文字数 11,296文字

 ふたりが解放されたのは、明け方になってからのことだった。
 指紋と写真はすでに警察にあったから省略されたが、供述書を書かされてサインをし、くどくどと刑事たちに説教をされてからおっぽり出された。いつものことだ。
 市警本部からリトル・トウキョウまで歩き、〈クリシュナ・ビルディング〉のエレヴェーターで、五階まで昇る。
 ポストに差し込まれている〈ロサンジェルス・タイムズ〉を抜き取ってから入ると、オフィスは森閑として静まり返り、閉め切ったブラインドの隙間から漏れた朝日が、擦り切れたカーペットの上に縞模様を作っていた。
 マホガニーの大きな机に突っ伏して、鮎川由起が眠っていた。
 その姿に、ラリーは思わず見とれた。
 机の上には読みかけていたらしい小説の単行本が伏せてあり、タイトルは〈夜はやさし〉、著者はフィッツジェラルドと読めた。その傍に折りたたまれた眼鏡が置かれ、長い黒髪がうねっていた。
 かすかに上下している小さな肩にラリーが手をかけようとする。俊介が黙って手で止めた。彼は口の前に人差し指を当て、わざとらしくその指を左右に振った。
 ラリーは頷き、相棒の気遣いに感謝した。麻の上着を脱いで由起の肩にそっとかけた。
 俊介が納得したように笑い、それからスーツの上着を脱いだ。ついでにショルダーホルスターも外して椅子の背凭れにかけ、スティールドアの向こうに姿を消した。
 キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる頃、ラリーは窓際のソファに腰を降ろし、腰の拳銃を抜いて手馴れた動作で分解を始めた。
 スライドとフレーム、そして銃身をボロ切れで磨き、スプリングや作動部分にスプレー式のオイルを注す。薬莢の排出に重要なエキストラクターとエジェクターをボロ切れでたんねんに磨き、銃腔にはブラシを念入りに通した。
 眠っている秘書の後ろ姿に目がいった。
 しばらく、その背中を見つめていると、ふいに由起が身じろぎして目を覚ました。
 ラリーはいそいそと拳銃を組み立ててホルスターに突っ込んだ。
 彼女は指先で目をこすり、長い髪を片手で背中に流してから、背後を振り返った。
「あ、ラリー? お帰りなさい」
 そして、自分の肩にかけてある彼の上着に気づき、ちょっと恥かしそうに頬を染めて笑った。
「うちに帰らなかったのか?」
「うん」彼女は頷き、ラリーの上着を肩にかけたまま、彼のほうを向いた。
 俊介がトレイにコーヒーカップを三つ乗せてやって来た。
 マホガニーの机の上にカップをひとつ置いてから、ラリーにも渡し、最後に自分のコーヒーを持って彼の隣に座り込む。
〈ロサンジェルス・タイムズ〉の朝刊には、『五番街で深夜の銃撃戦』と見出しをふった記事が写真付きで載っていた。どこで仕入れたのか、それはラリーたちの写真だった。
「これじゃ、あの殺し屋どもに、おれたちを殺りに来てくれっていうようなものだ」
 俊介が肩をすくめていった。
「いい方法がひとつだけあるよ」と、ラリーはいった。
 拳銃のグリップをマイナスドライヴァーで慎重に装着している。
「なんだ?」
「奴らがここに来る前に、さっさと神村慎吾を見つける。で、こっちは報酬をもらってハワイにでも高飛びする」
「名案だけど、どうやって見つけるの?」と、由起が訊いた。
 チャーリー・レインも殺され、しかも最後のひとり、マーガレット・エンジェルはLAPD刑事部の強盗殺人課で厄介になっている。
「それをこれから考えるところだ」ラリーが力なくいった。


       ☆

 ハリー・ナルティは、朝からしばしば咳き込んでいた。
 そのたび、気管支のやや下の辺り、しくしく痛む部分を片手で押えた。肺癌かも知れないという心配は、もう半年前から抱き続けている。市警本部が禁煙になり、それどころかLAのどこに行っても煙草を吸う場所もなくなった。おかげで三十年も愛煙してきたラッキーストライクをむりにやめたのだが、ふたつの肺はすっかりニコチン漬けになっているはずだ。
 デスクの上に立てかけてある鏡を覗き込むと、土気色をした皺だらけの顔が彼を睨み返した。死んだ女房が、こんな顔を見たら何というだろうと、ふいに思った。女房を亡くしたのは、もう十年も前のことだ。
 彼の横には、マーガレット・エンジェルが座っていた。長いブロンドの髪を膝に垂らして、俯いている。十九歳。本名、リタ・スジャンスキー。アマチュア・ロックミュージシャン。安酒場で土曜の夜に唄っているのだという。
 この娘は強盗には加担していない。だが、れっきとした〈ヘルウインド〉のメンバーなのだ。だから、奴らに消される恐れは充分にある。他のメンバーの居所は杳として知れなかったが、どこかへ逃げ出したか、あるいはもう殺されたのか。
「マギー。君も奴らに関わっていたために、狙われるかも知れない」
 彼女は顔を上げて、ナルティを見た。「かまわないわよ。自分の命ぐらい、自分で守るわ。サツの厄介にはならないよ」
「マギー」ナルティは溜息をついた。「目の前でボーイフレンドが殺されるのを見たはずだ。相手はプロで、しかも君を消すぐらいなんでもないんだ」
「何をいいたいの?」
 彼は頷いた。「シンゴ・カミムラの居場所を教えてくれ。君といっしょに我々がガードをつける」
「ほっといてよ」
「アパートメントに帰るつもりか?」
 マギーは黙っていた。
「他に行く場所はあるのか?」
 彼女はまだ黙っていた。
 ナルティは無精髭をざらざらと撫でながら、椅子の背もたれをギシッと鳴らした。
 そして彼女をどこにやろうかと考えた。パサデナにある彼の独り住いの借家。シーツをくしゃくしゃに丸めたままのベッド。埃だらけのカーペット。煙草のヤニで黄色くなっていたカーテン。そんな自分の部屋を思い出してから、ナルティは首を振った。
 フランク・ジェンキンズ、ジミー・デイヴィス。みな女房子供がいる。だいいち、殺し屋に狙われているマギー・エンジェルことリタ・スジャンスキーを、そんなところへはやれない。
 あの〈トラブル・コンサルタント〉のふたりはどうだろう。奴らは同じ様に狙われてはいるが、こっちと違って二十四時間のガードができる。だが、あの女たらしのシュンスケ・ナリタでは余計な心配事ができるだけだ。
 ふと彼は、もうひとりを思い出した。
 あの眼鏡をかけた冴えない優男の相棒のほうなら――。


       ☆

 電話のベルが三度続けて鳴り、神村佳織は寝返りを打ってからベッドの上に起き上がった。五度目のベルが鳴りかけたところで、華奢な右手を伸ばして受話器を取った。
「もしもし」
 相手の声がなかった。
 が、しんと静まり返っているわけではなく、電話の向こうはどこかの大通りらしく、車の往来する音がうるさいばかりに耳朶を打っている。
「もしもし」もう一度いってから、彼女はハッとした。
「――慎吾なのね」
 声はなかった。車の音と、通行人の足音、話し声。そして――波の音が受話器からかすかに聞えていた。
 やがてカタンと音がして、向こうの電話が切られた。
 佳織はそっと受話器を置き、しばらく壁を見つめていた。まだ夢の続きを見ているようだった。もう一度、電話を見て、それから今度は窓際に歩み寄った。
 レースのカーテンをそっと開くと、いつもと変わらない朝の街角の光景がある。
 今日の午前中、大学で大事な講義があったが、彼女は休むことにした。
 一時間後、神村佳織は普段着の姿でアパートメントを出て、歩道から身を乗り出して片手を差し出し、走ってきたタクシーを拾った。


       ☆

〈クリシュナ・ビルディング〉の前で、マーガレット・エンジェルは「いい加減にしてよ!」とヒステリックに声を放ち、ハリー・ナルティを睨みつけてきた。
「あのふたり組のところに行くんだって? 冗談じゃないわ。あいつらのせいで、チャーリーもダニーも殺されたのよ」
 ナルティは衝動的にこの女をその場に押えつけ、愛すべきジョン・ウェインが彼の映画でやったように、尻を思い切り叩いてやりたくなった。だが、そうしないかわりに、彼のビュイックのドアを開けて外に出て、向う側に回り込み、彼女が座っている助手席のドアを少々乱暴に開いた。
「いいから出ろ!」
 現役引退間際といえど、いまだダウンタウンではいちばんこわもてする強盗殺人課の刑事に怒鳴りつけられ、彼女はしぶしぶ車を降りた。いっしょに持ってきたギターを後部座席から引っ張り出すと、ナルティに連れられてビルに入っていく。
 エレヴェーターで五階に昇ると、ガラス扉の向こうでタイプを叩いていた鮎川由起が、驚いた顔で振り返った。
 ナルティはガラス越しに手を上げて合図した。
「急なことですまない。電話でいった通り、彼女を頼みたいんだ」
 由起が奥のオフィスに彼らを連れていくと、ラリーが長椅子に仰向けになり眠り込んでいた。足音がしたとたん、だらりと床にぶらさがっていた右手が、反射的に腰の銃に行った。ナルティが驚いたのは、目を開けるよりも手のほうが早かったことだ。
「なんだ、刑事さんか」彼は床に両足を降ろし、両手で顔をゴシゴシこすってから、横のガラステーブルに置いてあった眼鏡を取ってかけた。
「銃の扱いはどこで習ったんだ?」ナルティが訊いた。
 彼は立ち上がって、マホガニーの机に行き、引き出しからシーブリーズを出して襟元につけた。「アーミーだよ。五年いたんだ」
 それから初めて、スティールドアの前にいるマーガレットに気づいたらしい。
「何てこった。本当に彼女を連れてきたんだ」
「すまないとは思っているが、そっちだって無断で署のコンピューターから情報を持っていったんだからな。ところで、シュンスケは?」
「自分のうちに帰ったよ」
「そいつは、好都合だ」
 ラリーは彼の不愉快な顔をした。「相棒はあんたが思っているような男じゃないよ。たしかにあいつは傍目から見ると、女たらしに見えるけど、本当は違うんだ」
 ナルティはうなずいた。
「失礼なことをいった」
 由起がマギーの横にやって来て、オフィスの真ん中の机と椅子を指差した。
「座ったらどう? 今、コーヒーを持ってくるから」
 マギーはふんといった顔で由起にそっぽを向き、マホガニーの机の前に行ってギターを立てかけ、椅子に座って脚を組んだ。
「さすがに秘書がいるとオフィスも清潔だな。塵ひとつ落ちてない」
 ナルティが室内を見回し、感心したようにいった。
「あいにくとオフィスの掃除は私じゃなく、ふたりの仕事なの」
 由起が笑いながらいった。「ここ、古いビルだからゴキブリが出るし、大きなネズミも走り回ってるのよ。ちょっとでも散らかすとたちまち荒らされるから」
「ほう」
 ナルティは顎を撫でながらいった。「ネズミね」
「気をつけてね。椅子の下とか、あちこちにネズミ取りを仕掛けてあるから」
「それも特大の奴」
 ラリーがいい足した。
 きっとふざけているのだろうとナルティは思った。
 由起が苦笑しながら彼に訊いた。
「ところで刑事さん。コーヒーは?」
「悪いが遠慮するよ。本当はいっしょにあの娘を守りたいんだがな。うちに帰って二時間ばかり眠ってから、署に戻らなければならないんだ。何しろ、LAの街を血に飢えた殺人鬼どもが徘徊しているんだからね」
「ナルティさん。奴らのこと、何かわかったんでしょう? よかったら教えてもらえませんか?」
 ラリーが訊いた。
 彼はちょっとの間、口を閉ざしていたが、やがて頷いた。彼らには明かすべきだろう。
「三人のうち、ひとりだけ判明した。赤毛の殺し屋は”ブラッディベア”ゴドノフ。元特殊部隊。他はわからん」
「特殊部隊か」ラリーがそうつぶやく。
「あとは警察に任せるんだ。殺し屋を雇った張本人は、じきにおれたちが挙げる。令状が出しだい、すぐにでも逮捕に踏み切るつもりだ」
 ラリーが眉をしかめた。「わかってるんですね? そいつのこと」
「ああ」彼は頷いた。「だが、これ以上、よけいな詮索するんじゃない。警察の仕事だ」
 ハリー・ナルティは、やがてオフィスを出た。
「気をつけて」
 出口まで見送ったってくれた由起が、ナルティに会釈して小さく手を振った。
 ナルティも精いっぱいの微笑みを送り返してから、エレヴェーターの扉を引いて入り、『1F』のボタンを押した。そして扉が閉まり切るまで、神秘的な瞳をした東洋の美女を見つめていたが、ふいに我に返った。無意識にポケットに手を入れ、やめたはずのラッキーストライクを捜そうとしていた。


       ☆

 枕元で電話が鳴り始めていた。
 俊介はなかなか眠りの世界から出てこられずにいた。
 白いベッドシーツの隙間から女の白い腕が伸びて、手探りをした。ひどく無器用にもたつきながら何とか受話器を取った。不機嫌に応答を続けていたが、やがてふうと吐息をついて、隣で俯せに眠っている俊介にいった。「あんたによ」
「留守だって、いってくれ」彼は目を閉じたまま声を絞り出した。
「代わるっていっちゃったわ」
「SHIT」
 俊介は女から受話器を取った。「ハロー」
 ――あー、取り込み中のところ、急な話で申し訳ないんだが。
「ラリー。早起きだな。あれからまだ――」腕時計を見て確認した。「三時間だぞ」
 女がシーツをずらし、ベッドから下りた。姿見の前に立つと、ほっそりとした裸身で、乱れたブロンドの髪に櫛を入れている。
 ――ぼくらが調べていない場所が、ひとつあった。そこに行ってもらいたいんだ。
「何だって?」
 ――バークリィ銀行。〈ヘルウインド〉が襲った、あの銀行だ。
 俊介は受話器を耳に当てたまま、傍で裸の女が、下着、Tシャツ、ジーンズと次々と身に着けていくのを見ていた。
「なあ、ラリー。おれたちは慎吾を捜せばいいんだ。連中のことを調べても仕方ないだろう? そっちは警察に任せりゃあいいさ」
 ――殺し屋どもは、こっちまでつけ狙ってるに違いないんだ。だったら、敵の正体を早く探っておかないとまずいだろう?
 ふう。吐息を投げてから、俊介は呟いた。「たしかに」
 女が鏡の前で化粧をし始めた。
「お前はどうするんだ? ラリー」
 ――オフィスで彼女を預かっているんだ。勝手に出かけられない。
「彼女?」
 ――リタ・スジャンスキー。別名、マギー・エンジェルさ。ナルティがさっきここに来て、彼女の保護を依頼したんだ。
「何考えてるんだ、あのオヤジ。さんざん人をはねつけておいて、勝手すぎるぜ」
 ――彼女、慎吾の居所を知っているかもしれないんだ。
「三十分後に出かける。そっちも気をつけるんだぞ」
 ――了解。もうひとつ、ぼくらを狙っている三人の中に、特殊部隊上がりの”ブラッディベア”ゴドノフって男がいるらしい。知ってるか?
 俊介はうなずく。
「よく、知っているよ」
 受話器を電話に戻し、額に手をやって吐息をついた。「一流の殺し屋だ。相棒よ。おれたちゃ、棺桶に片足を突っ込んだようなもんだぜ」
「何をいってるの?」ルージュを塗りながら、女が鏡越しに俊介を見た。
「何でもない。三十分したら出かける。ジニー、悪いが昼飯の約束はキャンセルだ。冷蔵庫にいろいろとあるから、勝手に作って食べていってくれないか? 今度、あらためてチャイナタウンあたりで奢るよ」
 俊介はベッドを降り、シャワーを浴びにいった。


       ☆

 午後二時を少し回った頃、オフィスの事務机で由起がフィッツジェラルドの小説の続きを読んでいた。
 ラリーはマホガニーの大きな机を挟んで、マギーと向かい合って座っていた。
「違う、そうじゃない。クラプトンのオーソドックスな弾き方はこうだ」
 自前のギブソンのギターを抱えて器用に弾く彼を、マギーは感心した目つきで見つめている。三日前、ブラックジャックで殴りつけた相手だというのに、彼女はまるで別人のようにラリーに接しているからおかしい。
「驚いた。あんた、やるじゃん。プロみたいだね」
「とんでもない。たんなる趣味だよ」
 マギーは彼の演奏に合わせ、フェンダーのギターで同じ旋律を弾き始めた。
 ラリーも彼女のテンポに合わせて奏でた。
 曲はエリック・クラプトンの『ティアーズ・イン・ヘヴン』。
 アンプを通していないから大した音じゃないが、それでもふたりのギターのメロディはまったく見事で、このままコンビを組んでステージに立つことだってできそうだ。
 そのとき、表のエレヴェーターの音が聞えた。それが五階に上がってくるや、彼は一瞬にしてギターを拳銃に持ち替えた。直後、扉にノックの音がした。
 緊張した顔の由起を下がらせ、ドアをそっと開いてみると、ガラス扉の向こうに神村佳織が立っていた。ラリーはブレンテン・オートをホルスターに差し込み、錠を開けた。
「新聞、読みました」と、佳織はいった。「危険なことに巻き込んでしまって、本当にすみません」
 俯く彼女の腕をそっと引き、ラリーは佳織をオフィスに入れた。
 由起が驚いて歩み寄ってきた。「佳織さん?」
 ラリーは彼女をマギーの隣の椅子に座らせた。マギーのほうはさっきの機嫌はどこへ行ったのか、以前のようにふてくされた顔になり、ギターを抱き抱えたまま、つんと向こうを向いてしまっている。
「この仕事、降りていただけませんか?」佳織がいった。
「また、急なことですね」と、ラリーが驚いた。
「私……、まさかこんなことになるなんて思わなかったんです。あんな……撃ち合いになるなんて!」
 彼はふっと笑った。「いったでしょう? ガンファイトは追加料金だって。つまり、あれは込みなんです。奴らとはもう二回戦やってましてね、今のところ、一対一の引き分け。お互いの車のリアウインドウをぶち壊し合った。いや、ひとりの利き腕を撃ち抜いてやったから、取り敢えずはこちらの勝ちかな?」
「証人をふたりも殺されたから、あんたの負けよ」
 窓際で煙草を吸いながら、マギーがいった。
「わーい」
 ラリーが手を上げた。


       ☆

 パシフィックコースト・フリーウェイを北に向かうと、やがてキャッスルロック・ビーチという海岸に出る。サンタモニカやヴェニスシティといったリゾート地を少し離れるだけで、景色はずいぶんと落ち着いてくる。しかも南カリフォルニアの陽光は変わらず燦然と輝き、海はあくまでも目に沁みるような青色をしている。
 日本人カップルを乗せた、一台の赤いクライスラー・ルバロン・クーペが、フリーウェイを離れて海岸に降りた。
 ハンドルを握る青年は東京から来た大学生で、UCLAのアッカーマンユニオンで買ったTシャツとジョギングパンツといったラフな姿だった。砂浜にクライスラーを停めてサイドブレーキを引くと、助手席に乗せていた娘を振り返った。
「きれいな場所だろう?」
 娘はべつだん、これといった表情も浮かべず、ダウンタウンで買ってきたマリファナ煙草をふかし続けている。彼女も旅行でやって来た女子大生だが、青年とはLAで初めて知り合った仲だ。同じツアーの女の子たちとマリナ・デル・レイの海岸通りを歩いていると、背後から徐行しながら近づいてくる赤いクライスラー・ルバロンが目に留まったというわけだ。
 彼が高級車をレンタルしたのは、はなっからこういうことが狙いだったが、狙いをつけた美女が仲間と離れ、ひとり車に乗り込んできたのは好運だった。そのままふたりは海岸に沿って続くフリーウェイを飛ばし、ここまで来たのである。
 青年はサングラスを外し、彼女の肩にそっと手をかけた。
「よして」身をよじって逃げようとする娘に、彼は苛立ちを覚える。
「ここまでついてきたんじゃないかよ。ドライヴだけして帰るつもりか?」
 彼女は黙っていた。
 男はその頬に片手を当て、唇を奪った。娘は抵抗せずに受け止めていたが、やがてその気になったのか、持っていたマリファナ煙草を開け放っていた窓から外に捨てた。男はシートを倒し、ゆっくりと彼女にのしかかった。
 そのとき、車の外で砂地を踏むかすかな音が聞えた。
「誰だよ、ったく……」
 腹立ちまぎれに起き上がった彼は、近づいてくる三人の男に気づいた。黒人がひとりと、白人がふたり。白人の片方は禿げで、サングラスをかけ、おまけに右腕を包帯で吊している。もう片方は、燃えるような見事な赤毛だった。裾の長いカーキ色のコートを着ている。
 青年がとっさに思ったのは、自分が誰かの私有地に入り込んでしまったのではないかということだった。
「車から降りな」と、黒人がいった。
 呆気に取られていたふたりは、仕方なくクライスラーのドアを開けて車外に出た。
「まるで、レースカーみたいだ。なかなか気に入った」
 黒人がまたいったが、ろくに英会話もできない日本人ふたりには通じなかった。ぽかんと口を開けて三人を見ているばかりだ。
 黒人が運転席に乗り込み、キィを捻った。二・五リットルの直列四気筒エンジンが、腹の底に響くような音を立てて生き返る。
 こうなると、さすがに何が起こるかわかってくる。
「何をするんですか!」彼は思わず日本語で叫んだ。
 腕を包帯で吊ったつるっ禿げの男が、面倒臭げに背広の下に片手を入れてイングラムを出し、一連射で彼を薙ぎ倒した。

 横にいた娘は、一瞬、何が起こっているのかを認識できないようだ。
 茫然と立ったまま、ニヤニヤ笑うスキンヘッドの男のサングラスと、砂地に仰向けに倒れてかっと目を見開いている死体を交互に見ていた。さっき自分の唇を奪ったばかりの彼の胸から腹にかけて、無残な銃創が縦一列に刻み込まれていて、UCLAの白いTシャツが真っ赤に染まっている。
 ようやく悟った瞬間、悲鳴が口を突いて出た。
 スキンヘッドの男がその口にイングラムの短い銃身を突っ込んだ。悲鳴が中断し、金属に当たった歯がカチカチと鳴った。彼は少しだけ東洋人の女に興味を持った。
「あんたは、このガキの何だ?」
 娘は口を塞がれたまま、必死に首を振っている。
「こいつの女か?」
 また、首を振った。
「そうか」
 彼はイングラムの銃口を彼女の口に入れたまま、無造作に引鉄を引いた。
 九ミリショートの弾丸が、口の奥から首の後ろまで貫き、血煙が散った。娘は大きく目を見開いたまま、無造作に砂地に倒れた。
「アメリカまで来て、同じ国の女をひっかけるこたあないだろうに」
「ブロンドと寝る度胸がないのさ」ハンドルを握ったまま、黒人が笑った。
 ふたりとは対照的に、さっきから無言で突っ立っていたコートの男はまったく無表情だった。南カリフォルニアの眩しすぎる陽光の下ですら、彼の瞳は暗く、陰鬱に、死人の目のような冷たさを保っていた。
 コートの男は車に乗って座席の背凭れを戻し、そこに座った。
 スキンヘッドの男が続いてクライスラーの後部シートに乗り込んだ。車はエンジンをふかしてから、猛然と砂を蹴立てて走り去っていく。
 あとには無残に打ち捨てられたふたつの死体と、そして〈ロサンジェルス・タイムズ〉の朝刊が、砂地に半ば埋もれるように取り残されていた。


       ☆

「本当なんだよ」
 マギー・エンジェルは、大袈裟なジェスチュアをまじえて主張した。
「刑事さんにも、そういったんだけど。あたし、シンゴの居場所なんて知らないんだ。知ってたら教えるよ。友達なんだし、心配しているんだから」
「君はガールフレンドなんだろう? 彼の住んでいた場所も知らないのか?」
 ラリーは腕組みをしながら、彼女を見つめた。
「この子、本当に知らないみたいよ」と、由起がいった。
 マギーは唇を噛み、頷いた。スティールパイプで出来た回転椅子を左右に回しながら子供のように俯いた。「こんなところ、もううんざりだわ。あいつらはきっと、あたしなんか狙っていないよ。ね、もう帰ってもいい?」
「奴らが何を理由に〈ヘルウインド〉を消しているかはともかく、君はチャーリー・レインと接触したし、奴らの姿も見ている。だから見つかれば、まず殺されるよ」
 ラリーはそういった。
「FUCK YOU」マギーは苦虫を噛み潰したような顔になった。
「あいつらきっと、銀行をやってくれって依頼した連中よ。分け前の金を取り戻したくなったんだ」
「そんな単純な話じゃない」ラリーがいった。「少なくともプロの殺し屋を雇っているんだから、もっと違う理由だ。例えば麻薬だとか、想像もできないほどの大金が絡んでいたり、あるいはもしかして政治――」
 そのとき、窓際のソファで俯いていた神村佳織が、顔を上げた。
「あの」
 彼女の声にみんなが振り向く。
「実は……今朝、無言電話があったんです。それが……なんとなく、弟からじゃないかっていう気がして」
「たしかですか?」ラリーが訊いた。
「どこかの公衆電話からのようだったけど、街の雑音といっしょに、かすかに波の音が聞こえたような気がするんです」
「船……」ふいにマギーがいった。
「船がどうかしたの?」由起が訊く。
「シンゴが前にいってた。何ていう名前か知らないけれど、どこかの海岸近くの通りに、船の形を真似て作った小さなバーの建物があるんだって。あいつ、そこで働いてたのよ」
 ラリーは思わず指を鳴らし、椅子から立ち上がった。
 マホガニーの机の前に行き、電話の子機を取り上げる。
「ねえ、ラリー。外見だけの店をどうやって捜すの? グーグル・ストリートヴューでLAの海岸通りをぜんぶ当たってみる?」
「その必要はない。バーにかけちゃ、ちょっとした知識人がいるんだ」
 そういって彼は、〈フローリアンズ〉の電話番号をプッシュした。
 マスターに訊くと、ふたつ返事のように答えが返ってきた。受話器を置いてから、ラリーは振り返った。
「ばっちりだ」
「わかったの?」由起が訊いた。
「サンタモニカの〈ブルーハーバー〉ってバーだ」
 とっさに由起が事務机のパソコンを起動させた。画面が立ち上がると、検索エンジンに店の名とローカル名を打ち込む。
「これだわ」
 ラリーとマギーが液晶画面を覗く。ふたりの後ろから佳織も見た。
 椰子の並木の向こうに大胆なデザインの建物があった。すでにつぶれた店らしく、埃がかった扉に〈CLOSED〉と赤く書かれた看板が斜めにかかっている。
「間違いないよ」と、マギー。
 ラリーは彼女を見た。
「しかし、困った。君を残していくわけにはいかんしな。かといって、連れていくっていうのも……」
「あいつら、今日ここへ来るとは限らないじゃない」と、マギーがいった。
「今日、ここへ来ないとも限らない」ラリーは答えた。「それにだいいち、関係のない佳織さんまで巻き込んでしまう」
「私、慎吾に会えるのなら、ここで待ってます」
「佳織さん。ぼくらはプロを相手にしているんだ。先に見つけ、先に撃って確実にやっつけないと、必ずこっちが殺される。あなたはそんな血生臭い場にいるべきじゃない」
 彼女は俯いた。「慎吾をアメリカに呼んだのは私なんです。ほんの気軽な誘いで弟を連れてきて、そのため慎吾は……」
 言葉が切れた。
 ラリーは、困った顔で佳織を見、それから隣に座って煙草をふかしているマギーを見た。あたしの知ったことじゃないという風情だった。
「ナルティさんに頼んだら?」由起が提案した。
「どっちを、だ? 慎吾を捜すほうか? それとも、ここにいてもらって、君たちをガードしてくれる役目のほうか?」
「あとのほう」当然といった表情で、由起がいった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み