文字数 12,009文字

 タクシーの開け放った窓から、排ガス混じりの乾き切った風が吹き込んでいた。
 スモッグに煙った遠い空を、巨大な旅客機がランディングギアを出したまま、次第に高度を落としながら飛んでいる。車のクラクション、パトカーのサイレン。LAは相変わらずの喧騒の街だ。
 彼らは由起と市警本部前で別れ、タクシーでダウンタウンの真ん中を突っ切るブロードウェイを南下していた。
「慎吾たちはバークリィ銀行を襲って、千二百万ドルを強奪したんだ」
 俊介はそういった。車窓の外に右手をぶらりと垂らしている。「――だがバークリィってなあどこだ? サンフランシスコのちょい北の街か?」
「あれはBERKELEY。銀行はBERKELY、Eがないんだ。LAにある小さな銀行の名前さ。本店はレイクウッド、こっちのは支店だ」
 隣に座っているラリーがいった。「連中は、その支店をやったんだ。ビリー・ラッツが五十七号フリーウェイで〈人間ピンボール〉を派手にやって死んだのは、仲間割れのせいかもしれない」
「わからんな。だとすれば、おれたちを狙ったあの禿げのイングラム野郎のことがひっかかる。あいつらも慎吾やビリーたちとつるんでたのか」
「神村慎吾もおそらくあいつらに狙われているんだ。で、どこかに隠れている」
 ラリーが頷いた。「マギー・エンジェルには逃げられたし、アッシュも死んだ。こっちの手持ちの札はなくなっているな」
「でもないさ」俊介は開け放った窓から空を見上げた。「ゲームはこれからだ」

 彼らがタクシーを降りたのは、マギー・エンジェルのアパートメントがあるスキッド・ロウにほど近い、鄙びた地区の一郭だ。
 歩道に降り立つと、近くの古い建物の入口前の石段に座り込んでいたTシャツの黒人がひとり、立ち上がるなり、ふらふらと寄ってきた。細身のサングラスをかけ、長い髪を頭の後ろで結んでいる。青いTシャツには『MAKE LOVE & FUCK YOU!』という文字がプリントされていた。
「ヘーイ」彼は白い歯を剥き出してにやけながら、俊介の肩に手を乗せた。
「兄さんたち。鼻の薬、使わねえか?」
「失せろ」
 俊介は黒人の腕を振り解き、上着の前をわずかに開いて見せた。サファリランドのショルダーホルスターに収まったスナブノーズの拳銃が、ちらりと見える。とたんに黒人は数歩下がり、両手を開いて見せる。
「オフィサー。冗談だよ、勘弁してくんな」
 俊介のことを、私服の刑事だと見誤っているのだ。最近はアジア系人種の警官もずいぶんと増えたし、彼はがっしりした体躯で刑事に見えても不思議はない。
 黒人が去っていくと、俊介は建物の間の路地に歩き出した。あらかじめ打ち合わせていたように、ラリーが路地の入口に立ち止まり、彼の後ろ姿を見送っている。
 この辺りは煉瓦造りの古い建物がひしめき合っていて、まるでアル・カポネの時代に逆戻りしたんじゃないかと錯覚させる場所だった。どちらかといえば、ニューヨークのダウンタウンやシカゴのサウスサイドゲットーを思い出させる風景だ。
 ポルノショップと安下宿に挟まれた場所で、俊介は袋小路に行き着いた。ひびだらけの石畳の上、壊れた煉瓦のブロックに鼻先を向けるように、数台のバイクが群れていて、その間でそろいの革ジャンパー姿の数人がマリファナをふかしている。
 俊介の姿を見ると、パンク風に髪の一部を赤く染めた男が、鼻の上に皺を寄せながらにらんできた。「なんだよ、おっさん」
 それを合図に、彼らはいっせいに振り向いた。獣のような目、目。
 黒革のドライヴァーグローブに包まれた手でマリファナ煙草を挟み、ひとりが肩を揺らしながら近づいてくる。その後ろを、臍出しのレザーファッションのブロンド女が、ガムをクチャクチャと噛みながらついてきた。左の耳に、大きな銀色のイヤリングを三つもつけている。
「この辺を縄張ってるのは、あんたらか?」
 革ジャンの男が笑いながら、俊介の目と鼻の先に立った。「そうだ。挨拶トロいんじゃないの? おっさん」
 俊介は相変わらず不敵な笑いを見せている。スーツの内ポケットに手を突っ込むと、周りの連中がいっせいに緊張した。目の前にいる奴は、尻ポケットからナイフを抜き出し、スイッチを押した。が、俊介が出したのは写真だった。
「あんたらの縄張りを荒らしている連中がいると、聞いたんだが」
 慎吾の写真をかざして見せた。「――こいつのいるグループじゃないか?」
 パンクの男は一瞬それに視線を走らせたが、また俊介を睨めつけた。
「〈ヘルウインド〉だ。おっさん、知り合いか?」
 とたんに周りの連中が、彼に向かっていっせいに詰め寄ってくる。
 さらに数人がナイフを抜き出した。俊介はこんなトラブルが好きでたまらないといった風に愉快そうに笑い、目の前にいる男のナイフを持つ右手首を、一瞬にして掴んだ。利き手を取られた彼はとっさに引っ込めようとしたが、俊介の腕の力はまるで万力のように強く、びくとも動かない。男の額にじわりと汗の粒が吹き出した。
「〈ヘルウインド〉っていうのか。その連中」そういってから、俊介は手を離した。スイッチナイフが鋭い音を立てて足元に落ち、男は二、三歩後退った。
「おっさん、カラテマンか?」
 踵を返して歩き出した俊介は振り返り、ウインクをして見せた。
「日頃の鍛錬だ。あんたらみたいに、ドラッグに溺れてちゃ、男の威厳も空振りだぜ」
 路地の入口でラリーが待っていた。
「バックアップは必要なかったな」俊介がいい、彼と肩を並べて歩き出した。


       ☆

〈フローリアンズ〉という名の店は、三番街とロサンジェルス通りの交差点、歩道から少しだけ奥まったところにあった。夕刻だというのに、入口の上のネオンサインを煌々と灯らせていた。だがネオンのNとSの文字は五年も昔に点かなくなったままだし、入口横の大きなガラス張りの窓には、三年前に強盗に入られ、警官と撃ち合いになった時にできた・三八口径の弾痕が三つ、白っぽいひびを走らせたまま残っている。
 俊介たちが扉を引いて入ると、狭い店内に紫煙がわだかまっていた。
 街じゅう、どこもかしこも禁煙がまかり通っている昨今の風潮だが、ここは時代の移り変わりに置き去りにされたような店だった。
 海兵隊らしいクルーカットの男が数人、ボックス席に陣取っていて、ふたりが煙草を、ひとりがストレートタイプパイプをふかしていた。入口に近い板張りの床に置いてあるビリヤード台を黒人がふたり挟み、レールの上にクアーズの缶ビールをふたつ置いたまま、ゲームに興じている。
 カウンターには、ひとりだけ客がいた。ロディ・ムラカミ、さっき市警本部で出会った警官である。
 グラスの中で泡立った琥珀色の酒はバーボンのソーダ割りらしい。
「ロディ!」俊介が陽気に声をかけてから、相棒といっしょに隣に座った。
 厨房の奥にいた日系人のマスターが、彼らに気づいて手を上げる。ジェフ・マツオカ。鼻の下に大きな髭をたくわえた、痩せぎすの中年だ。鉄板の余熱で焼ける音を立てたステーキを客席に運ぶと、嬉しそうな顔をして彼らの前にやって来た。
「久し振りだな? ネコ捜しは儲かってんのか?」
「人間を捜しているんだ」
 そういって、俊介はワイルドターキーをオン・ザ・ロックで注文する。
 ラリーはシーヴァスの水割りだ。
「久々にまともな仕事にありつけたな?」ジェフは、アイスピックで氷を砕きながらいった。「おれに訊きにきたってことは、脛に傷を持つ人間を捜しているってわけだ」
 とたんにロディが声もなく笑い、ソーダ割りを飲んだ。
 ふたりの前に、それぞれの酒がふたつ置かれた。シーヴァスの水割りは、水のように薄い。ところが、ワイルドターキーはストレートで指二本分はたっぷりと注いである。白人のくせに酒に弱いラリーと、一方で底抜けに強い俊介。
 マスターのジェフがカウンターを挟んでふたりに向かい合って立った。
「訊こうか。誰を捜しているんだ?」
 俊介は「まずいな」と呟いた。
「大丈夫。ロディは味方だよ」
「おれもちょくちょく、マスターから情報をもらっているんだ」と、ロディがいった。
「ここらに最近やって来た、ストリートギャングなんだ」俊介がいった。
 ジェフが眉をひそめる。「〈ヘルウインド〉か?」
「知ってたのか」
「ひょっとしてお前ら、極め付きのトラブルに巻き込まれてるな」
 ジェフはラリーの顎の下に残っている傷を見つめていた。湿布は取ってあるが、痣と大きな切り傷が、依然として残っていた。ラリーは恥かしそうに笑って、水割りをちびりと飲んだ。
「まあね」と、俊介がひとこといった。
 一・五秒で三十発の弾丸を発射する銃で車を蜂の巣にされたり、プロレスラー並みの体格の男にぶっ飛ばされたり、ミュージシャンの娘に後頭部を殴りつけられたりするのが極め付きというのなら、たぶんそうだ、と彼は思った。
「〈ヘルウインド〉は、最近になってダウンタウンに勢力を張ったチンピラどもなんだ。麻薬を売り、旅行者から金を脅し取る。日本企業の手先になって、悪質な地上げをやったこともある。要するに、金になることならなんでもやるんだ」
 ジェフはそうこぼして、かすかに眉根を寄せた。
 リトル・トウキョウ市民権連盟(LTPRO)のメンバーだった彼は、三十年前、企業の雇った暴力団(モッブ)と戦い、この店を守り抜いた。その際、過剰防衛で警察に引っ張られ、LTPROの仲間の名前を明かさなかったために、半年も刑務所で臭い飯を食う羽目になったことがある。
 どこの国でもそうだが、絵に描いたような正義はなかなか通らないものだ。
 当時、モッブの連中はほとんど逮捕されず、警察に連行されたのはたいていLTPROのメンバーだった。企業は都市再開発などともっともらしい題目を銘打って、リトル・トウキョウのブルーカラーや身寄りのない年寄りを追い出そうとした。住民はデモをかけただけで、即座に反体制と決めつけられてしまう。
 似たような過去は、俊介の親たちにもあったし、彼らの横に座っている警官ロディの父親も、LTPROのメンバーだったのだ。
 俊介はバーボンを飲み干すと、二杯目を頼んだ。
「マスター。連中の溜まり場を知らないか?」
 ラリーが単刀直入に訊いた。
 彼は水割りを半分も飲んでいないが、もう顔が赤くなっている。煙のわだかまった店内の悪い空気のせいか、アルコールのまわりが早いようだ。店にはエアコンも換気扇もあるのだが、何故かほとんど役に立っていない。
「〈ヘルウインド〉がいつも溜まってるのは、五番街の〈ディクシー〉って店だ」
「ポルノショップの隣の?」
 ロディがいうと、彼は首を振った。「今はドラッグストアになってる。いずれにしろ、最低の店だ。建物の作り、デザイン、それに客も最低だ」
「ここは?」おもしろがってラリーが訊いた。
「おれは街じゅうのバーを知っているが、ここほどいいバーはないよ」
 俊介はちらりと窓の弾痕に目をやった。
 ひょっとすると、あれはあれで、一種の芸術かも知れない。
 二杯目のオン・ザ・ロックを一気に飲み干すと、俊介は相棒の腕を引っ張った。
「行くぞ。やつらのどっちかにきっと会える」
「あるいは、両方とも?」
「そうだ」
 ふたりはカウンターの上にチップを残し、ロディにも別れを告げ、〈フローリアンズ〉を出た。

 夕闇の迫ったロサンジェルス通りを歩くふたりに、歩道に張り出したネオンサインが艶色の媚びを売ってくる。夜になるとどこからともなく現われる女たち。紙袋に入れた酒瓶をあおっているホームレス。麻薬の売人。LAの裏町の夜は、そんな危険でかつ怪しげな魅惑をはらんだ始まり方をしようとしている。
 ふたりが五番街にやって来て右に折れたとき、一ブロック向こうにひっそりと停車していた灰色のアウディが、獣が目覚めたようにかすかなエンジン音を立てて生き返った。
 ネオンとネオンの間の闇に地味な車体を溶け込ませていたその様は、まったく見事という他なく、おかげでふたりの探偵に存在を悟られることはまったくなかった。
〈ディクシー〉というネオンの光る看板の横の入口から、俊介たちが店の中に入っていくと、アウディは音もなく後を追って進み、店から少し離れた道路の路肩にぴったりと添うようにして停まった。そしてまた、まるで獰猛な獣がうずくまって息をひそめるように、その場にじっと動かなくなった。


       ☆

 扉を開けて店に入ると、マリファナ臭い空気がふたりをむっと包み込んだ。
 薄暗い店内には、十年も使われていないようなピンボール台がひとつ、真っ白に埃をかぶり、ガラスにひび割れのあるジュークボックスが『ミスター・ボージャングル』を流していた。
 奥のテーブルには、そろいの革ジャンパー姿の黒人が三人。カウンターの止まり木にTシャツにステットソンのトラック野郎がひとり。マリファナをふかしているのは、もちろん、黒人たちのほうである。
「店の外見や客はともかく、音楽の趣味はいいな」
 テーブルのひとつに座るなり、ラリーがいった。
「懐かしいな。ニッティ・グリッティ・ダート・バンドか」妙な顔で、俊介が訊く。
「これはジェリー・ジェフ・ウォーカーだ。こっちのほうがオリジナルなんだ」
 相変わらずオールドソングが好きなラリーだ。
 太い腕に稲妻の入れ墨をした白人の男が給仕にやって来た。ブロンズで作られた仮面みたいに表情ひとつ変えず、注文を取った。俊介はスコッチ・アンド・ウイスキー、ラリーはジンジャーエール。
 マーガレット・エンジェルが姿を現したのは、三十分後のことだった。
 例によってギターケースを背負い、赤い革のミニスカートから色っぽい脚を剥き出していた。奥のテーブルにいた黒人たちが口笛と奇声で迎えると、彼女はシンディ・ローパーばりに鼻に皺を寄せながら、中指を突き立てて見せた。スキッド・ロウなんていう物騒な場所に住んでいる女だ、これぐらいの跳ねつけは朝飯前なんだろう。
 それから彼女はギターをカウンターに立てかけて、止り木に座ると、マスターらしい腹の突き出した男に何か耳打ちした。マスターが首を振っているところを見ると、〈ヘルウインド〉の他のメンバーが来たかどうかを訊いたのだろうと、俊介は推測した。
「彼女、お前に気づいていないな」
 俊介は愉快そうにいった。「自分がブラックジャックでぶちのめした男を覚えてないとは、お前も相当に影が薄い」
「うるせえ」まるでストレートのウイスキーを呷るように、ラリーがジンジャーをがぶりとやった。
「神村慎吾の居場所を白状させるか」
「焦るな。ここでねばってりゃ、慎吾が来るかも知れないんだ」
 俊介が答えた。
 だが、それから二時間待っても、神村慎吾は来なかった。代わりにやって来たのは電柱みたいに背の高い黒人だ。その頃には店は客でいっぱいになっていて、ジュークボックスから流れる音楽も、さっきのようなフォークじゃなく、ラリーさえ知らないだろうゴスペルソングだ。
 新参の黒人はマギーの隣に座ると、店内をひと通り見回した。その目に怯えの色があるのを、俊介は見て取った。彼も〈ヘルウインド〉のメンバーであり、つまるところ、誰かに狙われているのだ。
「三十万ドル賭けてもいい。あいつはチャーリー・レインだ」俊介が指を弾いた。
「賭けにならないよ。まさにそうだ」ラリーがいった。「どうする?」
 ふたりはじっとカウンターを見つめていたが、やがて同時に立ち上がった。


       ☆

 警察無線が、チャイナタウンで発生した211を告げていた。
 211は強盗事件のことだ。最寄りの車両はコード3で現場に急行せよと、指令が出ている。サイレンを派手に鳴らして行けという指示だ。
 ルーフに青い回転灯を乗せたフランク・ジェンキンズが、口笛を吹きながら夜のブロードウェイ大通りをすっ飛ばしていると、また無線に無機質な女の声が入ってきた。
 ――コード4に変更。犯人は緊急逮捕。
 助手席に座っていたナルティは、無言でサイレンのスイッチを切った。
「騎兵隊になれなくて、残念だったな」
 ナルティの声に、ジェンキンズは舌打ちをして回転灯を降ろした。
「――あと二時間で、おれたちの勤務は終わりだ。家に帰ってぐっすりと眠ることだな」
「イエス、ボス」ジェンキンズがいって、ハンドルを右に切り、アレクサンドル・ホテルとシチズンズ・ナショナル銀行の間の道に車を乗り入れた。
 売春宿の前に立っているポン引きらしい黒人。それにミニスカートや躰にぴたりとフィットしたドレスを着た街の女たち。用もなく夜の街をうろつくホームレスたち。彼らはヘッドライトに照らし出されるたびに、野獣のように目を光らせる。
 車は六十八年型のシヴォレー。ジェンキンズの持ち物だったが、深緑色のボディはあちこちにへこみができ、後部ドアがひとつ、ロックが効かないというオンボロ車だ。それでも、奴らはこれが警察車だとちゃんと見破るのである。
「あいつらのこと、どうするんです?」
 ふいに相棒にいわれ、ナルティは彼の横顔を見た。
「資料室から情報を盗まれた件ですよ。探偵どもがやったとわかっているんだし、しょっぴいたらどうです? ああいった手合いは、痛い目にあわせなきゃダメなんだ」
 ナルティはふっと笑った。
「大したことじゃないさ」
「ボスはあいつらを甘やかせ過ぎなんです」
「彼らは、かなりのところを掴んでいる。ひょっとすると、おれたちよりも先へ進んでいるかも知れないぞ」
「奴らとツルむ気じゃないでしょうね?」
「我々にヒントを提示してくれたよ。あいつらが取り出した情報は、例のバークリィ銀行の強盗事件だ。今、ひとりずつぶち殺されている〈ヘルウインド〉のチンピラどもがあれをやったんだよ。ただ、何故、奴らは殺されなければならないのか。仲間割れにしては、おかしいんだ」
「どうおかしいんです」
「〈ヘルウインド〉のチンピラを射殺した弾丸のことは知っているかね?」
 ジェンキンズは首を振った。
「あれは昔、CIAが雇っていた傭兵どもが使っていた特殊な弾丸だ。お前は知らないだろうが、十二年前にフランスのマルセイユで議員が暗殺された〈モラン事件〉でも、同じ弾丸が使用された。犯人とされた人物はクリスチャン・ウォルター・ゴドノフ。通称、”ブラッディベア”。元海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)の出身。あらゆる武器と殺しの技術に精通した超一流の殺し屋だそうだ」
 ジェンキンズは短く口笛を吹いた。
 ナルティはしばらく夜の街路を見ていた。五番街のネオンはいつになく毒々しい光を放っているように見える。
「ところで、あのバークリィ銀行の支店長、誰だか知っているか?」
 ジェンキンズは知らないと答えた。
 ナルティはそれっきり口を硬く結び、腕組みをしてシートの深々と凭れ込んだ。眉間に深く皺を刻み込んでいる彼の顔をちらりと見てから、フランク・ジェンキンズはまた前方に視線を戻す。一ブロック先に〈シラーズ・ドラッグストア〉と記された看板が、〈バー・ディクシー〉というネオンの手前に見えた。
 以前、あのドラッグストアの親父をコカインの密売で検挙げたことがある。
 それをジェンキンズが思い出していると、そのさらに半ブロック先に一台の自動車が停まっているのに気づいた。
「ボス」ジェンキンズの声に、ナルティは我に返った。
 彼はフロントガラス越しに前方を指差している。ヘッドライトの光芒に照らされ、遠くの路地に停まっているのは灰色のアウディのようだった。ライトを消して、闇に紛れるようにひっそりとうずくまっている。エキゾーストパイプから白く排ガスが洩れているのが見えた。


       ☆

〈ディクシー〉のカウンターにいたチャーリー・レインとマギー・エンジェルは、退路を断つように両側からやって来たふたりの探偵に気づかなかった。
 まずラリーが彼らの横、三つばかり向こうのストゥールに取り付き、同時に俊介がふたりの背後から声をかけた。
「やあ、マギー」
 彼女は訝しげな目で振り返り、たっぷり十秒はしげしげと俊介を眺めた。
「誰よ、あんた?」
「〈健全なる若者の交際推奨委員会〉のものだ。おめでとう、君たちは三百万のLA市民からただ一組選ばれたベストカップルだ。賞金三十万ドルとキィウエスト一週間のバカンス旅行が君らに与えられる」
 唖然とするふたりの向こうで、ラリーがそっと腰のホルスターに手をやっている。セフティはすでに外してあり、いつでもぶっぱなせる状態のはずだ。
「ふざけないでよ。あんた、誰?」
 俊介はニヤリとした。「なお特典として、旅行には、シンゴ・カミムラなる人物を連れていってもよろしいことになっている」
 一瞬、ふたりの顔に怯えの色が浮かんだ。
 先に立ち直ったのはチャーリー・レインだ。
 真横を向いて床に唾を落とすと、白いTシャツの上にひっかけていた革ジャンの下から、スマートなスタイルの・二二口径のオートマティックを出した。
 コルト・ウッズマン、ハイキングに持っていってコークの空缶を撃って遊ぶために作られたような拳銃だ。ダニエル・アッシュは弾丸の入っていない拳銃を持っていた。しかも、この男ときたら、空気銃に毛の生えたような・二二口径だ。〈ヘルウインド〉というのはよっぽど冴えない連中らしい。
「フリーズ」
 チャーリーの背に莫迦でかい拳銃を突きつけて、ラリーがいった。
 他の客に見えないよう、躰とカウンターの間で低くかまえている。撃鉄をカチリと音を立てて起こせば効果は覿面だが、鼓膜を破らんばかりに流れるゴスペルが邪魔だった。
「おれたちは怪しい者じゃない。シンゴの居場所を捜している探偵だ。教えてくれたら、謝礼を出す」と、俊介がいった。
 ところが、ふたりの読みは甘かった。
 突如、マーガレットが口を開け、スーザン・ボイルばりの美声で長々と尾を引く悲鳴を上げたのだ。客や店の人間が何ごとかと見るにつけ、彼らの目論見は見事に封じられてしまった。呆気に取られたふたりをよそに、チャーリーたちはとっとと逃げ出した。
 俊介が後を追い、あわてて銃を隠しながら、ラリーも続いた。
 客も給仕たちも茫然として、彼らの去った後を見ていたが、やがて何もなかったようにそれぞれの話題や仕事に戻った。ここはスキッド・ロウに近い五番街の店なのだ。

 店を飛び出すと、夜風がひんやりと顔に当たった。
 歩道に出たとたん、すぐ近くで拳銃をかまえているチャーリー・レインと鉢合わせした。
 ラリーの前にいた俊介が、とっさにゴミバケツの後ろに飛び込んだ。・二二口径の銃声は、爆竹(チェリーボム)のように頼りないものだったが、それでもジュラルミンのゴミバケツに、三つばかり穴が開いた。
 続いて飛び出したラリーが、拳銃をチャーリーに向けた。
 気づいた彼がラリーを狙ってウッズマンの引鉄を引こうとする。一瞬、ふたつの銃火が同時に闇を貫いたように見えた。が、実際はラリーの方がわずかに早かった。彼の放った二発の銃弾がチャーリー・レインの右手をかすり、彼のウッズマンが吹っ飛んだ。
 チャーリーの銃火は、あらぬ方向を向いて暴発したものだ。
 その横で、マギー・エンジェルが腰を抜かしたように地面にへたり込んだ。チャーリーはかまわず、くるりと背を向けるやひとり車道に向かって逃げ出した。
 ちょうどそのとき、大袈裟ともいえるほどのかん高いエンジン音が、五番街に響いた。一ブロックばかり向こう、街灯と街灯の間の闇に紛れていた灰色のアウディが、ヘッドライトの強烈な光条を走らせ、チャーリー・レインに向かって突進してきた。
 急ブレーキの音とともに、アウディは横滑りし、同時に開け放っていた助手席側の窓から、あのテリー・サヴァラスもどきが身を乗り出し、かまえていたポンプアクションのショットガンを派手にぶっぱなした。チャーリーは、まともに散弾を胸にくらい、両手を上げた格好で吹っ飛び、背後のドラッグストアの看板に叩きつけられた。
 アウディの助手席の男は、あの時のようにサングラスをかけ――よりにもよって――ニヤニヤと笑っていた。それを見た瞬間、ラリーは心のどこかにかけていた安全装置がかちりと外れるのを意識した。
 ラリーはとっさに身を低くした。
 片手で握っていた十ミリ口径のオートマティックを両手で握り直し、半身の姿勢で左肩に引きつけるようにしてかまえ、停車したままのアウディの窓を狙った。テリー・サヴァラスもどきが銃のポンプを前後に動かして空のケースを弾き出す前に、ラリーはありったけの弾丸を発射していた。
 男がうめいて右手をねじ曲げ、ショットガンをアスファルトの上に落とした。
 弾丸を撃ち尽くし、煙に包まれながらホールドオープンした拳銃から、空の弾倉を落とした。手早くスペアの弾倉を銃把に叩き込んだ。ストッパーを下げてスライドを閉鎖させる。その間、銃口は微動だにせず、あの灰色のアウディを向いたままだ。
 逃走を始めるアウディのリアウインドウを狙ったときだった。
 道路の反対側に停まっていた深緑色の六十八年型のシヴォレーが、こっちに向かって猛然と走り出すのが視野の端に見えた。どっちの車を狙うか、一瞬の逡巡がある。が、すぐに気づいた。シヴォレーには見覚えがあった。
 彼は逃走する灰色のアウディめがけ、立て続けに撃ちまくった。耳をつんざく銃声とともに、爆風が顔を叩く。遠ざかっていくアウディのリアウインドウが白濁し、赤く光る尾灯がひとつ、火花を散らして消えた。
 しかし標的はもう遠すぎた。百ヤード近く離れると、拳銃で狙える距離じゃない。だが、彼はスライドストップした銃に三つ目の弾倉を叩き込み、芥子粒みたいに小さく見えるアウディめがけ、できる限りの速射でさらに十発の十ミリ弾を送り込んだ。
 通りに静寂が戻っていた。
 アスファルトの上を転がる無数の空薬莢の、乾いた真鍮の音だけが残った。ラリーは弾丸の切れた銃をゆっくり降ろし、右の掌にくっきりと残った銃把の跡を見つめている。
 深緑のシヴォレーが停車し、ふたつのドアが開き、ふたりの刑事が出てきた。フランク・ジェンキンズはリヴォルヴァーをかまえ、ラリーに向けた。
「銃を足元に降ろすんだ!」
 ジェンキンズにいわれ、彼はゆっくりと腰をかがめた。まるで壊れ物を扱うように、ブレンテン・オートを舗道にそっと横たえた。
 ナルティは車外に引っ張り出した無線のマイクに向かって、応援の要請をしている。
 ラリーは、ジェンキンズにシヴォレーのボンネットに押しつけられた。身体検査をされてから、後ろ手に手錠をかけられた。
 ちょうどそのとき、背後の店の入口の横、ジュラルミンのゴミバケツがごろりと転がり、後ろに倒れていた俊介がやれやれといった表情で姿を現した。
 ナルティが銃を抜くと、俊介はまるでわかりきっているみたいに両手を頭の後ろに組んだ。ナルティは彼のショルダーホルスターから拳銃を抜き、自分のズボンのベルトに挟んだ。
「まったく、わかってないんだな」と、俊介がいった。「アウディを追いかけなくてもいいのか? 例のイングラム野郎の車だぜ」
「今、手配したよ。こっちも、この現場を見逃すわけにはいかんからな」
 ナルティは俊介にも手錠をかけ、それから大の字に路上に倒れている血まみれのチャーリー・レインを調べた。
 むろん、生きているはずはない。即死だったろう。ラリーはそう思った。
 その傍で、マーガレット・エンジェルがまだへたり込んでいた。大きく目を見開いたまま、ガタガタと震えている。
 五分もしないうち、大げさなサイレンとともに一番乗りにやって来たパトカーが、ナルティの指示を受けて、アウディが去っていった方角に走り出した。さらに立て続けに四台がやってきて、今度は停まりもせず、青いルーフランプを明滅させながら通りを疾走していった。
 最後に到着したパトカーから出てきた警官がふたり、集まってきた野次馬の整理を始めた。
 ジェンキンズはラリーの拳銃を拾い上げ、まいったという顔で彼を見た。
「こんな往来の真ん中で、いちどきに何十発もぶっぱなしやがって」
「二十八発」と、ラリーが憮然と答えた。「先に、チャーリー・レインの銃を吹っ飛ばすのに二発ばかり使ったから」
「若いの。いったいどうやったら、あんなすさまじい射撃が出来るんだ?」
「毎晩、銃を抱いて寝てるんだ」
 ラリーのその答えをジョークと知って、ジェンキンズは黙って肩をすぼめただけだった。
「せっかく取った明日の休日も、お前らのおかげでパアだ」
 手錠をかけられた俊介が、同じく後ろ手に手錠をかまされたラリーの傍に来た。「奴らを見たか?」
 ラリーは頷いた。「三人いた。運転手が黒人、助手席と、あと後部座席に白人がひとりずつ。助手席の男に三発はくらわせたよ。あとはダメだったけどね」
「三発もか。で、殺したのか」
「いや。利き手だけだ」
 ロープを張って通行止めにした通りの真ん中で、ハリー・ナルティが路上に転がっていたショットガンをよそに、そこら中に散乱している空薬莢を、ボールペンの先で拾い集めてはビニール袋に落としていた。
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