文字数 11,020文字

〈フローリアンズ〉が開店する夕方の五時になると、客が次々と入ってきた。
 まずどこかの企業の重役風の初老の白人がふたり、店の奥の丸テーブルに座ってバドワイザーを注文した。それから五分もしないうちに、大学生風の男女らが数名。続いて中高年の女性たちが四人。ほとんどがフロアのいくつかのテーブル席についた。
 店内はほぼ満席となった。
 それからしばらくすると、リヴリーヴルの短いジャケットと、腰のラインをぴったりと浮き出させるタイトなスカートの若い女がひとりで入ってきた。彼女はテーブルに空きがないのを見ると、カウンターに向かった。止まり木に並ぶ俊介とマギーには見向きもせず、ふたりのすぐ傍を通り抜け、いちばん奥のストゥールに座った。
 ジェフに何かを注文してから、セカンドバッグを開いてメンソール煙草を取り出し、細長いガスライターで火を点けた。由起によく似た黒髪の、若い白人女性だった。
 ジェフがグラスを置き、バーボンをなみなみと注いだ。
 銘柄は〈オールド・グランダッド〉だ。それを女が無造作にあおった。
「なに見てんのよ」マギーがいって、俊介の腕を肘で突いた。
「女がひとりでバーボンを注文した。しかも驚いたことに、ストレートだ」彼がいった。
「だから何?」
「ここは自由の国だ」
 マギーは呆れた顔で、ウイスキーサワーが入ったグラスを取って、ぐいとやった。
「莫迦ね。彼女が気になるんでしょ?」
「別に」
「ユキさんは?」
「彼女は特別だ。美人で、気品があって、頭もいい。それに、男以上に行動力がある」
「寝たの?」
 俊介は首を振って、IWハーパーのオン・ザ・ロックを飲んだ。
「どうして?」
「いっただろう。特別なんだってさ。それに由起は、おれの相棒に惚れている」
「ラリーに? 関係ないじゃない。あんたが好きだったら、さ」
「関係あるよ。おれたち三人はひとつのチームなんだ。絶妙なつり合いのとれたバランスでこの世界に存在する三つの石ころみたいなものだ」
「じゃあ、あたしがあんたを取っちゃおうかな」
「慎吾はどうするんだ?」
「あいつはいずれ日本に帰るんだもの」
 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。
 ラリーからだった。
「おれだ」
 ――これから慎吾をメディカルセンターから出して、ひとまずそっちの店に運ぶ。今、佳織さんが日本大使館に出向いて、慎吾を保護してくれるように要請しているはずだ。もしオーケイが出たら、おれたちで大使館まで護送することになる。
「敵は警察にまで圧力をかけてきたんだ。本腰を入れてくるつもりだぞ」
 ――わかってる。
「おれも合流しようか」
 ――大丈夫だ。そっちをしっかり頼む。
「由起もいっしょなのか」
 ――オフィスにひとりいさせるのもどうかと思ってな。
「そうだな。とにかく素早く行動してくれ」
 ――敵が現れたら?
「独断専行はダメだぜ。とくに由起がいっしょのときは」
 ――わかった。トラブルはなるべく回避する。
 電話が切れた。
 スマートフォンをしまうと、マギーと目が合った。
「慎吾を殺そうとしている男は、警察の上層部の誰かに金を握らしたんだ。下手をすれば市警まで相手にしなければならない」
「サツなんて、いつだって汚い金を握ってぶくぶく太っているじゃない」
 マギーがいって鼻の上に皺を寄せた。
「だが、ナルティは信用できる」
「オマワリなのに?」
「彼は警官である以上に、ひとりの立派な男だ。ジェンキンズもそうだ」
「あんたのいってること、よくわかんない」
「だろうな」
 彼はそういってから、背後の席に視線を走らせた。
 店の客はさらにふたり増えていた。ニットのポロシャツを着た白人と、黒いTシャツの黒人が、先に入ってきた重役風のふたりの隣の席で、スコッチウイスキーのボトルを傍らに、水割りを飲んでいた。ふたりともまだ若く、大学生のような感じだった。
 注文をひと通り出し終えたらしく、ジェフが俊介たちの前に来て、煙草を吸い始めた。
「二階に空いた部屋がある。客を連れてきたら使うといい」
「悪いな、マスター」
 ジェフは笑った。「それよりも、昨日のアナハイムスタジアムの試合、テレビで観たか?」
「レイダース・ラムズ戦か。しくじったな、うっかり観忘れてたよ」と、俊介が答えた。「ちょうど忙しかったんだ」
「何やってたんだ」
「撃ち合いだ」
「たまげたな。そりゃ、フットボールより面白そうだ」
「冗談じゃない。ところで試合のほうはどうだった?」
 ジェフは複雑な表情を浮かべた。「まるで試合にならなかった」
「なんだよ、それ」
「ゲームの途中で、選手同士の殴り合いが始まってな、仕舞いにゃ、観客までフィールドに出てきて喧嘩をおっぱじめたんだ。凄かったよ」
「どっちが勝ったんだ?」
「だからよ」ジェフがむくれた。「喧嘩騒ぎで、ゲームどころじゃなかったんだ。結局、試合は中止。勝敗は決まらなかったんだ」
「訊きたいのは、喧嘩のほうさ。どっちのチームが勝ったんだ?」
 横にいたマギー・エンジェルが吹き出した。


       ☆

 メディカルセンターは市庁舎の建物に隣接してあった。
 五階建の白いビルで、背後に見えるシビックセンターの二十七階のそびえ立つドームに比べると、見劣りすることおびただしい。警察管轄の病院ゆえに銃を持った警備員による二十四時間の警備体制が敷かれていた。
 正面受付で身分証を見せると、ジェンキンズから指示があったのだろう、ラリーと由起はすんなりと中に入れた。神村慎吾は三階の病室のベッドに腰を降ろし、フランク・ジェンキンズが彼の前に立っていた。慎吾は、ラリーが〈ブルーハーバー〉で見つけたときよりも、ずいぶんと顔色が良く見えたが、依然として頬は痩せこけて目に生気がない。
「佳織さんから連絡は?」
 ラリーが訊くと、ジェンキンズがいった。「さっきあった。まだ、日本大使館で交渉中だそうだ」
「難航してますね」
「ヤク中で銀行強盗の犯人グループのひとりだ。おいそれと許可が出るわけない」
 ラリーはうなずいた。しかし、佳織には頑張ってもらわないとならない。
 アクション映画か三文パルプ小説そこのけの派手な撃ち合いに巻き込まれては、さすがに彼女も生きた心地はしなかっただろう。だが、弟のために必死になっている。
「慎吾はバークリィ銀行の事件について、何かいいましたか」
 ラリーが訊くと、ジェンキンズはかぶりを振った。
「誰かに依頼されて銀行を襲ったのは間違いないが、依頼人を知っていたのは、真っ先に殺されたビリー・ラッツだけだったそうだ。彼が〈ヘルウインド〉のリーダーだったらしい」
 ジョゼフとロバート・マックスウェル。両方の名前も知らないという。
 とりあえずの慎吾の行き先を口にすると、刑事は妙な顔をした。「バーか?」
 そういってから、ベッドに腰を降ろして俯いている神村慎吾を見た。「彼は重度の麻薬中毒患者だぞ。本来なら、ストレッチャーで運ばなければならないんだ。そんな場所に連れて行ってどうするんだ?」
「大丈夫だよ。〈フローリアンズ〉のマスターは、面倒見のいい男だ。それに長く居座るつもりはないんだ。大使館から許可が折りしだい、すぐに護送するよ」
「いっそこのまま日本に帰したらどうだ?」
「本人はパスポートを紛失しているんです。いっそ、軍用機ででも送ってもらえるのなら」
 彼は肩をすぼめて、まいったという顔をした。

 メディカルセンターの地下駐車場は、だだっ広く閑散としていた。
 冷たく澄んだ空気の中に、パトカーが二台とフォードの小型ヴァンが一台。あとはジェンキンズの深緑のシヴォレーがあるだけだ。
 いつもナルティを助手席に乗せていた車だった。六十八年に売り出された旧型で、それにふさわしく車体は傷だらけで、おまけにタイヤの溝がほとんど磨り減って、丸坊主に近い状態だった。
「妙に静かだな」
 先頭を歩くラリーの声が、がらんとした駐車場に響いた。コンクリの天井に跳ね返って、エコーを伴って聞える。
「人を追い払った」ジェンキンズが慎吾に肩を貸して、ゆっくり歩きながら答える。「警官としておれができる精いっぱいの権限だ。だから、ここにはおれたちしかいないはずだ」
 慎吾は満面に汗を浮かべ、彼に凭れかかるようにして、一歩ずつ歩いていた。さらにその後ろを由起がついてきている。
「ラリー。付近の車を見てきてくれ。誰かが隠れているかもしれん」
 懐手のラリーは油断なく腰の拳銃に手をかけながら、壁際に並んで停めてある車の周囲と車内をチェックし、誰もいないことを確認した。
「クリアだ。パトカーの一台にキィが差し込まれたままだけど」
「車両ナンバーは?」
「五〇一三……」
 ラリーが読み上げた。
「ロディ・ムラカミの車だ。またへまをやりやがって」
 そういってジェンキンズが笑い、シボレーの後部ドアを開いて、慎吾をシートに座らせた。彼は相変わらず額一面に汗を浮かべていた。禁断症状が出ているのだとラリーは気づいた。指先がかすかに震え、唇が青い。暴れ出さないうちに目的地まで運ばなければならない。
 慎吾の隣に由起が座った。すぐにハンカチを出して、彼の額や首の汗を拭いてやる。
「すみません」
 ラリーはその声を聞いて、驚いた。
 慎吾がまともに話すのを初めて耳にしたからだ。うわずった声だが、しっかりした日本語で由起にこういった。「おれのために、みんなに迷惑かけちゃって」
「いいのよ」
 由起が微笑んだ。「とにかく無事に帰国して、お姉さんを安心させてあげて」
 慎吾は俯き、唇を噛んでいた。
 由起は後部ドアを閉めようとして果たせず、何度かガタガタやって奇異な顔になった。
「これ、ロックしないわよ」
 ラリーは外からドアを閉めてみた。しかし、後部ドアはロックしないどころか、完全に閉まらない状態だった。車体との間に、一インチばかり隙間を残している。
「悪いな。ぶつけて歪んだままだ。あいにく修理する暇がなかったんだ。もしも怖けりゃ、窓の上のアシストハンドルを持ってりゃ大丈夫だ」
 ジェンキンズが運転席に座りながら、そういった。
「ったく、いい加減だな」
 助手席に座ろうとしたラリーを、彼が見た。
「すまんが、出口の様子を見てきてくれないか? 駐車場を出たとたん、待ち伏せされて、マシンガンで撃ちまくられるのは、ぞっとしないからな」
 ラリーは頷いてドアを閉めた。
 靴音を立てながら、爪先上がりの急坂になる出口に向かって歩いた。
 建物の外を闇が支配していた。
 いつの間にか七時をまわっている。
 一番街を走る車の音がかすかに聞えるが、騒音は駐車場までは届かない。依然、静寂に充ちている。
 ふいに、どこかで彼のものでない足音が響いた。出口近くに立ち止まっていた彼は、反射的に銃を抜きながら右を向いた。フォードの小型ヴァンの後ろ辺りだ。
 駐車場に他人がいてはならない。ジェンキンズが人払いをしたはずだからだ。それなのに誰かがうろついている。
 その刹那、彼はある可能性に気づいた。あわてて背後に向き直った。
 フランク・ジェンキンズの躰が少し傾いでいる。ステアリングの脇のキィに手をかけているのだ。
 ラリーは蒼白になった。硬直したまま、ジェンキンズのシヴォレーを凝視する。
「キィを回しちゃダメだ! フランク!」
 ラリーが怒鳴るように叫んだ。しかしジェンキンズは気づかない。
 後部座席の由起が大きく目を見開きながら、外のラリーを見た。
 セルモーターの音が始まると同時に、壊れた後部ドアが弾けたように開いた。勢いよく突き飛ばされた由起が、背中から車外に飛び出し、コンクリの床に転げ出した。
 直後、シヴォレーは轟音と炎を噴き出して爆発した。
 無数の金属片とガラスが四散し、車体が一瞬、わずかに宙に浮き上った。かなり離れていたラリーのところまで熱風が吹きつけて、彼は二、三歩よろめいた。
 かまわずラリーは走った。
 燃え上がる車の手前に倒れる由起に駆け寄る。すさまじい熱気が頬を叩いた。彼のブロンドの髪の毛が燃え上がりそうになった。
 由起の両手を掴んで、炎の威勢の届かない場所まで力いっぱい引きずっていく。俯せになった彼女のフリントロックのジャケットの背中に火が点いていた。
 すぐに脱がせて、遠くに放り出した。白いTシャツの背中も、かなり焦げている。
 セルモーターの起動から爆発まで、ほんのわずかだがタイムラグがあった。そうでなければ、由起自身もあそこで即死していただろう。
 やがて由起はラリーの腕の中で意識を取り戻した。
 紅蓮の炎を吹きあげて燃えるシヴォレーを見て、一瞬、呆然としていたが、何が起こったか悟ったのだろう、ゆっくりと立ち上がった。その大きな眸に燃えさかる炎が映っていた。
「まさか……死んだの?」
「ああ」
「ふたりとも?」
「そうだ」
 由起は彼を見つめた。「慎吾さんが……私を外に突き飛ばして助けてくれたわ。どうして? 自分が逃げ出すことだってできたはずなのに」
「慎吾の側のドアはロックがかかってた。彼がやれたのは、君を助けることだけだ」
 虚ろな声だった。
 それが自分の声ではないような気がした。
 自分たちがこうして生きているのが不思議だった。
 ラリーも由起も、本当ならば彼らとともにシヴォレーの中で死んでいたはずだった。
 涙が出ないのは、感覚が麻痺しているからだ。あまりにも傷が深すぎて痛みを感じないのだ。
 炎はますます強くなり、地下駐車場はもうもうと立ち込める黒煙に覆われ始めた。その頃になって、今まで沈黙していた感知装置がようやく作動した。警報が鳴り響き、コンクリの天井の数カ所に設置されていた消火栓が、スコールのような音を立てていっせいに水を撒き始めた。その中を、ふたりは夕立に打たれたように、ずぶ濡れになっていた。
 出し抜けに背後にエンジン音がした。
 ラリーたちは振り向いた。近くに停まっていた白いフォードの小型ヴァンが、黒煙と消火装置の雨の中を、すさまじいスピードで出口に向かって走り出した。
 さっきの足音の主であることは明白だ。
 ラリーは込み上げる怒りで震えた。
「ちくしょう!」
 近くにパトカーが停まっている。ロディ・ムラカミがキィを差し込んだまま忘れていた車だ。
 彼は立ち上がると、由起の手を引いて走った。
「助手席に乗って!」
 由起が運転席のドアを開いて、飛び込んだ。
「君が運転するつもりか」
「だってあれを停めるのは、あなたじゃないと出来ない!」
 ラリーは右手に握ったままのオートマティックを見た。
 道理である。
 彼はすぐに助手席側に回り込み、ドアを開いた。
 由起がステアリング脇のイグニションのキィに手をかけた。
「待て!」
 思わずラリーが叫んだ。同時に由起も気づいた。
 ふたりで目を合わせる。
 由起が口を引き結んだ。「やってみる」
 キィを回した。セルモーターの音にラリーが硬直する。
 が、何も起きなかった。
 由起がホッとした顔になる。
 彼女がアクセルを踏み込み、パトカーは急発進した。
 駐車場の外に飛び出すと、ヴァンはすでに一番街に出ていて、二ブロック以上も先を走っていた。由起は片手でハンドルを操作しながら、巧みにシフトを操作した。
 信号が変わって何台もの車がいっせいに走り始めた大通りに飛び出すと、急ブレーキの悲鳴を左右に聞きながら、車の流れを突き抜け、渋滞のトップに躍り出た。
「由起、もっと飛ばせ」助手席の窓を開けながら、ラリーがいった。
「やってる。アクセルを床に踏みつけてる!」
 答えたものの、一分も走らないうちに、由起は泣き始めた。ステアリングを両手で握ったまま、肩を震わせて嗚咽している。
「泣くな。ぼくだって泣きたいんだ」
 彼女は黙って頷いた。速度メーターは、時速百マイルを越えた。しかし、それでも遅く感じられる。前方の白いヴァンは、弾丸よりも早く走っているみたいだ。
 彼はブレンテンのセフティを外すと、窓から身を乗り出してかまえた。吹きつける夜風が前髪を舞い上げる。眼鏡がすっ飛びそうになる。
 ヴァンは彼らが追ってくるとは思っていなかったのだろう、フィゲロア通りとの交差点の赤信号の手前で、ブレーキランプが赤く光るのが見えた。ラリーは両目をしっかり開けて、タイヤに狙いをつけた。
 もう不発の心配はない。
 次の瞬間、ヴァンのタイヤが悲鳴を放った。勢いよく赤信号の交差点に飛び出した。背後から追ってくる彼らのパトカーに気づいたのだ。
「くそったれ!」
 ラリーが叫んで、二発ぶっぱなした。交差点の真ん中で、ヴァンの後部に火花が飛んだ。
「揺れるわ。捉まってて!」由起が叫んだ。
 左右から交差点に入ってきた車の群れの間を、パトカーは大きく蛇行しながら擦り抜けた。両側から急ブレーキの音が聞え、発進しようとした自動車の群れが次々と追突を繰り返す。フレモント通りの交差点を黄色の信号で突っ切ると、やがてハーバー・フリーウェイの高架の下をすさまじい速度でくぐり抜けた。
 ラリーはもう一度、銃をかまえた。距離がかなり縮まっている。
「もうちょっとだ、追いつけ!」
「追いつくわ!」
 彼の銃が火を吹いた。三発。速射だ。
 ヴァンの右の後部タイヤが急激に形を崩し、同時に車はコントロールを失って尻を振った。紫煙が巻き上がり、急速にスピンを始めながら、ヴァンは対抗車線に飛び出していった。
 ちょうど向こうから走ってきた、巨大な十八輪トレーラーを引いたケンウォースのトラックの鼻面に、まともにぶち当たった。トラックはブレーキの軋みを響かせたが、フロントグリルにヴァンを張りつかせたまま、惰性で走り続け、やがて停まった。
 ラリーはパトカーの無線装置の横に隠されたボタンを押して、運転席と助手席の間に取りつけてある十二ゲージのショットガンを取り外した。車外に出て、ポンプを動かして散弾を装填した。
 由起もアスファルトに降り立った。
 急ブレーキでトレーラーのタイヤが路面との摩擦を起こし、辺りにはむっとするようなゴムが焼ける臭気が立ち込めていた。トラックのドアが開き、『GO WEST』とプリントしたTシャツを着た大柄の白人運転手が、唖然とした顔で路上に下りてきた。
 トラックの鼻面に張りついたヴァンは、空を向いたフロントフェンダーから憤然と音を立てて湯気を吹き出している。
 ラリーは由起を従えて、ゆっくりと近づいた。
 油断なくショットガンをかまえ、ヴァンの変形した運転席の窓をそっと覗き込むと、ハンドルと座席に挟みつけられている男がいた。彼は警官の制服を着ていて、胸についているバッジが街灯の下でむなしく光っていた。片手で持ったショットガンの銃口を向けたまま、もう一方の手で俯いた警官の顔を上げてみた。
「まさか……」
 無意識に言葉が彼の口を突いて出た。
 だが、どう疑おうと、現実は目の前にある。
 警官は日系人だ。何とか虫の息で生きていて、虚ろに開いた目でラリーを見ていた。鼻と口からポタポタと血の雫を落としている。
 今し方、乗ってきたパトカーを振り返る。車体に記された車両ナンバーは――五〇一三。さっきジェンキンズがいったとおりだった。
「ロディ」
 ラリーは狼狽えたまま、その警官の名を呼んだ。「なんで君が……」
「仕方なかった」ロディ・ムラカミは掠れ声でそういった。「えらく借金があってな。それを肩代わりしてもらったんだ。指示には逆らえなかった」
「ジェンキンズも死んだんだぞ」
「承知の上だ。だがな、この世界で何とか生き延びるには……なあ、わかるだろ?」
 ラリーは応えず、黙っていた。
 ロディは彼の目を見たまま、ひゅうっと音を立てて最後の息を吐き出して、それから永久に瞬きをすることをやめた。
 ラリーは肩を揺らして荒く呼吸をしていた。
 何かを叫びたい、だが、何を叫べばいいのか。ショットガンが無意識のうちに手を滑り、路上に落ちた。
「ロディは……。あいつは〈フローリアンズ〉の常連だった」
 ラリーは由起に向き直った。「ちくしょう。奴らはあの店を知っているんだ!」


       ☆

〈フローリアンズ〉の入口近くの、例の三年前に強盗によって開けられた弾痕が残っているガラス窓を通して、一台の車が店の前に停まるのが見えた。
 赤い車だ。と、俊介は気づいた。
 クライスラーの何といったっけ、ルボラン――いや、ルバロンだ。
 その瞬間、彼は思い出した。ラリーが電話で伝えたのだ。奴はパシフィックコースト・フリーウェイのどこかで日本人をふたり殺して、レンタカーを奪った。あの車だ。
「マギー、伏せろ!」
 彼が叫んだとき、クライスラーの運転席側のドアが開いて”ブラッディベア”ゴドノフが姿を現した。長い軍用コートの下から銃身を短く切り詰めたレミントンのショットガンを出すと、店の窓の向こうから派手にぶっぱなした。弾痕のあった窓は、今度は散弾をくらって粉々に吹っ飛んだ。
 板張りの床に押えつけた俊介の手の下で、マギー・エンジェルが悲鳴を上げた。
 ショットガンは立て続けに三度、轟音を放った。窓ガラスが次々と粉砕され、カウンターの奥のキャビネットに並んでいたウイスキーのボトル、グラス、氷鉢などがめちゃめちゃに壊れていく。テーブル席の客たちが必死に床に伏せている。カウンターにひとり座って、端然とバーボンと煙草を嗜んでいたいた黒髪の女も、今は散弾をくらわないよう這いつくばっていた。
 マギーがまた悲鳴を上げた。
 その口を押えながら、俊介は片手でショルダーホルスターの銃を抜き出した。
 ゴドノフはショットガンを放り出した。弾丸が尽きたようだ。
 ベルトに差していたでかいリヴォルヴァーを抜いた。俊介をねらって撃ったが、弾丸は外れた。
 彼はS&WM686を両手で握ってぶっ放した。
 ゴドノフのコートの胸の辺りが、パッと裂けたのが見えた。命中した。俊介はそう思った。
が、長身の殺し屋は背後によろめき、窓の向こうに見えなくなった。
 俊介はガラス窓のでかい穴から、外を見た。
 銃声とともに顔のすぐ横に着弾した。細かな木っ端が頬を切り裂いた。
 彼は窓の穴から銃を突き出し、三発撃った。店の外に転がるように出た。起き上がりざま、右膝をついて残りの三発をぶっぱなす。
 ふたたび外を覗くが、ゴドノフの姿がない。彼が倒れたはずの場所には血の痕もなかった。
 たしかに彼の最初の一発をまともに胸に受けたはずだったのに。
 空薬莢を叩き出してから新たな六発を装填し、彼は周囲を見回した。赤いクライスラー・ルバロンがすぐそこに見えた。
 防弾衣(ボディアーマー)を着用していたのだと気づいた。
 それにしてもおかしい。なぜ、彼はあっさりと撤退したのか。
 そう思って俊介は振り返った。
〈フローリアンズ〉の店内から洩れる明かりが、闇に滲んでみえた。

「大丈夫かね?」
 厨房から銃を持って出てきたジェフ・マツオカにびっくりして、マギーはまた小さく悲鳴を上げた。彼はあわててかぶりを振って、彼女に謝った。
「ほら、マスターのジェフだ。落ち着くんだ、マギー」
 悲鳴を中断した彼女は、目尻に涙をためて彼を見上げた。
 ジェフは優しく微笑みかけて、彼女の腕を取ってゆっくりと立ち上がらせた。それを合図にしたように、あちこちに伏せていた客が立ち上がり出した。壊れた窓ガラスやウイスキーのボトルを見回し、何が起こったかと不安げな表情を浮かべている。
 マギーをカウンターのストゥールに座らせてから、ジェフはもうひとりの女性客のところに行った。リヴリーヴルのジャケットの黒髪の女は、まだ床に突っ伏すように伏せている。彼女の肩にそっと手をかけて、ジェフ・マツオカはいった。
「お嬢さん。もう大丈夫だ。悪い奴は行ってしまったよ」
 女が顔を上げた。今まで銃弾に怯えて伏せていたとは思えない、無表情な顔でジェフを見上げた。そして銀色にメッキされた小さなオートマティックを、大切に抱えていたセカンドバッグから取り出して、手馴れた動作でセフティを外した。
 ジェフが後退ろうとした瞬間、銃声が轟き、・三二口径の弾丸が彼の胸を貫いた。ジェフは驚いた顔を凍りつかせたまま、床に尻餅を突き、横倒しに転がった。
 店内にいた客たちが、いっせいに悲鳴を放った。
 何人かが我先に、外へと逃れようと走り出した。
 マーガレット・エンジェルは、一瞬、何が起こったのかわからない。惚けた顔で、倒れたジェフを見つめていた。
 女が硝煙を洩らす拳銃を腰の辺りでかまえ、薄笑いを浮かべながら近づいてくるのを見たとき、マギーはようやくすべてを理解した。逃げるには遅すぎた。

〈フローリアンズ〉の店内で、銃声がした。
 二度。
 俊介は走った。
 店に飛び込む直前にドアが乱暴に開き、そこから押し合うように客たちが飛び出してきた。
 そのため、なかなか中に入ることができなかった。
 何とか店内に飛び込んだとき、すべては終わっていた。
 ふたりが血まみれになってフロアに転がっていた。マーガレット・エンジェルは頭を撃ち抜かれて、即死だった。虚ろに開いた目が、床に溜った自分の血の池を見つめている。
 ジェフはまだ生きていて、陸に上がった魚のように、苦しそうに口を開いたり閉じたりしながら天井を見ていた。その視界に俊介が入ってくると、無理に目の焦点を合わせようとしていた。
「しくじっちまった」ジェフは意外にしっかりした声で口を利いた。「せっかくここにいながら、彼女を守れなかった。おれは莫迦だ」
 俊介は首を振って、彼の前に座った。「あんたはよくやってくれた。感謝してる」
「撃ったのはあの女だ、シュンスケ。憶えているだろう? 髪の黒い……」
「カウンターのいちばん端に座ってた?」
「そうだ」
 店内を見回した。女の姿はない。
 阿鼻叫喚で外に飛び出した客たちにまぎれて、まんまと逃げたのだろう。
 俊介は悲しげな目で、ジェフを見下ろした。「ひどい目に遭わせて、すまない」
「いいんだ。おれとマギーの仇を討ってくれ」
「わかった」
「あの女を殺せるか」
「ああ。約束する」
「だが……お前は……」ジェフの声が急に掠れた。「女に優しすぎる」
 店のマスターはそれっきり、何もいわなくなった。
 俊介はジェフの瞼をそっと降ろしてから、上着を脱いで彼の顔にかけた。しばらく見下ろしていたが、やがて近くのストゥールに座り、カウンターに肘をついて両手で顔を覆った。
 店の電話が鳴り始めたが、俊介は反応しなかった。
 カウンターに向かって顔を覆ったまま、前髪を垂らして俯いていた。電話は二十回鳴ってから、忽然と沈黙した。店がふたたび静寂に閉ざされた頃、遠くパトカーのサイレンが聞え始めた。

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