終章

文字数 3,138文字


「なあ、ラリー」
 ベッドに仰向けに寝転がって、俊介がいった。
 躰に二カ所、うがたれた銃創のため、胸から背中にかけて包帯をぐるぐると巻かれていた。
 片手には折りたたんだ〈LAクロニクルズ〉があった。
 手足の打撲やいくつかの軽傷ですんだラリーは、隣のベッドの上で、スティーヴン・キングの分厚い新作を読み耽っていた。
「なんだ?」と、彼は答えた。
「ナルティはそろそろ現役復帰か?」
 ラリーはペーパーバックのページを伏せて置き、彼に向き直った。「殺人課の課長に昇進だという噂だ」
 俊介が口笛を吹いた。
 病室の大きな窓からは、スモッグに霞むLAの街並みが見えていた。
 壁際の液晶テレビでは、ドジャースとジャイアンツの因縁の対決を放映していた。しかし、ふたりはメジャーリーグの試合に興味もなく、ただ不快なBGMのように、興奮したアナウンサーの声が病室に流れるばかりだ。
「ところで、マックスウェルが死んだとわかったとたんに、FBIは事件の隠蔽を謀ったようだな」
 折りたたんだ新聞を持ったまま、俊介がそういった。
「FBIじゃない。もっと上のレベルだよ。つまり、この事件はなかったことにされたんだ。死んだ人間はみんな事故死で、生きている者の口は厳重に封印されてる。マックスウェルも自宅で自殺したと新聞に発表されていた」
「やな感じだ」と、俊介。
「この合衆国でいちばん大きくて力のある組織って何だと思う? 国家だよ。その国家が決定したんだ。誰も逆らうことはできない」
「それこそMIB(メン・イン・ブラック)みたいにサングラスに黒スーツの男たちがやってきて、おれたちも記憶を消されるのかな」
「それはあり得ない」
 ラリーが笑った。「ぼくらだって真相を明かさないという条件で、数々の法律違反を揉み消してもらってるんだよ。この街で探偵稼業を続けるかぎり、いやいやながらその不文律に従わないといけない」
 ドアが開いて、ブロンドの若い看護婦が入ってきた。
 彼女はキャスター付きのワゴンを引いてきて、ベッドサイドに置いた昼食のトレイを取り上げた。
「ふたりとも残さずに食べたのね?」
 俊介が頭の後ろで両手を組みながらいった。「ビールを持ってきてくれたら、君をもっと驚かせるんだがな」
 それを冗談と受け取ったらしく、看護婦は少女のように笑いながら、食器を片付け始めた。
 ミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きにされていては、さしものプレイボーイも形無しだ。銃弾を受けた傷は完全には消えないだろうが、これで少しは箔が付くかも知れない。
 ブロンドの看護婦が病室を出ていくと、入れ替わりに由起が果物を抱えて入ってきた。
 白いブラウスの上に赤のプリーツベスト、黒いタイトスカートという原色のファッションが清楚な彼女にはとても似合っていた。
「思ったよりも元気そうね」
 彼女はビニールに包まれた花束を解き、窓際の花瓶に飾った。
「タフだけが取り柄でね」
 包帯だらけの俊介は、困ったように肩をすぼめて見せた。
 由起はヒヤシンスの花の匂いを嗅いでから、彼らに向き直った。
「ナルティさんのいる病院に行ってきたわ」
「彼、どうだった?」と、俊介。
「さすがにベッドから起き上がれない状態のままだけど、病院のご飯が不味いって不平をいってたわ。あなたたちにもよろしくって」
「それは良かった」
 そういったラリーに、由起が差し出してきたものがある。
「東京に帰っている佳織さんから、今朝、オフィスに届いたの」
 エアメールだった。
「彼女、何て?」
「慎吾さんの葬儀が終わって落ち着いたら、またこっちに来るって。そのときまでに探偵社への支払いを精算してほしいって」
「こんなことになったんだ。彼女からは受け取れないよ」
「そういうと思った」
 由起が微笑んだ。「先にもらっていた調査費用と経費、一切合切を香典代わりに還付するって、あとでメールを入れておくわ。それでいい?」
「そうしてくれ」と、ラリー。
「さっきあなたのアパートメントに行ってきたわ。ファティは元気だったわよ。餌をぜんぶ食べていたけど、とくに台所は荒らしていなかったわ。いわれた通りに、お皿を洗って水とキャットフードを入れておいたけど」
「世話焼かせて悪いと思っているよ」
 申しわけなさそうにいうラリーを、彼女は大きな瞳で見ていたが、ふいに頬をちょっと赤くしてから、視線を外して窓外を眺めた。
「じゃ、そろそろ帰るね」
「もうか?」
「だってオフィスを掃除をしなきゃ。窓ガラスはメチャメチャだし、壁は銃撃の孔だらけ、おまけにエレヴェーターまで蜂の巣だって、ビルのオーナーが怒鳴り込んできたんだから」
 彼女は本当に困ったという感じで、小さく肩をすぼめた。
 大きな鳶色の瞳が、ちょっとだけ悲しそうに見えたのは錯覚だったのだろうか。由起はすぐに優しげに微笑んだ。
「あなたたちの退院までには、オフィスをすっかり片付けておくから」
「ビルのオーナーによろしくいっておいてくれ。もう二度と弾痕はつけないからって」
 ラリーがいうと、由起は一瞬、目を伏せて笑った。
「うん。じゃあ……また来る」
 ハイヒールの音が早足に出口に向かい、ラリーが振り向いたときには、閉じかけたドアの隙間から彼女の長い後ろ髪がわずかに見えただけだった。
 ドアが音を立てて閉じた。

 それまで黙っていた俊介が、ベッドの上に投げ出した足を器用に使って、壁際のテレビのスイッチを切った。野球の中継が消えて、病室が静かになった。
「ラリー」と、彼はポツリと口を利いた。「早いところ、由起といっしょになれ」
 彼は黙っていた。
「あの子のためにも、もう冒険はしないほうがいい。お前らはもう、切っても切れない間柄になった。あれは本当にお前のような男を理解してくれる女だ。もしお前に何かが起これば、彼女は死ぬほど深く悲しむことになる。おれにはそれが辛い」
 ラリーはまだ黙っていた。
「実感がないんだ」
 俊介はふうと息を吐いていった。「まったく鈍感な奴だ」
「ひょっとして、あの雨の晩。由起は眠ったふりをして聞いていたのかな」
「多分な。だけど、黙っておれたちを行かせてくれただろう。彼女をもう泣かしちゃダメだ。何度も女を泣かすのは最低だ」
 ラリーはしばらく天井を見上げていたが、やがてゆっくりとベッドの上に起き上がった。
 窓外にLAのビル街と、その向こうをゆっくりと上昇していくジェット旅客機が見える。
「おれはな、お前らふたりが大好きなんだよ。だから、どっちにも不幸になってもらいたくない。もっとも、選ぶのはお前だ。彼女を第一に考えて生き方を変えるか、あるいは自尊心の赴くまま生き方を変えず、今までのようにトラブルに飛び込んでは彼女を心配させるか。だけど、どちらを選ぼうとも、おれはお前を大事にするよ。お前は友達だし、相棒だ」
「ぼくは……」
 ラリーは窓の向こうを見ながら口を閉ざした。それから、また声を押し出した。「今のままでいたいんだ。今の自分が好きだから。それだと、やっぱり由起は離れていくんだろうか?」
「離れないよ」俊介が答えた。「そんな女じゃないさ」
「でも、もうしばらく考える」
「そうしろ」
 俊介がわざとらしく吐息を投げた。
 窓外を大きなジェット旅客機がゆっくりと横切っていく。
 虚栄と実利の街、ロサンジェルスは、相変わらず時には厳しく、時には抱擁力をもって彼らに何かを語りかけてくるような気がした。

                                                        了
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