文字数 11,385文字

 ドジャースタジアムは、例年首位争いを続けているドジャースとジャイアンツの対戦で、五万六千人もの群衆を集めて膨れ上っていた。さすがにビッグゲームだけあって、シーズン開幕早々とはいえ、おそらくは最高潮の盛り上がりを見せている。
 ことに新人でオールスターに選出され、ナ・リーグの新人記録を更新する三十九本塁打を記録したコディ・ベリンジャーのおかげで、観衆の声援は果てることなく高い青空に響き渡っていた。
 球場入口のホットドッグ屋で、芥子とケチャップをたっぷり塗った奴をふたりぶん買い込んでから、ジョージ・コステロ巡査は駐車場に戻ってきた。そこにはハリウッド署のパトカーが一台、退屈そうに欠伸をするフレッド・オライリィ巡査を助手席に乗せたまま待っていた。
 彼らは同期にハリウッド署に入った勤続半年の新米警官だったが、早くもこの仕事に飽きかけていた。
 他に職がないため警官になったコステロはともかく、オライリィの動機は単純だった。子供の頃から父からさんざん観せられた西部劇映画のすっかり虜になっていた。つまり、単純にガンマンになりたくて警察に入ったのである。腰のホルスターには官給品のグロック17が入っているが、本当ならば西部の保安官のようにコルト・ピースメイカーをぶち込んでいたかった。いずれにせよ、幸か不幸か、彼の拳銃はまだ、犯人に向かって一度も火を吹いてはいなかった。
 ふたりは早朝からビヴァリーヒルズを回り、サンセット・ブールヴァードを流しながらパトロールを続け、ここにやって来た。
 むろん野球を観るわけじゃなく、ランチを食べるためだ。オニオンとポリッシュ・ソーセージを挟んだホットドッグは、たとえ野球を観ずとも食べる価値がある。
 助手席の窓越しに相棒にホットドッグを渡してから、コステロはボンネットを回り込んで運転席に座った。警察無線のヴォリュームを絞り、カーラジオのスイッチを入れると、七対三でドジャースが勝っている。
「ざまあみろ」ドジャースのファンであるオライリィは、膝を叩いてせせら笑った。ホットドッグをたいらげてから、紙ナプキンで口の周りのケチャップを拭い、駐車場の入口に何気なく目をやった。
「ジョージ。例の乱射事件の容疑者の車は、灰色の何だったかな?」
「アウディだ」コステロがホットドッグを食べながら答えた。
「フロントに四つの輪のマークがあるか?」
「相変わらず警官のくせして車に疎いんだな。アウディのトレードマークだろ」
 オライリィはガラス越しに指差した。「見ろよ」
 駐車場に、灰色のアウディが滑り込んできた。直列四気筒の水冷フロントエンジンが、トラの唸り声のような音を立てていた。
「手配中の車か?」コステロが訊く。
「わからん。ナンバーの確認がないんだ。だが、LAに灰色のアウディが何台走っていようとも、やっこさんを停める義務があるだろう?」
「行こう」
 コステロがホットドッグの残りを一気に口に押し込んで、キィを回してエンジンをふかした。同時にサイレンのスイッチを入れながら、アクセルを踏み込む。パトカーはアウディの前に回り込み、相手の行く手を遮るかたちで停車した。
 ふたりはドアを開けて車外へ出ると、腰の拳銃に手をかけて近づく。アウディの開けっ放しの窓から、長髪にサングラスの若い男が笑いかけた。
「おまわりさん、何の御用で?」
「免許証を」と、オライリィがいった。
 運転手は頷き、ダッシュボードを開けて中をごそごそやり始めた。
 その間、コステロが車内を覗く。
 助手席に、スーツ姿の黒人。後部座席にもひとり、燃えるような赤毛を生やした白人だったが、男がまるで無表情で、微動もせず前を向いていたため、コステロは最初、人形でも座らせているのかと思った。前のふたりはともかく、この男は野球を観戦にきたという風情ではない。
「どうやら、うちに置いてきたようで」運転手はニヤニヤ笑いながらいった。
「車の外に出てください」オライリィが、ホルスターのスナップを外した。コステロも彼に倣い、一歩下がる。
 前に座っていた白人と黒人が、ドアを開けてゆっくりと車外に出てきた。長髪の運転手の口元には、まだ不気味な笑みがへばりついている。黒人もアスファルトの上に立ってから、ふっとかすかな笑みを浮かべた。
「あんたもだ」オライリィが緊張して、後部座席の男にいった。
 赤毛の男は頷き、ドアを開けて地面に片足を降ろした。
 バタン。ドアが閉まった時、コステロがぎょっとして男に銃を向けた。男は丈の長いコートを着込んでいた。その下から銃身の長いリヴォルヴァーを出し、一瞬にして三発をコステロの腹と心臓、それから額に撃ち込んだ。
 驚愕の表情を浮べ、オライリィがグロックの引鉄に指をかけたとき、それよりも速く、彼の前に立っていたふたりが後ろ手に隠していた銃を、同時に腰だめに低くかまえてぶっぱなした。オライリィは胸と腹に数発の銃弾を浴び、アスファルトに叩きつけられた。

「おれたちゃ、ホットドッグを買いに来ただけなんだ。銃を抜くこたあないだろう?」
 サングラスの白人が笑いながらイングラムの弾倉を交換し、左手で長髪の鬘を取った。出てきたのは、つるっ禿げの頭だった。
 隣の黒人はショットガンのポンプを動かして空ケースを弾き出し、それを革靴の底で踏み潰した。最後に、赤毛の男はリヴォルヴァーをもう一度かまえ、地面に仰向けになり虫の息であえぐオライリィの額を狙い、ゆっくりと撃鉄を起こしてから、警官の脳味噌を吹っ飛ばした。
 そのときになって、赤毛の男は初めて口元を歪めて笑った。が、鮫のそれのような冷たく死んだ瞳だけは、まったく何の変貌も見せない。
 周囲には大勢の人間がいた。
 全員が足を停め、驚愕の顔で彼らを見ていたが、三人は意に介する様子もなく、アウディに乗り込んだ。灰色の車がゆっくりと滑るように走り出した。


       ☆

〈ディック・オカザキ自動車整備工場〉は、ダウンタウンのずっと外れにあった。
 レイバンのサングラスをかけた成田俊介はガレージの錆び付いたシャッターの前にサバンナを停めると、軽く二度ホンを鳴らす。ガレージの隣の掘っ立て小屋みたいな平屋の扉が開いて、オーヴァーオールのジーンズ姿の白髪の老人が姿を見せた。ここの主のディック・オカザキである。
 三代前から自動車の整備をしてきたが、八十年代後半頃にリトル・トウキョウを追い出され、スクラップ工場の中に自社を建てて細々とやっている。
 まるで自分は幻を見ているんだといわんばかりに、小さな目をしばたたき、蜂の巣のようになったサバンナを眺めてから、彼は唸るようにいった。
「こりゃすごいな」
 俊介はサングラスを取って、参ったという顔で老人を眺めた。
「爺さん。何とかなるかい?」
 老人は後ろ姿を彼に向けると、正面のシャッターをガラリと上げた。
「儂は味噌汁の作り方も、女房のしつけ方も知らん男だが、車にかけちゃこのダウンタウンでも右に出る者はおらん。何だい、そのいい草は? 何とかなるかいだと?」
「大丈夫なのか」
「ただし、金と時間はかかる」
「わかってる」
 サバンナをガレージに入れると、俊介はドアを開けて車を降りた。ひとつだけ残ったバックミラーの前に屈み込んで、〈ブルックス・ブラザース〉で買ったばかりの新品のスーツ姿の自分を見て、細身の白いネクタイが曲がっていないかチェックした。
 シャッターを下ろし、天井の電灯を点けてから、ディックはあらためて車の損傷の具合をたしかめた。「何で撃たれたんだ?」
「イングラム」
「なるほど」
「プロらしいんだ」
「そうらしいな。しかもひとりはマークスマンクラスの凄腕だぞ」
「ひとりはって?」俊介は眉を上げて、彼の傍に屈み込んだ。ディックは車に残っている弾痕に指を当てている。
「車を蜂の巣にしている穴とは明らかに違うのがここにある」
 老人が指差したのは後部のナンバープレートの上に刻まれた弾痕だ。『79J362』というナンバーの”J”の文字の部分を、数発の弾丸がきれいに撃ち抜いている。
「あんた、どうやら遊ばれたな」
 俊介はしゃがみ込み、信じられないという表情でそれをしげしげと眺めた。
「つまり、相手はふたりはいるっちゅうことだ。運転手を入れると、三人いたかもな」
 彼はジーンズのポケットからスマートフォンを引っ張り出した。
「――いつでも殺せたぞっちゅうことだな。こいつにタイヤをやられて車を停められとったら、今頃は命がなかっただろうよ」
 俊介は近くに置いてあった古タイヤの上に座り込み、相棒のアイコンをタップしてから、耳に当てた。「やれやれ」


       ☆

 猫がすぐ目の前にいた。
 彼が飼っているファティとはだいぶ姿かたちが違う。もっと痩せていて、真っ黒な毛並み。翡翠のように青い目で、じっと彼を見ていた。
 ラリー・ステインシュネイダーは、ひどい頭痛にうめき声を出し、頭に手をやった。
 殴られた後頭部が、腫れ上がっている。そこが熱を帯びていて頭痛の元になっているようだった。彼は入口近くの壁に凭れ、頭を押えたまましばらくじっとしていた。
 昨日と今日。同じ場所で同じように、痛い目にあったわけだ。
 また、黒猫と目が合った。
「そんな目でぼくを見るなってば。それでなくても……ときどき自分が嫌になるんだ」
 溜息をつき、ゆっくりと上体を起こした。
 近くに落ちていた眼鏡の左側のレンズが壊れ、そっくり枠から外れてしまっていた。右目だけはしっかりと見えるから、景色がひどくアンバランスに構成されている。
 マギーの姿はもちろんなく、部屋にあったものが幾つか消えていた。開けっ放しの衣装棚には服もない。壁に貼りつけてあったジミ・ヘンのポスターすら剥されて持っていかれていた。彼女は二度と、ここに戻ってはこないだろう。
 それなのに猫だけが置き去りにされている。
 はっと気づいて、腰のホルスターに手を伸ばした。拳銃はちゃんとある。それに財布、身分証。躰を探られた形跡はない。マギーは彼を伸ばしておいて、風をくらって逃げていったのだ。
 ズボンのポケットの中で、スマートフォンが振動した。
 ラリーはそれを取り出し、相棒からかかったのを知って通話状態にした。
 ――ラリー。どうしてる?
「気絶から醒めたところだ」
 しばし間があった。
 ――またトラブルか。
「マギーに後ろからやられた。ブラックジャックらしい」
 ――すぐ、そっちに行く。
 それから十五分とかからなかった。ふいに猫が耳を立て、振り向いた。
 表に車が停まる音が聞え、彼は銃を抜いた。そっと立ち上がると、スライドに手をかけて引き、初弾を薬室に装填してから、扉をわずかに開いて外を見る。
 黒猫がその隙間からサッと表に飛び出していった。
 街路に降り注ぐ陽光の眩しさが目を射抜き、同時にひどい頭痛がよみがえってきた。
 黄色い車体のタクシーだった。
 ドアが開き、俊介が降りてきた。ラリーは銃の撃鉄をゆっくりと戻した。扉を開いて彼を呼ぶと、俊介は手を上げた。
「その眼鏡は新手のファッションか?」
 ラリーは答えず、こめかみに指先を当てた。
「マギーは?」
「逃げた」
「まったく仕方ない奴だ。同じ場所で二度もやられるなんて、どうかしてるぞ」
「由起にはいわないでくれ」
 俊介は苦笑いをして頷いた。
 彼が手を貸してくれて、何とかラリーは立ち上がれた。俊介は表で待っていたタクシーまで彼を引っ張っていった。ラリーを先に乗せてから、続いて乗り込み、ドアを閉めながら運転手に「LAPDまで」と、行き先を告げた。
「警察へか。どうしたんだ?」
「おれたちが汗だくで走り回るよりも、遥かに手際のいいやり方がある。やっとそれに気づいた」
 ラリーはわからないという顔で、相棒を見る。彼はタクシーのラジオから流れる、レディー・ガガの新曲『ザ・キュア』に合わせて、両手で膝を叩いてリズムをとっていた。
「そもそもの始まりは、慎吾が神村佳織に送ってきた三十万ドルだ。それがいったい何の金かって考えた。慎吾だけじゃなく、他のチンピラどもも同じく出どころ不明の金を持っているとすれば? あれが本当はもっと巨額の何かの末端に過ぎないとすれば? 街の不良がてっとり早く大金を手にするにはどうするか。方法はふたつ。つまり……麻薬か強盗か。ストリートギャングに麻薬は付き物だが、いちどきに大金を儲けるほどの取り引きは無理だ。やつらはプロじゃないから。だとすれば、ひとつしかない」
「それで、市警本部に行って?」
「つまり過去の事件を調べるんだ」
 俊介がニヤッと笑った。「由起にも手伝ってもらう」


       ☆

 その頃、鮎川由起はダウンタウンのユニオン駅近くにあるコーヒーショップ〈ラ・ジョコンダ〉で、神村佳織と待ち合わせをしていた。
 午後一時の約束に、由起は五分ほど遅れて到着した。タクシーがなかなか捉まらなかったためだった。店は由起の行きつけの場所で、名の通り、店内には大きな『モナリザ』の複製画が飾ってある。
 コーヒーは一杯二ドルもするが、値段相応の味は保証できる。コーヒー通の俊介を満足させるため、彼女はこの店のマスターに頼み込んで、サイフォンの使い方を習ったぐらいである。
 ちょうど昼どきで、昼食とコーヒーブレイクを兼ねた客で店は混んでいたが、窓際に座っている佳織を見つけるのに、苦労はしなかった。由起が近づいていくのを見て、彼女は立ち上がって、会釈をした。
 由起はカウンターの向こうにいる顔馴染の店員にコーヒーを注文し、それを受けとって佳織のいるテーブルにやって来て、彼女の向かいに座った。
「わざわざこんな場所に呼び出したりして、ごめんなさいね」
「いいんです」佳織は答えて、足元に置いていた大きな紙袋を彼女に差し出した。
「三十万ドル。全額入ってます」
 由起は受け取ってから、ハンドバッグから借用書を出して渡した。
「急にこんなこと頼んで、本当にごめんなさい。でも、お金の出所をたしかめるため、必要だったの。一週間以内に返すから、これを受け取って」
 すると佳織はかぶりを振って、それを突き返した。「こんなお金、どうなってもいいんです。弟さえ無事でいたら。だから――お金は返さなくてもいいわ」
「困ったわね」由起はコーヒーを飲み、借用書をふたつ折りにしてブラウスの胸ポケットに入れた。「でもね、だからといって、私たちがもらうわけにはいかないの。そりゃ、貧乏な探偵社だけど」
 佳織は俯き、それから窓越しにユニオン駅のパッセンジャーターミナルに出入りする人々を眺めた。サラリーマンに旅客、駅前の光景というのは、何故かどこの国も同じ様に見えてしまう。誰も彼もが、ひどく忙しそうに歩くからだ。
「あの探偵さんたちのひとり。えっと、成田さんでしたね。同じ日本の血が流れてるのに、まるっきり私と違う人種みたいだった。アメリカに住んでる日系人って、みんなそうなのかしら」
 そういいながら彼女は目の前に座る探偵社の秘書を見つめた。「あなたもそう?」
 由起はちょっと唇を噛みながら言葉を選んだ。「ううん。私はあなたと同じ、日本から来たの。でも彼のことはすごくわかるわ。リトル・トウキョウの一部の人間ってね、すごく悲しい人たちなの」
「悲しい人たち……?」
「彼らの親たちや祖父、祖母たちは自分の財を築こう、自分の夢を追おうとして、この国に渡ってきたの。アメリカは白人には自由と夢の国だったけど、彼らには自由も夢も許されなかった。戦争が始まると、それまで必死に働いて貯めた財産を没収されて、強制収容所に放り込まれた。だから、戦後になって自分たちの生活を取り戻そうと、必死になって働いてきたわ。それが今に至って、彼らはまだ辛苦を味わう羽目になった。今度は母国だったはずの日本が、経済力でアメリカに進出し始めたから」
 由起は言葉を切り、佳織と同じように窓外を眺めた。そして続けた。
「――日系人の街だったはずのリトル・トウキョウは、日本から来た企業に買い占められて、この十何年かでひどく変わってしまったの。昔から街に住んでいた人たちは、力づくで追い出されてしまった。彼らは自分の故郷だった日本にまでも見捨てられたの。さらにそこに中国系や韓国の企業がいっぱい進出してきて、街に残っていた少数の日系人たちすらも追いやられようとしている」
 由起はそれっきり黙り込んだ。
 駅の車寄せに停まったタクシーから、いかにも観光客とわかる若い男女が降りた。
 辺りをはばからぬ大声で中国語をしゃべりながら歩き出す。
 運転手は急いで駅に向かうふたりの後ろ姿に中指を突き立てて何かを怒鳴りつけてから、猛然とアクセルを踏みつけ、タクシーを発進させた。おそらく、ろくにチップを貰わなかったのだろう。
 憂鬱な顔をしていた由起は、ふっと肩をすぼめてから佳織を見た。
「ごめんなさい。あなたには関係のない話だったわね」
 佳織はずっと目を伏せていた。
 ゆっくりと顔を上げ、窓外の光景に見入った。


       ☆

 午後二時三十分に、探偵たちは由起と市警本部の前で待ち合わせていた。
 彼女は今度は時間きっかりにやって来たが、遅れたのは彼らのほうだった。リトル・トウキョウのオフィスに戻って、ラリーの眼鏡のスペアを取ってこなければならなかったからだ。
 俊介たちがタクシーを降りたとき、由起は停車しているパトカーの横で、若い制服警官と話をしていた。日系人のロディ・ムラカミ。彼らの知り合いだった。由起がふたりを見つけて手を振ってきた。ロディも片手を上げて挨拶してくる。
 俊介たちも応えた。
「ラリー、眼鏡が新しくなってるけど?」
「バナナで滑って転んだんだ」
 百年も昔に廃れたような冗談に、彼女は呆れた様子で彼を見た。
「あんたら、うちのボスが呼んでるぞ。こっぴどくやられるぜ、きっと」
 ロディがいったのは、ハロルド・ナルティ巡査部長のことである。
 俊介が苦笑して両手を持ち上げた。「ばれたかな? あれ」
「なんのこと?」
「馴染みの女性警官に、ちょいとばかり情報を流してもらったんだ」
 由起に説明すると、彼女は困った顔で肩をすくめてみせた。俊介は何食わぬといった様子で、顎をしゃくって入口を差した。
「行こう。例の用事をすませる前に、彼に挨拶しておくのもいい」

 刑事部強盗殺人課のオフィスは昨日とまったく同じくひどく雑然としていて、立錐の余地もないほどだった。天井に並ぶ長い蛍光灯のひとつが切れかかっていて、不規則に瞬いている。その下で、ナルティは脇の下に拳銃をぶら下げたまま、憮然とした表情で腕組みをしていた。
 入口に立ち止まった俊介たちは一瞬、顔を見合わせた。
「えらくトサカに来てますって顔だ」ラリーが呟いた。
「悪いことしたわけじゃない。情報公開は公僕の義務だ」
 俊介はいって、ツカツカと歩いていった。
 ラリーと由起があとに続いた。ナルティは彼らに気づくと、組んでいた脚を降ろし、スティールパイプの椅子をくるりと半回転させて向き直った。
 どういうわけか、巡査部長はニヤリと笑った。
「いよう、名探偵たち。さっそくのお出ましか?」
 彼は俊介とその後ろにいるラリーを見て、それから由起に気づいたようだ。
「マドンナも来てたのか。こんにちは、お嬢さん」
「こんにちは、巡査部長さん」と、由起が会釈した。
 ナルティは彼女には一目置いている。というより、年甲斐もなく惚れてしまっているのだ。おかげで彼は、妙に気不味い表情になった。
「いっとくけど、シンディには何の罪もないんだ。おれが頼み込んだんだから、あの娘を叱らないでくれよ」
 俊介がいうと、彼は笑い出した。「そんなにシンディのことが気になるか? オーケイ。わかった。じゃあ、許してやろう。ただし、だ。お前たちが何を企んでいるか、この場で白状するんだ」
「拷問にでもかけやがれ」
 俊介の言葉に、ナルティが眉をひそめた。
「やはり、糸を引く腐った豆を食うような人種とは、どうも相入れられないものがあるらしいな」
 そういって無精髭の顎をざらざらと撫でた。
「ほっといてくれ」と、俊介がむくれた。
「お前らの鑑札を取りあげるのは簡単なんだぞ。消費者保護局に電話を一本入れりゃいいんだからな」
 ナルティはふたりを交互に見ながら、そういった。「とまれ、お前らは探偵だ。依頼人の権利を守る義務はあるだろう。ただな、うちの資料を図書館のレファレンスでバイトしている娘っ子みたいに、ハイハイと持ってきてやるのは、どだい無理な話ってもんだ。わかるだろう?」
 そういってから、彼は両手で顔を擦った。
 目尻や口元に刻み込まれた無数の皺に、疲労が窺える。緩めたネクタイの柄は昨日と同じで、シャツはさらに汚れてよれよれになっていた。
「用件はそれだけだ。そっちが持っているネタを分けてくれたら、こっちもいつだって相応の礼の用意はある。が、ダメなら、こっちもダメだ」
「シンディはどうなるんだ?」
 彼は憮然とした顔をしたが、ふいに由起を見て、仕方ないという表情を浮かべた。
「目をつぶっておくよ。大したことやったわけじゃない」

 探偵たちと女性秘書が立ち去ったあと、ナルティは薄くなり始めたゴマ塩頭を撫でた。
「どうも、彼女がいるとやりにくい」
 ぽつりといった独り言を、隣に座っている相棒の刑事、フランク・ジェンキンズが聞いていた。
「彼女って、なんです?」
「うるさい」彼は椅子をくるりと回して机の上の書類を取りあげ、しばらくしげしげと眺めてから立ち上がり、ジェンキンズの前にこれを放った。
「こいつもついでに頼む」
「ちょっと、ボス。もう三日も家に帰ってないんですよ」
「こっちは四日だ、フランク」
 そのとき、デスクの上の電話が飛び上がるほど激しく鳴った。ナルティはまた憮然とした表情に戻って受話器を取り上げたが、すぐにその顔は険相へと取って代わった。
 事件の報告だった。しかも至極、重大だ。
 ゆっくりと受話器を置くと、彼はフランク・ジェンキンズに向き直った。
「ハリウッド署の警官が二名、ドジャー・スタジアムで射殺された」
 ジェンキンズがぎょっとした顔で、彼を見た。「犯人は?」
「灰色のアウディに乗った三人組の男だそうだ」
 ナルティはそういって眉根を寄せた。


       ☆

「糸を引く腐った豆って何だ?」
 強盗殺人課を出たあと、廊下を歩きながら、ラリーが訊いてきた。
「お前は知らんほうがいい。苦手分野のはずだ」
 俊介が答えると、ラリーがハッとなって手を叩いた。
「ナットーのことか」
「日本にいた頃、食わされたろ」
「ぼくは好きだったよ」
「そいつは意外だな」
 由起が肩をすぼめ、クスクスと笑っている。
 彼らは出口とはまったく反対の方角に歩いていた。階段を上りきって、そこに続く廊下の向こうに資料室の表札が見える。
 ふと、悪知恵がはたらいた。俊介がいった。
「おい、ラリー。ちょっと悪いが両手を後ろに回してくんな」
「何を企んでんだ?」ぶつぶついいながら従った彼の両手に、俊介は上着のポケットから取り出した手錠をかます。ラリーは驚いて振り返った。
「お、おい!」
「いいから、任せな。〈スター・ウォーズ〉でこんな場面があったろ?」
 俊介は懐から取り出した偽の警察IDを、ピンで胸に留める。
 そうして三人は歩き出した。由起がまたクスッと笑った。
「ぼくはチューバッカか……」ラリーが呟いている。
 資料室の前に来ると、俊介はガラス扉をノックした。すぐ向こうの机でノートパソコンのキィボードを叩いていた若い制服警官が彼らに気づいた。
「何か?」
 部屋にいるのは彼ひとりのようだ。
「SFPDから来たジェイムズ・シミズ刑事だ。凶悪強盗犯の容疑者〈山猫ジョウ〉を逮捕、護送中なんだが、こちらのデータベースを使って、LAにおける余罪を手早く調べておきたいんだ。いいかな?」
 若い警官は俊介とラリー、それから後ろにいる由起をじろじろ見つめた。
「彼女は?」
「日本から来たセイコ・マツダ刑事」
 由起が吹き出しそうになって、後ろを向き、片手で口を押えた。
「ちょっと待って下さいよ。容疑者をこんな場所に連れてくるなんて、いくらなんでもまずいですよ。ちょっと問い合わせてもいいですか?」
 俊介が咳払いをした。
「この凶悪犯を拘留するための煩雑な事務手続きを省きたいから、わざわざ連れてきたんじゃないか。問い合わせて待たされるぐらいなら、いっそこのままフリスコに戻ったほうがましだ」
 彼はニヤリと笑って続けた。「ア、ハ。お前さん、まだルーキーだな? おれのことを知らんのか?」
 警官は急にもじもじした。「ええ、まだアカデミーを出ていくらも経たないんです。外勤にすら出させてもらえないもんで」
 ガラス扉を開けて、彼らを入れた。
「機械の使い方はわかりますね?」
 俊介たちが部屋に入ると、彼はまた机に戻ってパソコンに向かった。彼は事務作業に関しても素人同然らしく、原稿を見たりキィを見たりして、一文字一文字、人差し指を使って叩いている。
 見ていると、俊介はひどくいらだってきた。
「手伝ってやったらどうだ?」
 由起は愉快そうな顔をして、新米の警官をどかしてから、ノートパソコンの前に座り込んだ。そして両手をあわせて指の関節をポキポキやると、傍に置いてあった手書きの報告書を指差した。
「これ、テキストファイルに打ち込めばいいのね?」
 警官が頷くや、彼女は十本の指先を使い、サブマシンガンそこのけの速さでキィを打ち始める。液晶画面に素早く英文字が並んでゆく。
 ルーキーの警官は、まるで魔術でも見るような目で、彼女の手さばきを眺めていた。
 その間、俊介は困惑顔のラリーを近くのデスクの足に手錠で繋ぎ、別の端末前に座り込んだ。
 トップ画面からデータベースを呼び出してみた。
「これなら操作は簡単だ。由起を呼ぶほどのこともなかったな」
 神村佳織から借りた三十万ドルの紙幣のナンバーと、過去、数か月間の強盗事件によって盗難の憂き目にあった金の――登録済の通しナンバーとの照合は、あっという間に終ってしまった。
 三十万ドルの紙幣の中に、ナンバーの続いたものが多く混じっていて、そのおかげでサーチが手早く完了したのである。
『バークリィ銀行強盗事件』というワードが液晶モニターに現われたのは、わずか数秒後のことだった。
 二か月前の四月九日、銀行がシャッターを開けると同時に、ストッキングを被った数人が銃を持って行内に押し入り、現金およそ千二百万ドルを奪って逃走した。事件は迷宮入り、金の行方もわからないままになっている。
 呼び出したデータをプリントアウトしてしげしげと眺め、俊介は口笛を吹いた。
「やっこさん、やってくれるぜ」
 資料室を出る時、例のルーキー警官は由起の打った文書ファイルを前に、まだ茫然自失といった顔で座っていた。が、彼らが立ち去ると見るや、あわてて立ち上がった。
「助かりました」
「いいさ。こっちもおかげで、この凶悪殺人犯〈山猫ジョウ〉の余罪がわかった。強盗二件。強姦三件。おまけに市長の愛犬を自転車で轢き殺した、とんでもない野郎だ。君の好意と協力は、署長によくいっておくよ」
「ありがとうございます。また、いつでも来てください」
 彼らは黙って廊下を歩き、階段を降り切ったところで耐え切れなくなって、ついに笑い転げた。ひとり、複雑な顔をしているのは、手錠のラリー・ステインシュネイダーである。
「市長の犬を、自転車で……?」
 俊介と由起が、また苦しげに声を押し殺し、笑い始めた。

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