文字数 11,864文字

 ダニエル・アッシュの魂が彼の躰を抜け出していったのは、ほんの一瞬のことだった。
 死体は前席シートの背凭れの隙間から運転席側に倒れ込み、サイドブレーキの上にポタポタと真っ赤な血を落とし始めた。
「こいつはひょっとして――」俊介はアッシュの上半身を抱き抱えていった。「やばいんじゃないか?」
 いったん通り過ぎたアウディが、けたたましいエンジンを立て、タイヤを軋ませながらバックしてきた。その後部座席のウインドウが下りて物騒な代物が覗いている。化け物みたいにぶっとい消音器(サプレッサー)を装着した小型短機関銃イングラムだ。
 銃口から青白い煙を曳いていた。持っているのは見事なスキンヘッドの男だった。
 イングラムがおよそ銃声というにはほど遠い、奇妙にこもった音を発したとき、俊介は血まみれのサイドブレーキを外しながら、サバンナのアクセルを力いっぱい踏み込んでいた。アスファルトの上で一瞬、空回りしたタイヤが、悲鳴を上げて煙を撒き散らし、同時に車は弾幕をすれすれでかわしながら発進する。
 バックミラーの中で、アウディが怒り狂ったように猛然と追跡にかかっている。
「相当やばいね」ずいぶんと遅れながらも、ラリーがそう答える。
 メイプル通りから五番街に右折したと同時に、背後の車窓から例の男が身を乗り出した。もちろん、物騒極まりないサブマシンガン込みである。
「ラリー。その拳銃、使えないか?」
「あいにくと弾丸がないんだ」
 吐息まじりに答え、ラリーが空のリヴォルヴァーをもてあそぶように、指先でくるくると回した。持ち主だったアッシュは、まだ後部座席から上半身を乗り出したままでいた。その躰を後ろに押し戻してから、ラリーが訊ねた。
「ひょっとして、お前が持っているなんてことは?」
「やっぱりないわけよ」
 次の交差点、俊介は見事なヒール・アンド・トゥでシフトダウンしながらステアリングを切り、狭い路地に車を突っ込ませる。だが、アウディはその馬力にものをいわせ、猛牛みたいに追ってきた。スキンヘッドが両手で銃をかまえている。
「伏せろ!」
 俊介が叫んだ。間髪入れず、サバンナのリアウインドウが一瞬にして白濁し、粉々になった。車内に飛び込んできた弾丸は、あまつさえフロントガラスにまで数発の銃痕を作り出す。
 ヒュウヒュウと音を立てながら、風が吹き込んできた。俊介は悲しげな目でウインドウに散った穴を見つめながら呟いた。「これって、経費で落とせると思うか?」
 ラリーは答えるどころじゃなく、シートごとぶち抜かれないように、必死に身を低くするのが精いっぱいのようだ。俊介は気の毒げな表情で、助手席の相棒を振り返った。
 ラリーは空の拳銃を見つめた。「ちくしょう。・二二口径でもいいんだ。ここにありゃあなあ」
 三連射目が、助手席側の窓を掠め、前方の虚空に吸い込まれていった。
 さらに四連射目が車の後部のどこかに派手にえぐり込んだらしく、強烈なショックが運転席まで伝わってきた。鉄棒で鋼板を思い切り叩きのめすような、ひどい音だ。
 前方の交差点の信号が、黄色から赤に変わった。左右に延びる大通りには、それぞれ数台の車が並び、今にも猛然とスタートしようとしている。だが、ここでブレーキを踏むということは、蜂の巣になってアッシュと運命を共にすることを意味する。
「どうするんだ? 俊介」
 彼は平然と答えた。「このまま行くしかない」
 大通りの左右から走り出した車の鼻先を掠めるように、彼らのサバンナは道を突っ切った。そこら中でクラクションが狂ったように鳴り響き、数台が交差点の真ん中で衝突する。おかげでサバンナを追跡していたアウディは、車のバリケードに遮られ、完全に足止めを食ってしまった。
 イングラムの男が拳を突き上げ、怒鳴り散らしている。
 俊介は残った一方のミラーでそれを見ながら、ニヤリと笑った。ラリーが墜落した飛行機から奇跡の生還を成し遂げたような表情をしているのに比べ、彼はまったくのところ平気の平左という顔である。
「成せば成るって日本の諺、知ってるか」
「まぐれじゃないか」
 サバンナはふたりの探偵とひとつの遺体を乗せたまま、ブロードウェイを北上した。だが数マイルも行かないうちに、車はパトカーに乗った警官の好奇の的となった。禁酒法の時代と違って、ハチの巣みたいに穴の開いた車なんて今時は流行らないのである。


       ☆

 ハロルド・ナルティ巡査部長は、俊介たちの前で三度目の溜息をつき、鼻の下の灰色の髭を指先でしごいた。若い頃からの癖だった。それもいらいらしたときの。
「どうして、おとなしくネコを捜していないんだ? お前らが人間を捜すと、必ずトラブルが降りかかってくる。それも極め付きのな」
 四度目の溜息のあと、彼はふたりに向き直った。
 黒髪を後ろに撫でつけた、ちょいと二枚目の男と、メタルフレームの眼鏡をかけたブロンドで長髪の男。東洋人と白人のコンビ。リトル・トウキョウの住人で、このふたりほど厄介ごとをしょい込む名人はいない。〈トラブル・コンサルタント〉という看板を出しているのは、まったくのところ皮肉としかいい様がない、署内でそう思っているのは、ナルティだけじゃないだろう。
 しかもラリー・ステインシュネイダーの左の顎は、パンチをくらって赤黒く腫れ上がっているのだから話は早い。
 オフィスの中は相変わらず雑然とし、紙屑と人間が領地の奪い合いをしていた。ワイシャツの脇の下に汗の染みを作った刑事たちは、ホルスターの拳銃を外す暇もなく、電話の応対や書類の整理に余念がない。ドラマと違って、実際の刑事は机上の事務に追われることが多いのだ。
「いいか? 探偵っていうのは、もっと地味で、質素で、路地裏から路地裏を歩き回り、浮気中の誰かの女房を尾行したりしてりゃいいんだ。おカミは派手な撃ち合いをさせるために、お前らに許可証を与えてるわけじゃないんだぞ」
「重々承知してますよ。こっちだって、好きで撃たれたわけじゃないんだ。だいいち、おれたちは銃を持っていなかった。町なかでイングラムをぶっぱなしてきたのは向こうなんだから」
 俊介がいうと、ナルティは両肩といっしょに口の端を吊り上げた。
「たしかにな」
 さっきから鳴りっぱなしの電話の音に振り返った。手の空いている者がいないと知って仕方なく立ち上がり、机の向こうに回り込んで受話器を取った。「強盗殺人課だ」
 相手と話しながらナルティが向き直ると、俊介はまいったという顔で両手を頭の後ろで組み、さっきからそうしていたラリーと同じポーズを取っている。
「デイヴィス、署長がお呼びだ」ナルティが隣の机に向かって、受話器を乱暴に放り投げた。「――気をつけな。太っちょは今朝からお冠だぜ」
 ジミー・デイヴィスと名前を記したIDカードを胸にとめている大柄の黒人刑事が、飛んできた受話器を器用に受け止め、先だってまで怒鳴り散らしていた別の受話器を戻してから、署長と話し始めた。
 机を回って戻ってきたナルティは、ラリーたちの前の椅子に腰かけ、引き出しの奥から未記入の調書を一枚出して彼らの前に置いた。そして右手に握ったボールペンを拇指を軸にくるりと回した。
「さて、最初から訊こうじゃないか。どうしてアッシュに会いにいったんだ?」
 ラリーが首を振った。「依頼に関しては守秘義務がありますからね。とにかく、ある失踪人を追っていると、あの男にぶち当たったんです」
「イングラム野郎の面を見たか?」
「スキンヘッドで、テリー・サヴァラスそっくりの男でした」俊介が答えた。
「テリー・サヴァラス……」
「〈刑事コジャック〉の俳優ですよ。知らないの?」
 俊介にいわれてナルティが苦笑した。
「その名前を耳にしたのは二十年ぶりぐらいだ。お前こそ、若いくせして、どうしてそんな古い刑事ドラマのことを知ってるんだ」
「いまはyou tubeの時代ですよ。どんな昔のドラマだって、たいていネットのどこかにあります」
「なるほど」
 意味がよく分からないまま、ナルティはそう答えた。
「私もいつの間にやら五十九だ。来年で定年退職。歳はとりたくないもんだな」
 それから書類を机の上でトントンとそろえた。
「お前らが報告した車のナンバーを調べたが、やはり盗難車だ」
 ナルティは少ししわぶいた。憂鬱な表情で胸を撫でたとき、入口のドアが開き、クルーカットの鋭い目付きの刑事が入ってきた。
 三十代前半。樽のように分厚い彼の胸には、フランク・ジェンキンズという名のIDカードがぶらさがっている。半年前からナルティとコンビを組む白人の刑事である。
 階級は同じ巡査部長だが、経験を積んだ先輩として、彼はナルティのことをボスと呼ぶ。
「仏の素姓がわかりました。ダニエル・アッシュ、二十八歳。オルヴェラで塗装工をやっていた男です。二年前に恐喝容疑で捕まっています。ストリートギャングの一員らしいですね。つまり――糞野郎だってことです」
「つまらんことはいわんでもいい」ナルティは不快な表情をあらわにして、ジェンキンズから新しい書類を受け取った。アッシュの澄ました顔の写真が貼りつけてある。
「やれやれ、また連中だ。いったいどうなってんだ?」
「また……って何ですか?」ラリーが訊いた。
「昨日も、サンタフェの西で、チンピラがひとり殺されたばかりだ」
 ナルティは机の上に置いてあったイングラムの空薬莢にボールペンの先を突っ込み、鼻先に持ってきて臭いをかいだ。「ストリートギャング同士は、ちょくちょく抗争をやっている。が、こんな弾丸を使うプロとは普通やり合わない」
 彼は空薬莢の尻に刻んだマーキングを、ふたりに向けて見せた。
「こいつは既製品の弾丸じゃない。こんな刻印は見たことがない」
「出所は調べられますか」と、俊介が訊いた。
「とっくに調査を始めてるよ」
「ところで昨日、サンタフェの西で殺されたのは、何ていう男なんですか?」
 ラリーの問いにナルティは答えようとしたが、一瞬、それを押し止めた。
「警察の仕事だぞ。お前らの知ったことじゃない」
 ナルティはちらりと彼を見た。五度目の溜息をつこうとして、まるで生きていることが嫌になったような顔をしてやめた。

 少年課のドアの横に、ドリンクとガムの自動販売機が置いてある。
 俊介は硬貨を入れて少し迷ってから、セブンアップのボタンを選び、紙コップに注がれるのを待ってから取り出した。
「佳織さんが受け取った三十万ドルってのが、やっぱり引っかかる」
 続いて紙コップを抜き取りながら、ラリーがいった。
「ああ」俊介が頷く。「慎吾もアッシュたちも、同じチンピラグループのメンバーだったんだろう。ひょっとして、サンタフェの西で殺された奴もな。彼らが何かの事件に関わって大金を得たために、どこかの組織が動き出したんじゃないかな。で――」
「ひとりずつ、消されているってことか」
「てこと」
 通路の向こうから、ブロンドの髪を揺らして若い女性警官が歩いてきた。小柄で細面の顔に、薄化粧が似合っている。
「シンディ!」俊介が彼女の名前を呼ぶと、女性警官はにっこりと笑った。
「ハイ、シュンスケ。どうしたの、こんな場所で?」
 大きな青い目で見つめてくる。
 少年課に勤務しているシンディ・ハスケルは、俊介のガールフレンドのひとりだ。
「ネコを捜してんだ。特大の奴」
「嘘ばっかり」
 俊介は笑って、彼女の頬に軽くキスをした。「ところで、頼みたいことがあるんだ。昨日、サンタフェの西のどこかで死んだ、チンピラ野郎の名前を知りたいんだがな」
 とたんに、彼女は冷めた表情になる。「いつもあなたのいいなりになって、署のデータを渡していたら、私いつか馘になっちゃうわ」
「頼む。〈ウインザー〉で、フルコースを奢るから」
 シンディは参ったという顔で肩をすぼめた。「わかったわ。あとでオフィスに電話してあげる。約束、忘れないでよ」
「オーケイ」俊介はサムアップで応えた。

 ふたりが署の正面出入口を出ると、陽はすでにとっぷりと暮れていた。市庁舎のビルディングには明りがともり、一番街の酒場のネオンが絢爛と瞬き始めていた。
 制服警官ふたりに挟まれて、そろいのミニスカート姿の売春婦が三人、署内に連行されていく。彼女たちは入口から出てきたふたりに気づくと、口笛を吹いて手を振ってきた。
「シュンスケ!」いちばん大柄な、赤毛の女が彼に声をかけた。
 ラリーの隣で俊介が投げキスを返した。「よお、ジニー。ネコは元気か」
「知らないわよ。一週間前に逃げ出したきり、帰ってこないんだから」
「そいつはお気の毒さま」
「ねえ。あたしのネコ、捜してくれる?」
「当分、ペット捜しは休業なんだ」
 俊介のモテぶりには、つきあいの長いラリーも驚かされることがある。
 ダウンタウンの女という女が、ひょっとして彼とねんごろなんじゃないかと思うほどである。だが俊介は女に溺れ込むタイプじゃないし、むしろ女性関係はドライなほうである。女は好きだが、それ以上に尊敬もしているからだ。
 地下の駐車場に降りると、サバンナ・クーペが無残な穴を残したまま、しょげ返った様子で彼らを待っていた。前と後ろの窓ガラスには大穴が開き、バックミラーがひとつきれいに消えてしまっている。俊介はしばらく車の前に立ち尽くして悲しそうにそれを眺め、ぽつりという。
「やれやれ。やはり、ネコでも捜していたほうがよかったかな」


       ☆

 ガタピシと音を立てて昇るエレヴェーターから俊介たちが降りると、ガラス扉越しにキィボードを叩く音が聞えていた。扉を開くと、眼鏡をかけていた由起が振り返り、呆れた顔で彼らを見た。
「いいたいことはわかるよ」と、俊介。
 由起は眼鏡を外して、意地悪げな笑みを浮べた。
「さっき市警のナルティさんから電話があったの。やったでしょ? ドンパチ」
 ラリーが疲れ切った顔で頷いた。その顔が青く腫れているのを見て、由起が少し心配げな表情を見せて立ち上がった。
 奥のオフィスに入ると、ラリーは椅子に座り込んだ。
 俊介はマホガニーの机の引き出しを開けた。
「由起、おれの拳銃は?」と、俊介。
 キッチンスペースでサイフォンのアルコールランプに火を点けてから、彼女は戸棚の真ん中の引き出しから救急用具を持ってきた。「ホルスターといっしょに本棚の横のラックに置いてあるわ。どうせ必要だろうと思って、ちゃんと手入れをしておきました」
 取り澄ました顔でいい、彼女はラリーの顎の下を消毒し、湿布を貼りつける。
「コーヒーは何にするの?」
「モカ、いや……いつものブレンドがいい」
 彼が答えると、彼女は救急用具を持ってスティールドアの向こうに姿を消した。
 俊介の拳銃は、由起がいったようにラックの上に横たえられていた。サファリランド製アップサイドダウンのショルダーホルスターが傍にある。
 鈍い銀色に光るステンレスのリヴォルヴァーは、スミス&ウェッソンのM686。口径・三五七マグナム。銃把は胡桃材、少し太めのバナナグリップだ。弾倉を振り出して弾丸が装填されていないのをたしかめてから、撃鉄を起こし、拇指をそこに載せながら空撃ちをしないよう、何度か引鉄を引いてみる。
 作動部にはオイルが引いてあって、作動は滑らかだった。二・五インチの銃身も六連発の輪胴もフレームもちゃんと磨かれていて、新品みたいにピカピカと光っている。
 上着を脱いでホルスターを肩がけし、拳銃を差し込んでから、彼は隣のキッチンに入っていった。由起がコーヒー豆を電動ミルに入れて挽いているところだった。俊介はそんな彼女の後ろ姿をじっと眺めた。
 由起がこのオフィスで秘書を始めて、一年半になる。初めてここを訪れたときは、〈トラブル・コンサルタント〉の客としてだった。交通事故の示談をめぐるいざこざの解決を依頼しに来たのである。以来、由起はふたりの探偵をすっかり気に入ってしまい、居着いている。
 鮎川由起。二十六歳。留学生に出される長期滞在用のヴィザで渡米してきた純然たる日本人だが、それ以外のことは話そうとしない。不思議な娘である。
「人の後ろ姿に見取れていないで、何があったか話してよ」
 俊介は少し照れて笑った。
「慎吾とつきあいのあるマギーっていう娘のアパートメントに行ったら、レスラー並みのデカブツが現われてラリーをぶん殴った。ところがデカブツは連行途中にギャングに殺され、こっちまで町中で撃ちまくられた。一・五秒で三十発の弾丸をばらまく物騒な銃でだ」
 彼女は挽き終った豆をサイフォンのガラス容器に入れてから、彼に一瞥を投げた。大きな鳶色の眸が妙に澄んでいた。長い髪を肩の後ろに流してから、また前を向き、サイフォンの上部に昇ってきた湯をマドラーを使ってゆっくりと掻き回した。
「あなたも、ラリーも、平気な顔ね。怖くないの?」
「実をいえばガタガタと震えっぱなしだったさ。さっきまでね」
 LAの犯罪事情も、年々凶悪化の一途をたどっていた。
 もちろんその対処は警察の仕事なのだが、たまに彼らにそのおはちがまわってくることが、ままある。ペット捜し専門の探偵社ならともかく、ダウンタウンでこんな稼業をしているかぎり犬猫捜しだけではすまないし、大きなトラブルはしょっちゅう舞い込んでくるのだ。
「仕事から手を引いたっていいんだぜ」
「心にもないこと、いわないでよね」
 あっさりと返され、俊介は黙って両手を肩の上に持ち上げ、オフィスに戻った。
 マホガニーの机の向こうで、ラリー・ステインシュネイダーが自分の拳銃の手入れをしていた。彼は相棒とは違い、他人に自分の拳銃を触られることを嫌がる。愛用の銃はいつだって自分でメインテナンスをし、最高のコンディションにしておく主義だ。
 俊介は傍に行き、机の角に腰を預けた。
「彼女、お前のこと心配して泣いてたぜ」
「冗談はよせ。あの娘はぼくなんかよりもよっぽど気が強い」
 ラリーは顎の下に湿布を貼りつけたまま、拳銃を組み立て終え、スライドの滑り止めに手をかけて引いた。俊介の銃と同じくステンレスでできているが、彼のそれは大型のオートマティックだ。
 ブレンテンという名のこのオートマティックは、チェコ製の名銃Cz75をコピーしたもので、十ミリ口径弾という弾丸を使う。とっくに廃業したメーカーのデッドストック商品をたまたま見つけて彼が入手したものだった。
 銃のコレクションはラリーの趣味だが、腕もたしかである。眼鏡をかけたこの一見、冴えないやせっぽちの白人の男は、その実、天賦の才を持っていた。どんな種類の銃もちゃんと使いこなし、五十ヤードも離れた銀貨程度の大きさの的を、コンピューターみたいな正確さで撃ち抜く。
 一方で俊介は射撃が苦手である。
 ずいぶんとプロについて練習してきたが、こればかりはどうにもならなかった。ビアンキ社のショルダーホルスターに吊したスナブノーズ(獅子っ鼻)拳銃は、彼にとってみればアクセサリーのひとつでしかない。
 由起がコーヒーを持ってきた。黙って机の上にカップをふたつ並べ、そっと注いだ。そして、ラリーの顔をちらりと見てから、パソコンを置いた事務机に戻っていった。
 俊介はひと口、啜って旨そうな顔をし、スティールドアを見つめ、次に無心に拳銃のスライドを動かすラリーを見つめた。
「お前って、本当に気づかないのか?」
「何を、だ?」むっとして、ラリーが振り返る。
「由起の奴、お前に気があるんだぞ」
「莫迦いうなよ」
「莫迦はどっちだ。そうでなきゃ、安月給でこんな場所に居着くもんか。お前がぐずぐずしてるんなら、おれが取っちまうぜ」
 拳銃のストッパーを拇指で下げてスライドを閉じ、撃鉄を戻し、それからラリーはニヤリと笑っていった。
「お前はダウンタウンでいちばんのイケメンで、大したプレイボーイだけど、唯一の欠点はフェミニストだってことだ。自分でもわかってるくせに」
 彼は由起の淹れたコーヒーに、いつものようにスプーン二杯の砂糖と適量のミルクを入れて、少々乱暴に掻き回した。
「それがいかんのだ。せっかく彼女が心をこめて淹れてくれたコーヒーに、お前は無粋にもミルクと砂糖なんてものを入れる」
 彼はひと口飲んでからカップを拳銃の隣に置き、俊介を睨む。
「ぼくは甘党なんだ。余計なお世話だ」
 ふいに電話が鳴り、ラリーが受話器を取り上げた。
「お前だ」
 気難しげに受話器を受け取った。
 ――シュンスケ。私よ。
「よう、シンディ。わざわざ申し訳ないな」
 彼の顔が、一瞬して綻んだ。


       ☆

 サンタフェの西で死んだストリートギャングのチンピラの名前は、ビリー・ラッツといった。ロバート・マックスウェル上院議員が出資したと噂される幹線道路の、建設中の高架からフリーウェイに落下し、数台の車の間をピンボールみたいに跳ね飛ばされた。
 ビリー・ラッツ。二十八歳。サンタアナ生れ。
 七年前にロングビーチで窃盗で逮捕され、二年後、パサデナで強姦未遂。前科二犯。彼の壮絶な死が自殺か他殺なのか、当局は確信しかねていた。なぜならば。その体内から多量の麻薬、PCPが発見されたため、たとえ誰かに突き落とされたのではないとしても、麻薬で意識朦朧となり、高架から足を踏み外したということも考えられるからだ。
 PCPは正式にはフェンサイクリジンといい、製薬会社によって麻酔薬として開発された薬だが、じきにケタミンとともに幻覚剤として出回るようになった。〈エンジェルダスト〉とも呼ばれる。ビリーの左腕は注射針の跡だらけだった。

 朝日がカーテンの隙間から差し込み、枕と顔の一部に細長い陽だまりを作る頃、いつものように焦げ茶色の猫がラリーを起こしにきた。彼は枕元に拳銃といっしょに置いてある眼鏡を取ってかけ、ベッドの向こうから大きな眸で見つめてくる猫の頭を撫でた。
「やあ、ファティ」
 まだ、寝足りなさそうな顔で、ラリーは挨拶した。
 半年前、チャイナタウンのレストランのシェフから譲り受けた雑種の牡猫である。
 当初は不恰好なまでにぶくぶく太っていて、もしも〈デブ猫コンテスト〉なんてものがあったなら、優勝間違いなしだっただろう。もしも、あのままレストランにいたら、今頃は皿の上だぜ、なんていったのはもちろん俊介だ。
 ファティが膝の上に乗ってきた。
 背中を撫でながら、ラリーは壁際の写真立てを見た。
 LAPDの紺色の制服姿の成田俊介と、スーツにネクタイのラリーがそこに写っている。ふたりとも、今よりもずいぶんと若い。
 両親の離婚を機に、ラリーは父親とともにアメリカに戻った。その後、陸軍に五年いた。兵役を終えてから、部隊の上官の口利きで射撃インストラクターの仕事を得た。カリフォルニア州のあちこちにある警察署や保安官事務所で警官たちのトレーニングをやってきた。その間はろくに友もなく、ずっと孤独な生活だった。
 四年前、LAPDの西分署で射撃を教えていたとき、街のバーで俊介と知り合った。
 代々、リトル・トウキョウで暮らしていた日系人で、十代の頃からライトヘヴィー級のボクサーとして売り出していたが、あるとき、八百長試合の疑いをかけられて失脚した。そのあと、ポリスアカデミーに入学して、卒業後、LA市警に配属されていた。
 ラリーにはろくに友もいなかったが、彼とだけは、なぜかウマが合った。それまでの警官の仕事に飽きがきていた俊介は、いっしょに探偵稼業を始めないかと誘ってきた。ラリーは迷うことなく、彼の話に乗った。
 猫用の皿にキャットフードを落とし、それを彼がたいらげるのを見ながら、インスタントコーヒーとフランスパンで簡単な朝食をすませた。ジーンズにボタンダウンのシャツといういつものラフな格好になってから、ホルスターに差し込んだままの拳銃を腰につけた。
 靴はヴィンテージもののナイキのエア・ジョーダンだ。
 ファティは餌を食べ終るや、しばらく前肢で顔を舐め始めた。ラリーがその耳の後ろを撫でていると、ふいにスマートフォンが鳴り始めた。
「ハロー」
 ――ラリー、俊介だ。悪いが、メイプル通りの例のアパートメントに行って張り込みをしてくれないか? ひょっとしたら、マギー・エンジェルが帰るかも知れないから。
「そっちは?」
 ――あいにくと、別件で出かけなきゃいけないところがあるんだ。
「オーケイ。三十分後には着いてる」
 ラリーは隣の部屋に行った。数十挺の自動拳銃が、口径別に整理されて入れられた大きなガラスケースの横に、姿見がある。
 彼は櫛でていねいにブロンドの髪を梳いてから、シャツの上に黒い麻のジャケットを着込んだ。痩せっぽちの体型だが、腰のホルスターがぴったりとしているため、銃を携行していることはまずわからない。財布をジーンズの尻ポケットに、探偵のライセンスと拳銃の携帯許可証を収めた名刺入れをジャケットのポケットに入れる。

 グレイハウンド・ターミナルの前でバスを降りると、ラリー・ステインシュネイダーはスキッド・ロウに向かって歩き出した。
 アパートメントの前に来ると、辺りには相変わらずホームレスが朝っぱらから酒を飲んだり、石段に凭れて寝転がっていたりしている。
 二、三人がラリーに寄ってきて金をせびったが、それ以上のことはなかった。連中は街に住む人間と無防備な観光客をちゃんと見分けるのである。それにしても、マギーがこんな街に住んでいることは、さすがに驚かせる。
 理由はひとつしかない。家賃が信じられないほど安いためだ。
 歩道の脇にある楡の木陰に立っていたら、脇の下にじわじわと汗が滲んでくる。拳銃をジーンズのベルトにつけているため、麻のジャケットを脱ぐこともできない。仕方なく上着の下に着ているシャツのボタンをふたつばかり外し、胸の中に風を通した。
 マーガレットが帰ってきたのは、一時間近く経ってからのことだった。真っ赤な革のミニスカートに黒のタンクトップ。それに大きくて真っ黒なサングラスをかけていた。子供のように小柄な女で、背負ったギターケースがやけに莫迦でかく見える。
 ラリーは部屋に貼ってあったジミ・ヘンドリックスのポスターを思い出し、予想が当たっていたことを知った。彼女はミュージシャンなのだ。マギー・エンジェルなんていかにも嘘っぽい名前だし、そんなのをつけるのはストリートガールか音楽関係者のどちらかである。
 マギーがドアを開けて部屋に入っていくと、しばらく待ってから歩き出した。郵便ポストの傍を通り抜けて、彼女の部屋の前に立ち、ためらいがちにノックする。
「誰?」
「ダニーの友達で、ファティっていうんだ」
 チェーンロックをつけたままわずかにドアが開いた。昨日、こんな状態でまともに拳固をくらったばかりなので、ラリーは半歩身を引いている。ドアの隙間から、彼女が顔を覗かせた。眉間と鼻の上に皺を寄せ、いかにも胡散臭そうな表情だ。
「ダニーはどこ?」
 彼女はダニエル・アッシュの哀れな運命をまだ知らないのだ。
「あいつは今、ちょっとヤバイことになってんだ。ドアを開けてくれないか?」
 マギーはしばらくラリーの顔を見ていたが、ふいに黙って頷いた。いったんドアを閉めてからチェーンロックを外し、大きく開いて彼を招いた。「入って」
 ラリーが部屋に入ると、彼女は壁に凭れるように立っていた。
「ダニーにあんたみたいな友達がいるなんて知らなかったわ」
 彼女はやけに甘ったるい声でいった。ミニスカートの裾を少したくし上げて、ストッキングに包まれた太腿を見せ、胸を突き出してずいぶんと挑発的なポーズを取っている。
 ラリーは茫然とし、小柄ながら芸術的なプロポーションを誇る肢体に目を奪われた。
「よく見ると……あんたって、いい目をしてるわ」
 そういいながら、近づいてきた。
「え」
「きれいなグリーンの瞳ね」
 間近からラリーの目を覗き込んでくる。
 ラリーはあわてて視線を逸らした。
 強い香水の匂いがして、頭がくらくらしそうだった。
「ダニーのことで、ちょっと話があるだけだ」
 狼狽えた声でそういった。
「わかってるよ」
「え」
「いいから、ドアを閉めて」
「勘違いしちゃダメだ。ぼくはただ……」
「とにかく表が物騒なんだから、ドアを閉めて、しっかりロックしてね」
 あんぐりと大きく口を開けていたラリーだったが、やがて溜息をついてから彼女に背を向け、ドアをゆっくりと閉めた。
 ロックをして肩越しに振り向いたとき、すぐ後ろにマギーが立っているのに気づいて驚いた。
「き、きみ……」
 マギーは無表情だった。後ろ手に隠していたブラックジャックを取り出しすと、彼の後頭部めがけてそれを叩きつけた。
 ラリーはドアに額をぶつけてから、床にへたり込んだ。眼鏡はずいぶんと遠くに吹っ飛び、片側のレンズが粉々に砕け散っていた。

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