文字数 11,843文字

 ブロードウェイを右に折れて歩くと、二十七階建の白亜の殿堂、シティホールが左手に見えてくる。摂氏二十二度の午後の気温は六月初旬のロサンジェルスでは平均的なものだが、剥き出しの首筋を陽光が強く焼こうとしている。
 前方の交差点、DON'T WALKの赤信号の下に集まっている通行人たちは、そんな日差しをものともせずに、明るい南カリフォルニアの夏に似つかわしく、幸せに満ち満ちた人生を楽しんでいるに違いない。神村佳織はそう思いながら青い空を見上げた。
 横断歩道の手前で立ち止まり、額の汗を拭っていると、信号が青に変わった。反対側から歩いてくる一群とすれ違ったとき、先陣を切っていたローラースケートの黒人が、ウォークマンのヘッドホンから、スティーヴィー・ワンダーの古い曲を派手に洩らしていた。
 ホテル街の脇を通って、スペースシャトル〈チャレンジャー〉の飛行士から名前を取ったオニヅカストリートに入ると、そこはもうリトル・トウキョウと呼ばれるダウンタウンの一郭である。
 タイルが敷き詰められた広い並木道。白を基調とした瀟洒な高層建物の群れ。
 すぐそこに見えるのはまるで白と黒のレゴをくみ上げたような巨大なホテル、ダブルツリー・バイ・ヒルトンだ。
 もっと雑然とした光景を想像していた彼女は、あっけにとられたように街路を見つめていた。その横を、大勢の東洋人が擦り抜けていく。ここに暮らす日系人ではない。中国人に韓国人。いずれもカメラを持った観光客だった。
 佳織は気を取り直して歩き出す。三番街に入ると、さすがに昔の建物が残っているためか、街は少しだけ落ち着きを取り戻したように思えた。
〈クリシュナ・ビルディング〉は、そんな古い街区の交差点に面した場所に立っていた。そこだけ時間の流れに取り残されたように思えた。無数のひび割れが壁面を走る煉瓦造りの五階建で、三流のホラー映画を作る三流監督なら喜んでロケに使いそうな代物だった。
 空きオフィスになっている一階の窓ガラスはことごとく叩き壊され、そこから投げ込まれた無数のビールの空缶が、埃だらけの床に散乱しているていたらくだ。
 彼女はジェーン・モアの紺のジャケットから肩がけしたバッグに片手を入れ、一枚の紙切れを取り出して見つめた。ボールペンで金釘流に書きつけられた番地と、建物の脇に貼りつけられた番地を照合して、同じ場所だと確認をした。
 ビルの入口の脇に貼られた緑青だらけの大きな銅板のプレートに、テナントで入っている幾つかのオフィスや社名などが記してある。〈トラブル・コンサルタント/プライヴェイト・インヴェスティゲイション〉は、最上階の五階、〈B&Dデンタル・クリニック〉という名前の歯医者と隣合わせだ。佳織はしばらくそこに佇立したまま、看板に並んだ英文字を見つめていたが、やがて決心したようにビルに入った。
 エレヴェーターは建物と同じぐらい年老いていて、錆び付いた格子状の鉄扉をガラリと横に開いて乗り込むタイプのものだった。箱の中には、むっとするような煙草の残滓がわだかまっているし、壁にはスプレーで乱暴に書かれた、上品とはいい難いスラングが無秩序に並んでいる。『5F』のボタンを押すや、エレヴェーターの箱はガクンとすさまじい音を立てた。驚いているうちに、ふいに強風に煽られたかのように大きく揺れ、のろのろと重たげに上昇を始めた。
 今にもコイルが焼け切れるんじゃないかと思うほど騒々しいモーター音の中で、神村佳織はじっと虚空を見据えていた。


       ☆

 鮎川由起が五枚の『調査報告書』をパソコンに繋いだプリンターから出しているとき、〈トラブル・コンサルタント〉のガラス扉の向こうに影が差した。
 由起はマウスから手を放し、事務机から身を乗り出すようにして見た。紺のジャケットと同じ色合いのタイトスカートが見えた。顔は、ちょうどガラスに記された〈トラブル・コンサルタント〉の文字の後ろになってよくわからない。古いエレヴェーターの騒々しい駆動音には気づいていたが、五階に上がってくる人間といえば、たいていは隣にある歯科医の客だったから、いつも気にとめなかったのだ。
 ガラス扉がノックされると、由起はジーンズの膝にかかっていた長い黒髪を両手で肩の後ろに流してから、スティールパイプの椅子を引いて立ち上がり、ノブを回して扉を開けた。
 立っていたのは、彼女と同年配ぐらいの東洋人の女性だ。セミロングの髪が耳の下できちんと切りそろえてあり、やや切れ長の美しい瞳。真一文字に結ばれた口元に、程よく似合う薄めの口紅がひかれている。
「先程、電話した神村といいます」
 彼女がちょっとか細い声の日本語でそういうと、由起はにっこりと笑ってオフィスに招き入れた。楚々とした様子で中に入った佳織は、由起がさっきまで事務仕事をしていた机の脇に立ち止まり、きょとんとした顔で辺りを見回している。
「いらっしゃい。あの、お電話では夕方とうかがったはずですけど?」
「正直いって、こちらを訪れていいかどうか、ずっと迷っていたんです。でも、やっぱりって決心したら、足が自然とここに向いていました」
「わかるわ。ここに初めて来られるお客さんって、そういう人が多いのよ」
 由起は机のZライトのスイッチを切り、奥にあるスティールドアを開けた。向こうはかなり広い部屋だった。
 大きなマホガニーの机がひとつ。皮張りのソファがひとつ。やけに旧式なデスクトップ型のパソコンを置いた事務机。
 近くの壁際に天井まで届いた書架があり、乱雑に突っ込まれた本に混じって、ヒヤシンスをさした花瓶やCDコンポが置いてある。そしてゴッホの『鴉のいる麦畑』の複製画が、さながらシネスコサイズのスクリーンのように壁の一画を占領していた。
 開け放たれたブラインドの窓ガラスは大きく、そこを通して見えるロサンジェルスの街が、灰色のスモッグに霞んでいる。
 どこにでもあるようなオフィスの光景だが、問題はここにいる人間である。
 肘まで袖をまくった白いワイシャツに、だらしなくネクタイを引っかけた黒髪の男と、チェック柄のボタンダウンのシャツにジーンズといったラフな格好の金髪の白人男性が、ふたりして擦り切れた薄緑色の絨緞の上に屈み込んでいた。
「SHIT!」
 ネクタイ姿のほうが片手に持っていた蝿叩きを振りかざして、絨緞の上の何かを強くはたいた。直撃を逃れた黒い楕円形の虫がマホガニーの机の下に逃げ込んだとき、入口に立っていた由起がコホンと軽く咳払いをした。
 彼らはそれに気づいて、いっせいに振り返った。
 ジーンズの白人男性はラリー・ステインシュネイダー。メタルフレームの眼鏡をかけ、やや長めのブロンドヘアがブラインド越しに差し込む陽光に輝いている。ネクタイを引っかけたもうひとりの男は成田俊介。短い黒髪を耳の後ろに撫でつけた、整った顔立ちの東洋人だ。ふたりとも年齢は同じ三十五歳。この〈トラブル・コンサルタント〉の探偵だった。
「お客さんよ」子供の悪戯を見つけた母親のように苦笑しながら、由起がいった。
 俊介があっけにとられた顔で振り向いていたが、蝿叩きを後ろ手に隠してしゃんと背を伸ばし、芸術的といえるばかりの、社交辞令の笑顔を見事に作り出した。
「いらっしゃい、どうぞ」
 机の反対側にある客用の椅子を引いて手を差し伸べたあと、彼は気まずい顔に戻って相棒を見た。ラリーは狼狽えた顔のまま、ジュニアハイスクールに通う子供よろしく真っ赤になっている。
「神村佳織さん。ほら、今朝がた電話をかけてこられた……」
 由起は客の名前を告げ、彼女をマホガニーの机の前に連れていく。佳織はスカートを気にしながら、椅子にそっと腰を降ろした。反対側にふたつ並んだ椅子に、ふたりの探偵が座り込む。ラリーがまだ顔を赤くしたまま、ほとんど訛りのない日本語でこういった。
「すみません、変なところを見せてしまって」
 そんな彼らの様子に、佳織はちょっとだけ気を緩めることにした。
 探偵事務所なんて映画や小説の世界でしか知らないが、もっと格式張って、お堅い場所だとばかり思っていた。
「コーヒー、淹れるね。神村さん、お砂糖とクリームは?」
 佳織が「お願いします」と返事をすると、由起は頷いて、ゴッホの絵の脇にあるもうひとつのスティールドアを開け、狭いキッチンスペースに入った。

「ここ、すぐにわかりました?」
 蝿叩きを机の下に仕舞いながら、成田俊介が訊いた。
「〈クリシュナ・ビルディング〉なんて珍しい名前ですから」
 くすっと笑った彼女を見て、俊介は微笑んだ。
「ホントに変なネーミングですよね。実は戦前に、オーナーが日系人専用の貸しビルにするために建てたっていうんですけどね。適当な日本語を勝手に作って登録しちまったらしいんです。〈クリシュナ〉って、まさかインドの宗教じゃあるまいし」
「スティーヴ・ジョブズもハレー・クリシュナ教の信者だったらしいよ」
 ラリーがいうので、俊介が返した。
「知ってるさ。ジョージ・ハリソンもだ」
「あの……」
 彼女にいわれ、俊介が咳払いをした。「失礼」
 ラリーもようやく落ち着いた顔に戻って、自己紹介をした。
「ぼくはローレンス・ステインシュネイダー。ラリーと呼ばれてます。で、こちらは成田俊介。〈トラブル・コンサルタント〉のPI(探偵)で、合衆国政府から私設調査員の鑑札をもらっています」
 それぞれ名刺を差し出した。
「成田……、じゃあ、あなたは日本人?」
 俊介は首を振った。「日系三世です。祖父の代に、この国に渡って来ました。正式にはテッド・シュンスケ・ナリタっていいます。でも、この探偵社は日本人のお客さんも多いから、そちら向けの名刺は漢字です」
「ステインシュネイダーさんも、日本語がお上手なんですね?」
「ラリーと呼んで下さい」
 メタルフレームの眼鏡を指先で押し上げ、彼がいった。「両親が仕事の関係でずっとヨコハマで生活していたので、実は日本生まれなんです。アメリカンスクールじゃなく、日本の学校でした。二十二歳で大学を出るまで、ずっとそっちにいましたし」
「そうだったんですか。あの、ところで――」
「そうですね。さっそくお仕事の話に行きましょうか」
 俊介は生真面目な顔になる。前置きから本題に話が移った瞬間、彼らの目つきがプロのそれに変わった。
「はい」
 佳織が返事をしてから唇を噛み、俯いていった。「弟を捜していただきたいんです」
 膝の上に載せていたショルダーバッグの中から、一枚の写真を取り出して、俊介たちの前に置いた。サンタモニカらしい海岸を背景に、Tシャツ姿の十七、八の少年がにっこりと笑っている。浅黒い顔に真っ白な歯が印象的だ。
「――私、一年前からUSC(南カリフォルニア大学)に留学しているんです。弟は半年前に都内の高校で暴力事件を起こして退学になり、親元にいられずに私を頼ってこっちに来ました。それが二週間ほど前にいなくなりました。家に帰ってこなくなり、携帯で呼び出そうとしてもダメでした」
「神村……慎吾くん」
 俊介は写真を取り上げ、しげしげと見つめる。「警察には頼みました?」
 佳織がかぶりを振った。「頼めない事情があるんです」
 眉をひそめた俊介は、写真に落としていた視線を彼女に向けた。
「警察は親切ですよ。そういったプライヴァシーもちゃんと守ってくれる。それに最近は合理的な捜査が出来るようになりましたからね。各分署とパトカー直結のコンピューター・ネットワーク。手際のいいデスクワーク。下心抜きの親切な対応。だいいち、うちと違ってまるっきりの無報酬だ」
 彼女はその言葉を聞いていないようだ。
「慎吾は札付きの不良でした。こっちに来ても悪い仲間とつきあっていたみたいです。麻薬か覚醒剤みたいなものをやっていて、だんだんとのめりこんでいったらしいんです。それが一昨日、突然、慎吾から小包が届きました。中に――三十万ドルの札束が入っていたんです」
「三十万ドルも?」
 俊介が驚きの声を洩らす。
「大きな犯罪に巻き込まれたに違いないんです。警察には何度か行こうと思いましたけど、やめました。それで興信所というか、探偵に頼むことにしたんです」
「弟さんは何か言づてでも?」と、ラリー。
 彼女は暗い表情で、首を振った。「差出人の住所もありませんでした」
「なるほど、ね」俊介は椅子の背に凭れかかって、頭の後ろで両手を組んだ。
「どうする?」
 しばらく腕組みをしていたラリーが、ややあって答えた。「ぼくらで引き受けるべきだね」
「おれも異存なしだ、相棒」
 スティールドアが開いて、キッチンスペースからブレンドコーヒーの香りとともに由起が戻ってきた。トレイからコーヒーカップ三つと、ミルクと砂糖壷をとって置いた。ラリーと彼女が砂糖とミルクを入れてスプーンでかき回した。コーヒーにこだわる俊介はブラックのままだ。
 由起は窓際に面したパソコンの前に座り、起動させると、手馴れた仕種でマウスとキィボードの操作を始めた。
 ラリーが振り返って彼女に伝える。
「じゃ、由起。記録してくれ。事案は行方不明者の捜査。名前はカミムラ・シンゴ。男性で日本人――」そして、また向き直った。「年齢は? 佳織さん」
 彼女は十八だと答えた。
 身長、体重、その他、顔や躰の特長、行方不明時の服装、日本にいたときの住所、電話番号、アメリカでの生活ぶり、交遊関係、頻繁に通った場所。前科はないか。眼鏡はかけていないか――などを彼がてきぱきと質問し、それを由起がパソコンに打ち込んでいく。
 彼女の前のモニターには日本語と英語が手際よく並び、たちまちのうちに神村慎吾に関する詳しい資料が出来上がった。
「三十万ドルっていうのは、たしかに気になりますね。チンピラ風情――失礼、街の不良とつきあっている若者が、簡単に手に入れるような端金じゃないですな。今、その金はどちらに?」
 俊介が訊くと、彼女は少し目を泳がせてから、いった。
「銀行の貸し金庫に入れてあります」
「それはいいやり方だ」俊介が頷いた。「最後に、もうひとつ。弟さんが失踪なさる頃、何か変わった様子は?」
「いえ、特に――」
 由起が打ち込んだテキストをプリントアウトし、ラリーの前に持ってきた。彼は文書の頭からチェックし、机の上の写真を空白の部分にあてがってみた。
「この写真、二、三日お借りできますか?」
 神村佳織が黙って頷いた。
「それから、調査費用についてですけど。一日につき、二百ドル。プラス必要経費。もちろんこれは領収書をつけます。それから一マイルにつき、十五セントのガソリン代。ボディファイトやガンファイトが必要な場合は、さらに追加料金が加算されます。明細がもしご必要ならば――」
 ラリーがいいかけると、彼女は首を振った。「お金ならいくらでも出します。日本から送ってもらえるから」そして、こういい足した。「金持ちなんです、私の実家」
 口笛を吹く真似をした俊介が、肩をすくめて相棒を見た。が、ラリーは気づかず、プリントアウトした文書にサインをしている。「あなたのお名前、ご住所と電話番号をここにお願いします」
 佳織が書き終えると、俊介が背もたれに寄りかかった。
「わかりました。さっそく今日から調査に取りかかります」
 彼女が頭を下げ、そっと立ち去った。由起が入口まで見送っていったあと、俊介はラリーとともに同時にふうと溜息をついた。
「人捜しなんて、何か月ぶりだ?」頬杖を突きながら俊介がいう。
「ペットも人も同じようなもんだろう。屋根の上や建物同士の隙間を調べる必要がないだけ楽ってもんさ」
 ラリーにうなずき、俊介が椅子を引いて立ち上がった。
 ブラインドを開け放った窓から街を見下ろした。二十階建の大きなホテルが、周りの建物を押し退けるように立っていた。
 ダブルツリー・バイ・ヒルトンホテル。もとはホテル・ニューオータニと呼ばれていた。
 あれが出来たのは、一九七七年の夏だ。そのため、辺りに並んでいた月極め六十ドルの安ホテルが根刮ぎ取り壊され、百人を越える住人が放逐された。もちろん彼らには、何の補償もなかった。
 合衆国を蝕みつつある巨大資本の侵食は、このリトル・トウキョウにも確実に手を延ばしている。悪質な地上げなどで土地を買いあさっていた日本企業の台頭も二十一世紀には下火になり、代わりに目立ってきたのが韓国系企業の進出だった。
 トレンチコートに身を包んだ孤高な探偵たちがロマンに生きた時代は、とっくの昔に終わっていた。だから、このみすぼらしい探偵社を訪れる客は、その大半が迷子のペット捜しの依頼をしたものだ。実際、それはいい金になった。
 由起が戻ってきて机のコーヒーカップを片付けはじめた。
「おかしな探偵さんたちって、いってたわよ」
「君も初めてここに来たとき、同じことをいったよ」
 俊介の言葉に彼女はくすっと笑い、窓際に立っているラリーの後ろ姿を見た。彼はしばらく窓外の風景を眺めていたが、やがて俊介の所に戻ってきた。
「さて、仕事に取りかかろうか」
「名案だな」
 彼は答えると、机の下に隠していた蝿叩きを取り上げ、壁に沿って脱出を試みようとしていた大きなゴキブリを、一撃のもとに平にのしてしまった。


       ☆

 神村慎吾は、二週間前にイースト・ロサンジェルスにある姉のアパートメントを出ていた。
 三十万ドルを同封した封筒に住所は記されていなかったが、という中央郵便局の消印が押されてあったらしく、ダウンタウン界隈のどこかから投函されたに違いなかった。
 彼の友達で、佳織が知っている唯一の人間は、グレイハウンド・バス・ターミナル近くのメイプル通りにある古いアパートメントに住んでいた。何とも響きのいい街の名前とは別に、その辺りはちょっとばかり物騒な界隈である。
 俗に〈スキッド・ロウ〉と呼ばれ、グレイハウンドを利用する観光客がちょくちょく迷い込んで、ホールドアップの憂き目に遭ったりする。
 サンペドロ通りと五番街の交差点に差しかかると、俊介はシフトダウンし、ステアリングを逆手に持ち直しながら車を右折させた。急激なGに、助手席のラリー・ステインシュネイダーが窓のアシストハンドルにしがみつき、小さく悪態をつく。
 車は日本製。七十年製の灰色のマツダ・サバンナ・クーペである。日本でも七十八年に生産が終了しているというから、ずいぶんと古い車だが、走りはいまだ快調そのもの。八年前に中古屋でぶっ叩きの安値で買ったとき、俊介はオプションだった10A型のロータリーエンジンを外し、発展型の12Aエンジンを組み込んで、さらにチューンナップの手を加えた。
 車にうるさい俊介としては、ジャガーやマセラティのステアリングを握るほうが性に合っているが、商売柄地味な車を選ばざるをえない。いかな南カリフォルニアのきらびやかな街路とはいえ、目立つ車では探偵業はつとまらない。それはラリーといっしょにこの仕事を始めたときから覚悟を決めたことだ。
 メイプル通りに車を入れて、二ブロックほど走らせると、俊介は路肩ぎりぎりまで寄せて停車させた。エンジンを止めると、莫迦でかい音量でスティングの歌を流していたカーオーディオが沈黙した。通りの端々に浮浪者の姿がある。紙袋に入れた酒を飲んでいる者、石段に座り煙草をふかしている者。
 ラリーがデニムのジャケットの胸ポケットから二十五セント硬貨を出し、拇指で弾いて宙で捕まえる。
「表だ」と、俊介。
 ニッケルに彫り込まれたジョージ・ワシントンの横顔が、ラリーの掌に乗っている。
「ビンゴ」俊介がニヤリと笑った。「神を信じるか?」
 コインの表に書いてある言葉である。IN GOD WE TRUST――神を信じるべし。
「いい神様ならね」ラリーがドアを開き、舗道に立って答えた。
 彼が歩き出すと、運転席に残った俊介が片手を振ってバイバイをやった。スキッド・ロウに車を停めるときは、スプレーを吹き付けられたり、タイヤを盗まれたり、あるいはフロントガラスを壊されないように、誰かが車内に残る必要がある。
 探偵業を始める前から、身についていた習慣だ。

 スレート葺きの平屋造りのアパートメントの前で、ラリー・ステインシュネイダーは立ち止まった。枯れかけた芝生の庭の前に、郵便受けが並んでいる。マーガレット・エンジェルという名前はすぐに見つかった。部屋の番号を調べ、建物に向かう。青いペンキの剥げかけたドアの横に、呼び鈴がある。押してみたが返事はなかった。
 部屋の脇に回り、電気メーターを調べてみる。マーガレット・エンジェルの部屋のメーターは動いていて、電力会社に月々支払うべき料金が着々と増しているのがわかった。部屋に誰かがいるか、あるいは電気を使う何かをつけっぱなしにして外出しているかのどちらかである。
 ラリーは彼女の部屋の前に戻り、ドアを叩いてみた。返事はなかった。
 もう一度。すると今度は低い男の声が返ってきた。
 ――チャーリーか?
 マーガレット・エンジェルという名前の男は世の中には存在しないはずだし、ことにジャン・ギャバンばりに低いバリトン声の男とくれば、なおさらである。それにだいいち神村佳織は、弟がオカマとつきあっているとはいってなかった。
 ――誰だ? おめえ。
 ドアの向こうの声が尋ねた。
「チャーリーだ」仕方なくラリーが答える。
 しばらく沈黙が流れ、そしてまた声がした。
 ――入りな。
 チェーンロックが外される音がし、ドアが十インチばかり開いた。ラリーがそこから中を覗こうとしたとき、毛むくじゃらの太い腕が伸びてきて、彼の襟首をすさまじい力で掴み、同時に拳が風を切って顎の右下に炸裂した。
 顎の骨が外れないのが不思議なぐらいの、強烈なパンチだ。
 ラリーはよろめいて二、三歩後退り、段差に蹴つまずいて仰向けにひっくり返った。鼻の下までずり落ちた眼鏡をあわてて元に戻すと、ドアの向こうから巨漢が出てくるのが見えた。薄い唇の上に髭を蓄えた若い男で、〈シンプソンズ〉のキャラクターをプリントした白いTシャツが胸の筋肉の隆起で盛り上がっていた。
 ボクシングかレスリングでもやっているのか、いかにもなタフ・ガイだ。
「どこのチャーリーだ? おめえは」
「チャーリー・チャップリンだ」
 ラリーは答えて唇の端についた血を拭って立ち上がり、男と向かい合った。身長だけでも、二フィート近く差がある。体重ならば倍は違うのではないかと思えるほどの偉丈夫だ。彼にとってなお都合が悪いことに、タフ・ガイはだらりとたらした片手に・三八口径の拳銃を握っていた。
「ビリーを殺ったのはおめえだな?」
 低い声で彼はいい、拳銃の撃鉄をゆっくりと引き起こした。輪胴が六分の一回転し、チッという金属音とともに止まった。男が銃をラリーの顔に向けたため、彼はライフリングの刻み込まれた銃口をまともに覗き込むかたちになった。
「ビリーって誰だい。あんたの仲間か?」
「くそくらえ!」
 男は丸太のように太い腕を伸ばして、ふたたびラリーの襟首を掴み、今度は顎の下から銃身を押しつけてきた。そのとき、背後に足音がした。タフ・ガイがそっちを見た瞬間、ラリーは彼の拳銃を掴み、同時に撃鉄の間に拇指を挟み込んだ。タフ・ガイが唸り声とともにラリーを吹っ飛ばしたが、拳銃は彼の手に渡った。
「たいしたタマだぜ、こいつ」
 ふたたび地面にすっ転んだまま、ラリーは見た。
 デカブツ男の鳩尾に、成田俊介がカウンターを食らわしたところだった。前屈みになったその下顎へ、今度はアッパーを叩きつけた。タフ・ガイは土煙を上げて、その場に転倒した。
「相棒を殴ってくれた礼だ」
 男を俯せにして両手を後ろに回し、彼はスーツの下から出した手錠をかけた。
「LAPDアジア特捜班のジェイムズ・シミズだ。お前に逮捕状が出ている」
 男の躰を引き起こしながら、俊介はでたらめをいっている。「――第一に、お前には黙秘権がある。第二に、お前の供述はお前に不利な証拠になり得る。第三に、弁護士を立ち会わせる権利がある。第四に弁弁護士を雇う金がない場合、裁判所に依頼して公選弁護人をつけてもらうことができる」
 いかにもいい馴れた相棒のミランダ警告にラリーはそっと苦笑いする。
 顎をさすりながら立ち上がって、男の拳銃をジーンズのベルトに挟み、彼の出てきた部屋に入り込んだ。
 カーテンが窓を覆って中は薄暗かったが、人けはない。黴臭いキッチンの流し台いっぱいに汚れた食器類が雑然と放り込まれていて、開けっ放しの大きな冷蔵庫の中には、缶ビールしか入っていなかった。
 居間の色褪せたカーペットの上には大きな目をした黒い猫が寝転がり、氷のように冷たい瞳でラリーの姿をじっと見つめていた。衣装棚の上には女ものの白と黒の下着。壁にはジミ・ヘンドリックスのポスター。
 マーガレット・エンジェルは留守らしかった。
 しかも、ずいぶん前からだ。

「お前にゃ、やっぱり悪い神様しかついていないよ」
 歩道に沿って停めたサバンナ・クーペの運転席に座って、俊介はあきれ返って相棒の顔を眺めている。ラリーの左の頬が赤黒く腫れてきていた。
 ダッシュボードに取りつけてある車載無線から、フィゲロア通りで起こった車の玉撞き事故の様子を知らせる警察無線が入ってきている。42号車と53号車が現場に急行中と伝えていた。
「殴り合いはお前に任せることにしてるんだ」
 ラリーは水道水に浸したハンカチを頬に当て、口に指を突っ込んで歯が折れていないことを一本一本、たしかめていた。
「タイヤが盗まれていたりしたら、お前の給料から差っ引いたところだ」
「タイヤもミラーも盗まれちゃいないじゃないか。だいいち給料なんて、もう二カ月ももらってない」
 ラリーはルームミラーに顔を映し、痛む顎をゆっくりと左右に動かしてみた。
「おめえら、サツじゃあねえだろう?」
 後部座席から野太い声がする。さっきの男が後ろ手に手錠をかけられたまま、シートに凭れ込んでふてくされた顔をしていた。俊介にアッパーカットを食らった――まさにラリーと同じ――場所が腫れ上がっている。
 俊介はもっともらしく警察無線を傍受していた無線機のスイッチを切り、諦めた表情を浮かべながらカーステレオのFMラジオ放送をつけた。懐かしいフィル・コリンズの曲、『夜の囁き』が流れていた。
 ラリーはご機嫌な表情になる。
「おれたちは私立探偵だ。あんたの名前は?」と、俊介。
「ケツでも、なめやがれ!」
「もう一度だけ訊いてやる。〈ケツなめ〉と呼ばれたくなけりゃ、ちゃんと答えろ。お前の名前は何ていうんだ?」
「アッシュだ」
「何アッシュだ?」
「ダニエル・アッシュ」
「よろしい。ミスタ・アッシュ。どうしてマーガレット・エンジェルのアパートメントにいた? 簡潔にまとめて答えたまえ」
「おれはマギーの友達なんだ。彼女が帰るのを待っていた。それだけだ」
「チャーリーってのは?」と、ラリーが訊いた。
 アッシュはまた黙りこくってしまった。
「さっき、黙秘権があるっていったが、あれは嘘だ。おれたちは合衆国連邦政府から、容疑者を拷問できるスペシャルライセンスをもらった探偵なんだ。四十八通りのスペシャル・テクニックをお前に使ってやってもいいんだぞ」
「よくいうよ、まったく」
 ラリーがアッシュの拳銃の輪胴を振り出しながら、呆れた様子で呟いた。弾丸は一発も入っていなかった。こけ脅しだったのだ。
「チャーリー・レインだ」彼は疲れ切った表情でその名を口にした。「おれのダチなんだ」
 ラリーは空の輪胴を拳銃のフレームに戻した。拇指でわずかに撃鉄を起こし、左手の上腕部に当てた輪胴をキリリと音を立てながら回した。
「ビリーが殺されたっていってたな? あんた、この弾丸のない銃を使って、誰かから身を守ろうとしていただろう? 察するに、あんたもそのチャーリー・レインも、ビリーを殺した誰かに狙われている。ひょっとして、マギーもか?」
「おれたちは神村慎吾を捜しているだけだぜ。妙なトラブルに巻き込まれるのはごめんだ」
「シンゴを知っているのか?」アッシュが俊介を見た。
「なるほど、ね」ラリーがいった。「ミスタ・アッシュ、マギー・エンジェル、チャーリー・レイン、故ビリー某氏。みんな、神村慎吾がつきあっている街の不良仲間ってわけだ。さあ、アッシュ。教えてくれ。慎吾はどこにいるんだ?」
 そのとき、俊介は気づいた。
 道路の反対側を、フロントグリルにトレードマークの四つの輪をつけた灰色のアウディが通りかかった。銃声と同時に、サバンナの開け放った後部ウインドウから飛び込んできた数発の弾丸が、ダニー・アッシュの後頭部に突き刺さり、頭蓋を粉々に砕きながら鮮血と脳漿を撒き散らした。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み