文字数 10,377文字

〈バークリィ銀行〉LA支店は、ウエストハリウッドにある小さな銀行だった。
 三階建の白い瀟洒な建物で、真新しくこぢんまりとしていて、行内は塵ひとつ落ちていない清潔さだ。壁も天井もアールデコ風で白を基調としたデザインであるのを知って、俊介はスタンリー・キューブリックの映画を思い出した。
 入口から入ると、横の壁に『係員にお尋ねください。親切ていねいに応対いたします』と書かれたプラスティックの標識がかけてある。俊介はそれを指で弾いて、広いフロアを歩いた。
 預金カウンターの奥には数人の男女が座っていたが、俊介はいちばん手前の栗毛の女性を選んだ。三十前後というところか、メグ・ライアンに似た、ちょっとした美人である。
「失礼、ミス――」彼女の前のカウンターには『マティルダ・ゲイル』と記した名札が置いてある。「ゲイル?」
「ミセスですわ」と、彼女はいった。「ミセス・マティルダ・ゲイル。ご用は何でしょう。お客様?」
 俊介は笑みを浮かべ、偽造の社員証を見せた。
「私は〈ロサンジェルス・タイムズ〉の記者で、ジェイムズ・シミズといいます。実は近年のLAにおける犯罪事情を調査しているんですが、こちらも最近、強盗に入られましたね?」
「ええ。ストッキングを被った五人が、銃を持ってね。あのときは生きた心地がしませんでしたわ。でも――」彼女ニコリと、実に魅力的に笑った。「私、決死の思いで非常ベルを押したんです」
「そりゃ、すごい。私だったら、きっと腰を抜かして何もできなかったでしょう」
 ミセス・マティルダ・ゲイルは、また笑みを浮かべたが、ふいに真顔になった。「ところで、ミスタ・シムズ――」
「シミズです」
「失礼、ミスタ・シミズ。当行にどういったご用で?」
「支店長にお会いしたいんですが」
 と、俊介はいった。

『支店長』と記されたプラスティックの表札が、大きなスティールデスクの上に置かれ、肩書きの下に太文字でジョゼフ・マックスウェルと読める。
 支店長室とはいえ、ずいぶんと狭い部屋で、大きな窓を閉め切り、ブラインドも降ろし、おまけにエアコンをガンガンと効かしている。おかげで部屋は冬のように寒かった。
 マックスウェルは小柄で、丸顔。往年の俳優ピーター・ローレを思わせるおどおどした目付きの男だった。
 こんなにさわやかな気候なのに、どうして窓もブラインドも閉め切っているのだろう。
 俊介は奇異に思った。
「〈ロサンジェルス・タイムズ〉には、事件のあらましは喋ってます。そちらの資料室に行けば、私自身が忘れたようなことまでも残っているはずですが?」
 マックスウェル氏の言葉に、俊介はあくまでも無表情にこう返した。
「今回の特集記事は、過去の犯罪を、現在の時点でリアルタイムに語るということなんです。つまり――」
「回想録、ですな」
「そういうことです」
 臆病なウサギのように視線を泳がすジョゼフ・マックスウェルの顔を、俊介はじっと見つめた。
 それから、彼の後ろの壁。取り引き相手の資料を保存してあるファイルが雑然と詰め込まれたスティールラックや、趣味のライフル射撃で勝ち取ったらしい〈大口径メタリックシルエット射撃部門〉の優勝カップを眺めた。
 カップの傍には額縁に入ったキャビネ版の写真があり、その中で彼本人が毛足の長いペルシャホワイトを抱き上げて微笑んでいる。〈全米優良猫コンテストで、バークリィ銀行ロサンジェルス支店長ジョゼフ・マックスウェル氏の愛猫トム君が栄冠!〉と、書き添えがあった。
「不思議ですな」と、彼はいった。「先日も、市警のナルティという刑事がやって来ましてね。当時の事件のことを掘り起こすみたいに訊いていきましたよ。あの事件に関して、新展開でもあったんですか」
 俊介は〈ヘルウインド〉の一件のことを話したくなるのを、ぐっとこらえた。
「いや、とくに聞いていません。ただ、うちはさっきいったような特集記事を日曜版に載せるために、こうしてあちこちの金融機関に取材して回っているという次第でしてね」
 マックスウェルはあからさまに迷惑そうな顔をした。
「千二百万ドルっていったら、相当な額ですよね。通り魔的、衝動的犯行で盗むような金額じゃない。まるで、あらかじめそれだけ盗むことを計画して、この銀行に押し入ったような感じだ」
「ちょうど取り引きのあった企業から、かなりの額が運ばれてきた直後だったのです。だからまんまと大金を盗まれてしまった。ま、その点では、彼らの犯行は計画的だったかも知れない。現金輸送のことが、事前に洩れていた可能性はあります」
「なるほど、ね」俊介はいって、デスクの上の名札と、彼の顔を見比べた。
「ところで、あなたはひょっとして、ロバート・マックスウェル氏の弟さんでは?」
 ジョゼフ・マックスウェルは、また迷惑そうな顔で頷いた。
「あの上院議員のロバート・マックスウェル氏。やっぱりそうですか。前にテレビで拝見したことがあるんですよ」
 俊介はわざと笑って見せ、いかにも記者然とした好奇心に満ちた顔で彼を眺めた。
「そういえば、彼の寄付で完成した州間幹線道路は、なかなか評判がよろしいようで。来月の開通式には、大統領も夫人同伴で出席とか」
「兄とはもう十年も会っていない。いわばもう他人のようなものです」
 ジョゼフは冷やかにいった。
「ほう、仲違いでも?」
「つまらん詮索はやめてもらいたい。強盗事件のことを取材にこられたんでしょう」
 彼は、そういってから椅子を引いて立ち上がった。
 イライラした様子で後ろ手に手を組み、少し歩いてから、また同じ椅子に座り込んだ。そんな様子を俊介は興味深く見ていた。
「あの事件があった当時、あなたはどこにおられました?」
 俊介が咳払いをして訊いた。
 マックスウェルはしばらく考えていたが、やがて答えた。「個室で、得意先の客と話をしていました。連中は押し入ってくるとすぐに私のところへやって来て、銃を突きつけたんです。仕方なく、いわれるままに貸し金庫の鍵を渡した。ちょうどそのとき、一週間おきの水曜日の定刻にやって来る『ナショナルウエスタン警備会社』のトラックが、銀行の前に停まって――」
「輸送してきた金をまんま、奪われたんですな」
 彼は頷いた。
「犯人を見ましたか?」
「いや――」支店長は一瞬、答えるべき言葉を捜しているようだった。「奴らは、ストッキングを被っていて、人相はまったくわからなかった。四人いましたが、みんな男だった。わかったのはそれぐらいです」
「ストッキングをすっぽり被っていても、年齢の見当ぐらいはつきませんでしたか?」
「さあ……」
 極北のように冷え込んだ部屋なのに、マックスウェルの額にぽつりぽつりと汗の玉が浮かぶのがわかった。彼はすぐにズボンの尻ポケットからハンカチを出して吹いたが、その焦りようが俊介には気に食わなかった。
「どうしました。ミスタ・マックスウェル」
 相変わらず目が泳いでいた。
「窓を開けたほうがましなんじゃありませんか?」
「いえ、窓は……」
 ピーター・ローレそっくりの目が、まるで逃げ道を見つけるようとしているに、おどおどと動き回っている。
 俊介のズボンのポケットの中でスマートフォンが振動した。
 支店長はまたハンカチで額の汗を拭った。
「失礼」彼はポケットからそれを取り出した。液晶を見ながらいった。「社から電話がかかったようです」
「どうぞ」マックスウェルがホッとしたような顔になった。
 液晶を指先でタップした。
 由起の声がした。
 ――俊介さん?
「ああ。社会部のジェイムズ・シミズだ」
 すると電話の向こうで由起が笑った。
 ――わかったわ。用件だけ伝えるから、適当に返事をしてね。
「ああ、デスク。何ですか?」
 ――神村慎吾の居場所がわかったの。サンタモニカの〈ブルーハーバー〉っていう店よ。今、ラリーが向かったわ。
「なるほど。でも、デスク。社を空けたら、誰がそこの番をするんですか?」
 ――大丈夫。ナルティさんの自宅に連絡したの。三十分もしたら、ここに来てくれるって。だから、安心してそっちの仕事に専念してね。
「了解しました。こちらもすぐに帰社しますから。でも、そんな特ダネ、どうしてもっと早くわからなかったんです。私に回して欲しかったな」
 由起はまた、くすくす笑った。
 ――あんまり下手な芝居していると、すぐにばれちゃうわよ。なるべく早く帰ってね。
 電話が切れた。
「そいじゃ、デスク」
 俊介はスマートフォンをわざとらしく耳に戻した。
「ああ、ところで今夜のジャイアンツ戦の先発、誰でしたっけ?」

 銀行を出ると、三時二十分だった。
 タクシーを捕まえようと大通りに出たとき、ふいに今日が、車の修理が終わる日であることを思い出した。
 ディックの修理工場に行くか、それともオフィスに帰るのが先か。
 考えるほどのこともない。ラリーは出かけて、あそこに残っているのは女ばかりのはずだ。ナルティが来るとはいっていたが、心配であることに変わりはない。
 車道に身を乗り出して手を上げると、タクシーが寄ってきた。
「リトル・トウキョウ」
 乗り込みざま、彼は運転手にそういった。


       ☆

 サンタモニカ・フリーウェイを西に伝っていくと、やがて海岸通りに出る。
 ラリーの乗ったタクシーは、パシフィックコースト・フリーウェイに入る手前で、ランプを降りた。南カリフォルニアの陽光がひときわ美しい、サンタモニカの町並みが広がっていた。
 ビーチでは大勢の若者が肌を焼いている。海はあくまでも青く、街路に沿って植えられたヤシは緑の葉を繁らせ、その下を原色のオープンカーが行き交い、歩道を歩く人々は、まるでロックのリズムにでも乗っているように軽快な足取りで歩を運ぶ。
 サンタモニカ、ヴェニスシティ、マリナ・デル・レイ。この海岸に沿って続く街を抜きにして、南カリフォルニアの良さは語れない。ラリーはそう思っている。
 神村佳織が持っていた慎吾の写真も、海辺の砂浜をバックに写したものだった。
 メインストリートを南に下り、サンセットアヴェニューに入った場所に、〈ブルーハーバー〉というバーはあった。マギーがいったように、そこは船の形を真似たいわば、逆台形の建物で、ブリッジやマストまでしっかりついている。だが、店が潰れたのは十年も前のように見える。入口の鉄扉は錆び付き、窓ガラスは――〈クリシュナ・ビルディング〉の一階のように――あらかた叩き壊されている。
 黒人の運転手に料金とチップを払い、タクシーを降りた彼は、もう一度、店を観察した。波の形を模して、入口の上にかかるネオンの看板は、ハリケーンに煽られたようにひん曲がっていた。
 入口の扉は鍵がかかっておらず、彼はそっと中に入った。壁にかかった大きな舵輪、ヤシの林の向こうに水平線の夕陽が沈む写真は色褪せていてまったく説得力がない。埃だらけの床に、足跡が幾つもあった。
 目的の人物はすぐに見つかった。
「神村……慎吾か?」
 誰もいないカウンターに突っ伏す革ジャンの背中に、彼はそっと声をかけた。
 返事がなかったため、ラリーは最初、彼が死んでいるのかと思った。やがて、革ジャンがかすかに動いた。黒い髪が見え、日焼けした浅黒い頬がうかがえた。
「そうだろう? 君は神村……」
 もう一度いったとき、ゆっくりと顔を上げて彼が振り返った。げっそりとやつれ果て、目の下にくまが出来ていた。脂ぎった前髪が柳の枝のように額に垂れ下がり、唇は死人のそれのように青かった。
 まぎれもない本人だった。だが、写真とはだいぶ印象が違っていた。
「あんた、誰だ?」ぞっとするようなしわがれた声で、神村慎吾はいった。
「探偵だ。君のお姉さんに頼まれた」
 かすかに目が泳いだ。
「姉貴に……」
 カウンターの上に置いた右手が、ぶるぶる震えている。ラリーは黙って彼の前に立ち、慎吾の左腕をまくった。腕の付け根に無数の注射針の穴がある。足元に割れた注射器の破片が落ちているのに気づいた。
 彼は何の抵抗もせず、どんよりと曇った双眸に怯えの色を浮かべながら、生ける屍のようにラリーの顔を見上げた。
「ずっと、ここに隠れていたのか」
 慎吾がうなずいた。
 ラリーのような生粋の白人が流暢に日本語を話すことを、たいていは奇異に思うものだが、神村慎吾はそのことに気づきもしないようだ。
「飲み食いは?」
「近くにマックがある」
 ラリーはあきれて肩をすぼめた。
「まったく、千二百万ドルも銀行から強奪して、そのざまか」
 すると慎吾が困惑の表情になった。
「そんなに奪っちゃいないよ」
「何いってんだ」
「二百万だ。それを四人で分け合った」
「麻薬で金勘定までできなくなったのか?」
 ラリーがそういったときだった。
 ――運がいいな、まったく。
 背後に男の声がした。
 サッと振り向くと、店の入口に人影があった。
 外から差し込む陽光の中、男の姿はちょうど人型に切り抜かれた黒い影絵のように見えた。左手を包帯で吊し、だらりと垂らした右手には超小型のサブマシンガンが握られている。銃口は足元を向いていたが、それがラリーを向くのにそう時間はかからないはずだ。
「大した幸運だ」と、彼はまたいった。「一度にふたりも片付く」
 ラリーはゆっくりと向き直る。
 男の姿はまだシルエットになっていて、顔がよく見えなかった。
「なんで黙ってるんだ。緊張か、それとも死を前にブルってるのかな」
 ラリーは応えず、なおも口を閉ざしていた。
 男がゆっくりと二歩、店に踏み込んできた。
「どうしたよ、若いの」
「おあいにく様だけど、とてもリラックスしてるよ」
 ラリーはそういった。
「何だと?」
 男の声色が少し変わった。
「あんたに出会ったのは、三度目だな」
 ラリーはゆっくりと両手を上げた。しかし肩の位置よりも上へはやらなかった。ヒップホルスターのブレンテンを抜きながらセフティを外すのに、〇・五秒はかからない。男が銃口を向けて引鉄を引くまで、速射で三発は撃ち込む自信があった。
 奴はそれを知らない。
「ぼくのあとをつけてきたわけか?」
 男の影はクックと笑った。「そうじゃない。お前よりも先に、標的の居場所を知っていただけだ。仕事の前にビールをひっかけてきたから遅くなったんだ」
「さぞかし旨いビールだったろうな」
 ラリーはゆっくりと横に歩き、男と慎吾を結ぶ線の真ん中に来るように立った。
「ところで、他のふたりは?」
 男はまたくぐもったような笑い声を押し出した。
 コツコツと足音を立てて、さらに数歩店に入ってきた。そのおかげで男の顔が、側面の窓からの光でようやく見えるようになった。スキンヘッドにサングラス、テリー・サヴァラスみたいなスキンヘッドに日が差している。
「一度に仕事を片付けるために、な。あんたのオフィスに出向いているよ。リトル・トウキョウの〈トラブル・コンサルタント/プライヴェイト・インヴェスティゲイション〉とかいったな」
「それは本当にご苦労さん」
「向こうの連中も、おっつけあんたの後を追うさ。仲良くあの世にいくこったな」
 ラリーがニヤリと笑った。
「そんな下手な台詞、ジェイムズ・キャグニーの映画にもなかったよ」
「キャグニーとはまた古い名を出しやがる」
「古い映画、古い音楽。どれも好きだ」
「くそったれが。趣味の話をしにきたわけじゃねえ」
 男は唾を吐いた。そして口角を吊り上げてまた笑った。「おめえはここで死ぬんだよ」
「ぼくがここで死ぬと、どうして決めつけるんだ? 昨夜、あんたにくらわせてやったのを忘れたわけじゃないだろう? あれは外したんじゃないんだ。わざと腕を狙ったんだ」
「何だと?」男がふいに真顔になった。
 ラリーはゆっくりと右手で上着の裾をめくってみせた。
 右腰につけたホルスターと、ステンレス製の大型拳銃が男に見えたはずだ。
「あんたにゃ悪いが、ぼくの拳銃はアラン・ラッドよりもずっと速い」
 その言葉で切り札が落とされた。
 殺し屋は歯を食い縛りながら、イングラムを向ける。一瞬早く、ラリーは右手でホルスターのホックをサムブレイク(拇指で弾くこと)し、銃を抜きざま、片手のまま腰の位置で三発、撃った。
 男のサマースーツの胸の真ん中辺りがパッと裂け、彼はよろめいて二、三歩後退った。
 暴発したイングラムの銃口から、目映いばかりの閃光が噴き出した。無数の薬莢が乱雑に舞い上がるとともに、一列に並んだ弾痕が店の壁から天井にかけて這い上っていった。
 男が尻餅をつくと、イングラムは彼の手を離れて床に落下した。
 ラリーは銃を両手で持ち直し、男に銃口を向けながらゆっくりと近づいた。男は床に仰向けに倒れ、口の端から血を流していた。十ミリの弾丸を三発くらった胸は、無残にも朱色に染まっている。即死だ。
 イングラムをエア・ジョーダンの靴先で蹴飛ばして遠くへやってから、ラリーは撃鉄に拇指を載せてゆっくり戻し、ホルスターに収めた。背後の神村慎吾を振り返ると、彼は依然としてカウンターに突っ伏し、死人のような目付きで肩越しに振り返っている。ラリーを見ているのか、それとも死んだ男を見ているのかわからなかった。
 ラリーはスマートフォンを引っ張り出すと、リトル・トウキョウのオフィスにかけた。
 ――ハロー。こちらは、トラブル・コンサルタント。
 由起の無事な声を耳にして、胸を撫で下ろした。
「ぼくだ。今し方、神村慎吾を確保した。佳織さんに報告を頼む」
 ――良かったわ。
「それから、殺し屋をひとり倒した。残りの殺し屋ふたりが、そっちに向かったはずだ。ナルティ刑事は?」
 ――まだよ。でも、電話があったからそろそろ来ると思う。あなたも、早く帰ってきて。
「わかった。が、どう急いでも、三十分はかかる。気をつけろ、由起」
 電話を切って、ラリーは振り返った。
 スキンヘッドの殺し屋の遺体を見て、警察に電話をするべきかと考えた。
 しかし、そんな猶予はない。
 店の壁に凭れるようにして、相変わらず慎吾はだらしなく座り込んでいる。だらんと伸ばした両足の間に頭を突っ込もうと屈み込んでいた。


       ☆

 ブロードウェイの真ん中で、ビュイックのエンジンがストライキを起こしたとき、ハリー・ナルティは思わず神を呪う言葉を口にしていた。
 彼は何度もキィを捻り、アクセルを踏みつけ、そしてしまいにはハンドルを思い切り殴りつけていた。観光客らしい東洋人の団体が、何ごとかと集まってくる。ナルティは彼らにも中指を突き立ててやりたくなったが、どうせ意味は通じないだろうと思ってやめた。かわりに警察無線のマイクを握り、事情を伝えて車を引き取りに来るように頼んでから、ビュイックを降りた。
 三時十五分。約束の時間まで、あと十五分しかない。
 リトル・トウキョウの〈クリシュナ・ビルディング〉までは、どう急いでも三十分はかかる。彼は野次馬どもに警察バッジを見せて、彼らを追い払い、それから歩道を走り出した。
 警官になって、走ることは多々あった。短距離走の選手なみの全力疾走を何度もやって、猟犬のように逃げる犯人に組みついたものだ。
 ぜいぜいと喘ぐ彼の足は、次第に遅くなり、じきに歩いているのと変わらなくなった。赤信号の手前で立ち止まり、膝に両手を突いて肩を揺らしながら呼吸を整え、信号が変わるのを待って、もう一度、走り出した。

 車道が青信号になると同時に、並んで停まっていた数台の車がスタートしたが、そのいちばん後ろに赤いクライスラー・ルバロン・クーペがいることに、ナルティは気づかなかった。
 もちろん、気づいていても気にも止めなかっただろう。
 彼にとって注意するべき車は灰色のアウディだった。
 が、それは今、サンタモニカの遥か北、人けのない海岸に乗り捨ててある。その近くにふたりの若い日本人が死んでいることすら、まだ誰も知らない。
 クライスラーは、歩道を走る彼の脇を擦り抜けるようにゆっくりと加速していき、そして二番街をリトル・トウキョウのある方角に走り去っていった。


       ☆

 ハロルド・ナルティは、約束の時間になっても姿を現わさなかった。
 三時四十分。大して過ぎているわけじゃないが、由起には気になる。ナルティはいつだって時間を守る男だった。几帳面すぎるのが玉に瑕だといわれていたほどに。
 殺し屋がふたり、こっちへ向かっている。
 ラリーからそれを聞いたのは由起だけだ。その不安が胸の奥にある。
 十分。たった十分の遅れだ。だが、気になって仕方がなかった。ここから避難するべきか、それともナルティを待つべきか。
 マーガレット・エンジェルは窓に凭れ、外をぼんやりと眺めていた。
 彼女の隣に立った。
 ダブルツリー・バイ・ヒルトンホテルのほうから走ってきた一台の赤い車が、オフィスのあるこのビルの前をゆっくりと通り過ぎて、路地を曲がって消えた。
 それはポルシェだったが、妙に不安な色であるような気がした。
 マギーが右手の指に挟んでいた煙草が短くなっていることに気づいたらしく、マホガニーの机に置いてあったアルミの灰皿の上で揉み消した。
 その机の上には、二インチの銃身の・三八口径リヴォルヴァーが置いてある。もしもの場合に使うようにと、ラリーが置いていったものだった。由起はそれを取ってジーンズの尻ポケットにねじ込んだ。
 彼女は射撃を習っていた。
 最初の頃は民間の射撃スクールで、最近はもっぱらラリーが教師だ。警察で射撃を教えていた彼は、銃の仕組みや性能、使い方を、素人だった彼女にもわかりやすく教えてくれた。
 神村佳織はスティールパイプの椅子を本棚の前に持っていき、書架からとった本を読んでいる。
 俊介が好きなハードボイルド作家、ロバート・B・パーカーだった。〈Early Autumn〉とタイトルが見えた。もちろん原書である。
 三時四十五分。
 さすがにこれ以上待てなくなり、由起は電話を取った。インデックスカードをめくってハロルド・ナルティの携帯電話の番号を調べ、受話器を取ったとき、〈クリシュナ・ビルディング〉のエレヴェーターがガタピシと軋み音を立て始めた。
 由起は受話器を置いた。ジーンズから引っ張り出した・三八口径を握り、スティールドアをそっと開いた。
 入口のガラス扉越しに見ると、エレヴェーターは確実に五階のこのフロアに向かっていた。隣の〈B&Dクリニック〉は休診日だ。このオフィスに用のある人間に違いない。
 エレヴェーターが止まり、扉を開いてハリー・ナルティを吐き出した。
 由起は安心して、後ろ手に拳銃を隠した。
 ナルティは汗だくで、上着を脱いでいた。ワイシャツはぺったりと胸に張りつき、汗の玉を浮べる額に前髪がくっついている。
「すまん。肝心な時に車が故障したんだ。遅れてしまったな」
 由起がニッコリと笑ってガラス扉の鍵を外したとき、隣の〈B&Dクリニック〉のさらに向こうの壁にある、〈非常口〉と書かれた錆び付いた鉄扉が唐突に開いた。そこから現われたスーツ姿の長身の黒人が、銃身を短く切ったショットガンでナルティを撃った。
 鼓膜をつんざくような轟音とともに、ナルティはものももわずに壁にぶち当たり、そのままずるずると血の跡を曳きながら床にへたり込んだ。
 由起は悲鳴を放った。後退りながら、持っていた拳銃を向けようとした。
 ところがあわてたせいで、銃は彼女の手から床に滑り落ちた。それでも幸運だったというべきだったかもしれない。一発でも撃とうとしたならば、ショットガンがためらうことなく火を吹き、由起をズタズタにしていたに違いない。
 呆気に取られた顔のまま、彼女は後退った。
 オフィスのドア。手探りでノブを掴むと、それを回して素早く中に入った。
 ロックをした。
 意味のない施錠だった。
 ――お嬢さん。そこを開けてもらおうか。
 外から黒人の声がした。
 由起は首を振る。
 ショットガンのポンプを動かす音がした。ガラス越しに硝煙をまとった薬莢を排出し、二発目を薬室に放り込む姿が見えた。
 次の瞬間、落雷のような銃声が轟いた。ガラス扉の真ん中に大きな孔が開いた。
 背後に悲鳴が聞こえた。
 振り返る。マギーの声だった。本棚の前に座っていた佳織が棒立ちになっている。足元にペーパーバックが落ちていた。
 ショットガンのポンプ操作で空ケースを弾き出す音がした。ガラス扉にぽっかりと開いた穴から黒人の顔が覗いた。ニヤリと笑った口に白い歯が浮き出している。
「子豚ちゃん、子豚ちゃん。こんな藁の家なんて、おれの鼻息で吹き飛ばしてやるよ」
 ドアを蹴破って彼が入ってきたとき、デスクの上の電話が鳴った。
 すぐ傍に立っていたマギーがそれに驚き、子供のような泣き声をあげた。
 とっさに受話器を取ろうとしたのは由起だった。しかし寸でのところで、ショットガンの十二ゲージの銃口が電話を向き、轟音とともに散弾を放った。電話はまるで爆発でもしたかのように粉々に四散し、永久に呼び出し音を鳴らすことをやめてしまった。
「ベイビィ」黒人が煙をまとう空ケースをエジェクトさせていった。「待たせたな」

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