第16話

文字数 1,900文字

 毘沙門天堂(びしゃもんてんどう)に一つの経が響き渡る。

 堂の中では、毘沙門天の彫像が祀られている。

 その彫像の前で景虎はゆっくりと毘沙門天の真言を唱えていた。

「オンマイシラマナヤソワカ、オンマイシラマナヤソワカ、オンマイシラマナヤソワカ……」

 ……この世は乱れておる。

「もし、この世に弥勒仏が現れなければ俺が代わって乱世を治めるしかない……」

 世は戦国時代……1554年(天文23年)

 織田信長が尾張を平定する前の歴史である。この時代においてはまだ、各国の小競り合いが続くだけの地方争いが続いていた。天下布武を唱える者はまだ誰もいなかったのである。後の織田信長が皮切に日本の統一を巡って各大名が天下を争ったのだ。

 春日山城内で人一倍激しい声が響き渡る。

「お館さま、落ち着いて下さいませ」

「うるさい、これが黙っていられるか。乱世が始まろうとしているこの一大事だというのに家臣の土地争いだと。もう少し俺の部下は慎みを持てぬのか!」

 景虎はうんざりしていた。本当に人の欲望というものには際限がない。いつ他の国に領土を奪われ、国の存亡が掛かっているかの瀬戸際だというのに家臣の我が身大事なこの現実に。

 国の平定なくして戦国の世は生き残れない。いつの世も天下を取るにはチームプレイが大事である。後のかの徳川家康もそれで、天下の明暗が分かれたようなものなのである。後の上杉謙信。景虎はそれを本能的に分かっていた。

「ともかくも、ここは御座にお着き下さいませ」

「誰が!」

 はああ……と家臣一同、溜息が零れる。

「そんな御気を強くなされたら、また血圧が上がってしまわれます。どうか落ち着いて下さいませ」

「だまれ!」

 ははあと家臣たちが平伏する。誰かこの御方を止められる人はいないのだろうか……。だが、そんな人が現れるはずもなかった。気性が激しいこの虎の様な性格の持ち主を諫められる者など。だが、仏道修行者でこれだけ気性が激しいのは戦国の世ではある種、取柄なのかもしれない。そんな越後守護代の長尾平三景虎、後の上杉謙信はある種、この乱世において救世主とも呼べる存在を待ち望んでいた。それができねば俺が代わって天下を取る。景虎は本気でそんな事を考えていたのである。

「毘沙門堂に籠るっ!」

 ――毘沙門天よ、我に加護を。

 ――。

 グワングワングワン。

「ここは?」

 見慣れない景色が続く。空気が濃く、甘い匂いがする。

 独特なその味は、弥勒と千佳にとって初めての体験だった。ミロクはチカに道を尋ねるが二人ともここがどこなのかさっぱり分からなかった。

「分からねぇ、多分、戦国時代のどこかじゃねーのか?」

「無責任だなぁ、もうちょっと頼りにさせてくれよ」

 チカはそれを聞いて激昂する。

「俺にばっか頼ってんじゃねえよぉ。おまえこそしっかりしてくれ。これから天下を取る大切な役目を担ってるんだからな!」

 へいへい……とりあえずこの格好を何とかしないといけないな。こんな私服じゃ警察にすぐ捕まってしまうよ。あ、この時代は警察組織は存在しなかったのかな。

「チカも尼さんの格好しないと色々と危ないかもしれないよ、とりあえずどこか近くの寺に駆け込んでみよう、服装もなんとかなるかもしれない。あ、路銀!」

 ミロクとチカは表情が青ざめた。

「おい、ミロク、持ってきたか?」

「そんなの持ってきてる訳ないよ!」

 どうするんだと二人は口論になる、とりあえずこの今着ている服をこの時代の物と交換してもらおう。二人はそう考えた。どこかに交換商をしているところはないだろうか。するとミロクはチカが身に着けているネックレスに目線が向いた。

「その真珠のネックレス……高く売れるんじゃねーか?」

   ……。

 するとチカは頬を膨らませて言った。

「だめだ、これは母の形見なんだ。これだけは売る訳には行かねーよ」

「でもこんな時だし、あ、現実に帰ったら僕がチカに真珠をプレゼントしてやるよ。だから頼むよ……お願いします!」

「ねーよ」

「あ、だったら代わりに金のリングも買ってやるから……な? な?」

 金のリングは、本当は家にあるのだが、お古は嫌だろうからと、とっさに嘘が出てしまった。僕が当時、全く振り向いて貰えなかった彼女に気に入られようと、プレゼントしようと必死こいて貯めてなんとか買ったものである。

 だが振られた挙句「なにそのリング……ダサッ」といってその場で捨てられたものなのだ。

「……考えとくよ」

「ありがとう! チカ、本当におまえって奴は頼りになるなあ……これからもよろしくな!」

「おう」

 ……?

 急にしおらしくなったな。まあいいか……ともかくここら辺の地図も必要だ。僕たちは近くの村のお寺を探すことにした。
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