事情がおありでしたか。
 ちょっとお待ちください。調べますので・・・」


「主の青右衞門(せいえもん)です。二人は廻船問屋紀州屋に奉公しました。
 同じ御店に奉公なさってどうするのですか」
 主の青右衞門は佐恵にそう訊いた。主の青右衞門も番頭の吉二と口裏を合わせた如くでまかせを言っている
「番頭さんに話したように弟が駆け落ちしてね。戻らねえと世継ぎが逃げた武家は困るんさ」
「では、奉公先を教えますから、説得なさってはいかがですか」と主の青右衞門。
「そうも思ったが、逃げられたらは困る。父が危篤だ。一刻も早く仙台に戻って家督を継がねば野上家は閉門になっちまうのさ」
「では、奉公するよう手筈を整えましょう。
 あなた様は読み書き算盤ができますか」
「義太郎や美音と同じさ」
「わかりました。先方に連絡します。仙台から来たのなら、泊まる先はおありですか。
 なければ、奉公が決まるまでここに泊まって、店を手伝ってください。それで、宿代に代えると言うことにしましょう」と主の青右衞門。
「おや、ずいぶん親切だねえ」
「紀州屋さんから口入れの礼金を頂きますから、いくらかは佐恵さんに渡せると思います」

「わかりました。じゃあ早速、店の外に水でも撒こうかね」
「台所はその先です。頼みます。
 お(ふみ)さん。佐恵さんと店の表に水を撒いておくれ」
 番頭の吉二が土間の左手奥を示して下女を呼んだ。
「へーい」
 奥から下女の声がする。
 佐恵は土間を通って台所へ行き、手桶に水を汲み、お文とともに店の表の通りに水を撒いた。すれ違うようにして背丈のある武家とその御新造と思われる夫婦連れが旅篭中村屋に入った。
 通りに柄杓(ひしゃく)で手桶の水を撒く佐恵を、旅篭中村屋の二階から多恵之介が見ていた。
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