文字数 13,426文字

〈パシフィックセントラル・ビルディング〉はリトル・トウキョウの外れ、二番街に面した場所に建っている。名前こそ立派だが、やけに古びた六階建のコンクリートの建物で、家賃の安い犬小屋並みの部屋が幾つか入ったアパートメントだ。
 ウェラーコートやジャパニーズヴィレッジのある辺りに住んでいた貧民層が再開発で追い出され、生活のために自分たちを追い出した企業に雇われて働いている、そんな人々が住む典型的なチープなアパートメントだ。
”ブラッディベア”ゴドノフは赤いクライスラーを降りると、ロングコートの肩に大きなゴルフバッグを背負ってその建物を見上げ、入口から入った。
 木造りの階段は、ステップを踏むたびにギシギシと音を立て、あちこちの部屋からは、子供の泣き声、テレビの音、猫の鳴き声、うんざりするような生活の音が聞えていた。
 最上階の六階まで登り切ると、屋上への出口の鉄扉に『立入禁止』の札がかかり、錆び付いた大きな南京錠がぶらさがっていた。
 彼はコートのポケットから万能鍵を取り出してあっさり解錠すると、鉄扉に両手をかけて強く押した。ギシリと音を立てて鉄粉を落としながら、赤錆びた扉がゆっくり向う側に開く。同時に眩しい日差しが目に飛び込んできた。
 屋上は意外に広く、コンクリートの床の上に大きな給水塔と、傾いたテレビアンテナがあり、それに二・五フィートの高さのコンクリの塀に四方を囲まれていた。
 ゴドノフは外に出ると、赤毛を風になびかせながら屋上を横切り、まず四方をたしかめた。東側にほぼ同じ高さの建物がある。ふたつの建物の壁はすれすれに接していて、その間は四フィート程度しかない。向こうにも屋上があり、飛び移るのはわけないことだ。
 次に彼はコンクリの塀の前に行き、ゴルフバッグを降ろしてファスナーを開いた。中からイギリスのBSA社のモデルCFボルトアクション式ライフル銃を取り出すと、右側についているボルトに手をかけて引いた。薬室を大きく開いて機関部を剥き出しにしてから、弾薬の箱をバッグから取り出した。弾丸は・四五八ウインチェスターマグナム。本来、象を倒すときに使うものだ。
 六発の弾丸を装填してからボルトを閉鎖すると、彼はコンクリの塀越しにかまえて、ステンレス製のスコープを覗き込んだ。ズームを三倍から九倍に徐々に近づけていくと、四百ヤード以上も離れている煉瓦造りの〈クリシュナ・ビルディング〉の五階の窓が、すぐ間近のように見える。


       ☆

 黒人はオフィスに入ると、ショットガンをかまえながら部屋の真ん中に歩いてきた。
 マホガニーの机の前から椅子を引っ張り出し、背凭れを前に左右の足の間に挟むようにして腰を降ろした、由起たち三人に窓際のソファに座るようにいった。
 怯えた顔のマギーが座ると、佳織がその隣に腰掛ける。最後に由起が座った。
 低いテーブルの下に、小さなマイナスドライヴァーが落ちているのに気づいた。
 ラリーだ。彼がここで銃の分解掃除をやっていたのを思い出した。きっと足元に落としたまま気づかなかったのだろう。
「じきに探偵の片われが帰ってくる。残念だが、あんたらはそれまで生きていられないんだ」
 黒人は懐からシガレットケースを取り出し、一本を口に突っ込んだ。真鍮の地肌が剥き出した使い古したジッポーで火を点けると、パチンとライターの蓋を閉じる。
「もうひとりの探偵が、先にあの世で待っているはずだ。シンゴ・カミムラといっしょに、おれの仲間が片付けたからな」
「おあいにくさま」と、由起がいった。「ふたりともちゃんと生きています。どうやら、死んだのはあなたの仲間のほうだったみたいね」
 黒人はほうと意外な顔をした。「しくじったわけか。まあ、いい。どっちみち、おれが殺りゃあいいわけだ。あるいは、あいつがな」
 由起は黙り込んだ。彼の言葉が引っかかったからだ。
 椅子の背凭れに片肘を載せ、三人の顔を、ひとりずつ品定めするように見ている。
「ブロンドがひとりに、東洋人がふたりか。おれの好みは、髪の長いあんたかな」
 黒人は由起を見ながら唇を歪めた。「可愛い顔に似合わず、あんたは度胸があるようだ」
「だから何なの」
「もったいないなあ。殺すなんて」
 煙草を吸い終ると、ていねいに机の上のアルミの灰皿で揉み消した。それからショットガンを左手に持ち、右手で懐の自動拳銃を抜き出した。シグ・ザウエルP230だった。
「だが、やはり死んでもらう。あんたみたいなきれいな女の顔を、散弾で吹き飛ばすのは流儀じゃないんだ。安心しろ、額の真ん中に九ミリの小さな穴が開くだけだ」
 右手でシグ・ザウエルをかまえ、銃口を向けた。
「ね、教えて。あなたたちを雇ったのは、誰なの?」と、由起がいった。
 彼は椅子からゆっくり立ち上がった。
 ソファの前に歩み寄り、靴底でテーブルを蹴飛ばすと、シグ・ザウエルの銃口を由起の頬に押しつけた。
「それを知ってどうなる。この期に及んで助かるとでも思っているのか?」
 すると彼女は、口元に笑窪を作りながらにっこりと笑った。「うん」
 同時に、足元に落ちていたマイナスドライヴァーを拾うと、それを素早く黒人の左太腿に突き刺した。
 黒人が目を丸くした。
 首をひねられた鶏のような声を出した殺し屋が内股になり、拳銃を落として足を押さえた。間髪容れず、由起は中腰に立ち上がり、鋭くスナップを利かせながら右のアッパーカットを相手の顎に見舞った。左手のショットガンが吹っ飛び、黒人が仰向けに倒れ込んだ。
 由起はとっさに、ショットガンに手を延ばそうとした。しかしわずかに早く、黒人が落ちていた拳銃に手を伸ばした。
「無駄なことを!」そういって彼はシグ・ザウエルの引鉄に指をかけた。
 轟音とともに銃が火を吹いた瞬間、由起は身を屈めていた。
 火線は彼女の頭の上、すれすれの空間を走り、長い黒髪が二、三本引きちぎれる。しかし由起は怖じることなく、ジーンズの脚を飛ばす。靴先が黒人の拳銃を蹴りあげた。
 シグ・ザウエルが回転しながら宙を舞い、ゴッホの複製画に小さな傷を穿って床に落下し、その下にある小さなヒヤシンスの花瓶を乗せたスティールラックの下に転がり込んだ。
 彼女はすかさず立ち上がり、床のショットガンを手にした。
 同時に黒人がマホガニーの机の向こうに飛び込んだ直後、由起が銃床を肩につけてぶっぱなした。机の一角がささくれ、無数の木っ端が吹っ飛んだ。すぐにポンプを引いて空薬莢を弾き出し、二発目をもう一度、机にぶち込んだ。
 だが次に引鉄を引くと、撃針が空の薬室を打つ音がした。
「逃げて!」
 ショットガンを放り出し、由起はふたりの女を出口に走らせた。
 続いて由起が外に出ようとすると、黒人が机の後ろから立ち上がった。
「莫迦め! 逃げられると思っているのか」
 彼は由起の後ろ姿に目をやったまま、左足に刺さったままのドライヴァーをひっこ抜いて、放り投げた。痛みに顔を歪ませながら、その場に屈み込むや、スティールラックの下に右手を入れたとたん、鋭い金属音がした。
 黒人はまた派手な悲鳴を上げて、右手をラックの下から抜き出した。その手の先に大きなネズミ取りが咬み付いていた。
 よりにもよって、強力なバネで仕掛けられていたものだ。
 利き手である右手の人差し指と中指が骨折し、変なほうに曲がっているのが見えた。
 彼はうめきながら何とかそれを外し、壁に向かって叩きつけた。


       ☆

 激痛とともに、ハリー・ナルティは意識を取り戻した。
 エレヴェーターの出口に仰向けに倒れていた。
 左の胸の上、肩のやや下の辺りに、真っ赤に焼けついた鉄串を刺し込まれたような痛みがある。そっと右手をやると、弾丸が入ったらしい場所の皮膚が盛り上がっていて熱を発していた。床にはおびただしい血の溜まりがあった。上半身を起こそうとすると、だしぬけに落雷に打たれたような激痛が全身を走った。
 ナルティはうめき、また壁にもたれた。
 肋骨が折れているらしい。昔、湾岸戦争のときに、これと同じ痛みを経験したことがある。
 いや。あのときよりもひどいようだ。
 ――ちくしょうめ。ショットガンなんかでおれを撃ちやがった。
 うめいて、ふたたび起き上がろうとし、やはりダウンする。
 脇の下にホルスターに収まったままの拳銃がある。右手をゆっくりと持っていき、そっと銃を抜いた。
 殺し屋が入ってきたのは、ビルの外側に取りつけられた非常階段からだ。その扉がまだ開けっ放しになっていて、青空の下に広がるLAの街が見えていた。
 オフィスの扉が乱暴に開いた。
 マギー・エンジェルともうひとり、日本人らしい女が飛び出してきた。それから、由起があわただしい様子で出てきた。エレヴェーターが一階に戻っていたため、ふたりは非常階段に向かった。が、由起は迷わずナルティに駆け寄った。
 彼が生きているのを見てホッとしたようだが、声をかける余裕もなかった。
 オフィスの扉がまた開き、長身の黒人が姿を現した。
 ナルティを撃ったショットガンは持っておらず、代わりに黒い拳銃を左手に握っている。
 しかめ面をしていると思ったら、ズボンの左足が、血に濡れて光っていた。それだけではない。右手も負傷しているらしく、指先があらぬ方に曲がっているのが見えた。
 だから拳銃を左手で持っているのだ。
「止まれ、女ども」
 黒人は非常階段のふたりを狙って撃った。弾丸は外れ、鉄扉に火花を散らしてから鋭い音とともに跳弾した。二発、三発と弾丸は外れた。ふたりはその機を逃さず、非常階段に消えた。
 殺し屋は舌打ちをして銃を由起に向けた。
 ナルティは拳銃を黒人に向けようと試みた。
 が、右腕は銃把を握ってはいるものの、それ以上のことをなそうとしない。痛みのせいで胸と腕の筋肉が硬直しているのだ。
 由起が走ってきて、ナルティをかばうようにしゃがみ込んだ。それから彼の拳銃を奪うように取った。それを黒人に向けようとしたとき、エレヴェーターがガタピシと音を立て始めた。
 黒人が振り返った。
 ナルティも見た。
 エレヴェーターが上昇している。誰かが下からやってくる。
 扉の上の数字のランプが1から順に点滅していく。
「来ないで!」ナルティの前にいる由起が叫んだ。「殺し屋がい――」
「黙れ、女!」
 黒人は由起に銃を向けた。
 その銃口を見て、由起の肩が震えた。ナルティも硬直した。
「おれにかまわず、逃げろ!」
 非常口を指差し、ナルティはそう叫んだ。だが、由起の耳には届かなかったようだ。
 数字のランプの光が、4から5に変わった。騒々しいモーターとケーブルの作動音が消えた。
 殺し屋は拳銃を扉に向け、立て続けに四発、ぶっ放した。耳をつんざく銃声とともに、錆び付いた鉄扉に四つの小さな孔が開いた。
 さらに四発をぶっぱなした。スライドが下がったまま停まった拳銃から、苦労して予備弾倉と交換すると、彼は錆び付いた格子の扉に手をかけ、それを勢いよく開いた。
 ナルティは驚いた。
 エレヴェーターの箱の中には誰もいない。
 壁に赤くスプレーされた文字が露骨に見えた。
 ――WOOOOOOOPS!
 殺し屋は背後を振り返った。
 そのとき、彼の右――扉が開けっ放しになっていた非常口から飛び込んできた成田俊介が、両手でかまえた・三五七マグナムを三発、立て続けに撃った。
 二発は外れたが、一発が黒人の左耳を吹っ飛ばし、彼はそこを手で押さえながら後ろに倒れ込んだ。
 ちょうどナルティと由起の前だった。
 黒人の殺し屋は身を起こした。左耳がなくなり、そこから血が流れていた。
 彼はすぐ傍にいる由起を血走った目で1見た。拳銃をズボンのベルトに差し込むと、由起の右腕を負傷した自分の右手で掴んだ。彼女を無理に立たせると羽交い締めにし、左手でシグ・ザウエルを抜いて頭に突きつけた。そのまま由起を引きずりながら、背後のオフィスに後退った。
 入口のガラス扉を開き、黒人は由起とともにオフィスに入った。
 俊介が油断なく拳銃をかまえながら歩いてきた。床に倒れたナルティを見下ろした。
「何をやってるんだ、探偵。彼女を人質にとられちまったぞ」
「何だって弾丸ってのは思ったとおりに命中しないんだ」
「相棒と違って、お前さんの腕が悪いだけだ」
 ナルティがそういった。
 わざとらしく片眉を吊り上げようとして果たせず、躰を曲げて咳き込んだ。


       ☆

〈クリシュナ・ビルディング〉の前で、ラリーはタクシーを降りた。
 ドアを開いて外に出たとき、階上で銃声がした。
 それも、数回。
 すぐにビルに飛び込もうとしたが、ハッと気づいてタクシーに折り返した。後部シートにはまだ神村慎吾がいて、胎児のように丸くなって眠りこけていた。ラリーは窓から運転手に札を十枚ばかり差し入れた。
「すまんが、彼を市警本部に連れていってやってくれ。強盗殺人課のフランク・ジェンキンズという刑事に引き渡してもらいたいんだ」
 無精髭の白人の運転手がいった。「旦那。厄介ごとは御免ですぜ」
「迷惑はかけない。頼む」
 彼は頷き、札を受け取った。
 タクシーが発進するや、ラリーは上着の下から拳銃を抜いた。ビルの側面にあるスティール製の錆び付いた非常階段に取りつき、ステップを駆けて登った。ジグザグに幾重にも折れ曲がりながら五階を目指すと、上からふたりが降りてきた。
 神村佳織が、マギー・エンジエルをかばうように抱き抱えていた。彼女はラリーの顔を見ると、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。背を丸めて掌で口を覆った。
「泣くのはあとだ」ラリーが叫ぶ。「どうなってる?」
「黒人の殺し屋にナルティさんが撃たれたわ。私たちは逃げたけど、由起さんがまだ降りてこないの」
「警察を呼んでくれ。あと、救急車も!」
 佳織の肩を叩いた。
 ふたたびステップを登り、五階に到着した。
 開けっ放しになっていた非常口の扉から、フロアに入った。
〈トラブル・コンサルタント〉のオフィスの入口を見た。バズーカを食らったように巨大な穴が開いたガラス扉。その横の壁に、ぴったりと肩をつけ、スナブノーズのステンレス拳銃を持った俊介が中腰になっていた。
 目を転じると、エレヴェーターの脇に、ナルティが倒れている。かすか肩が動いていた。
 ラリーは俊介の後ろにつき、銃口をめぐらせつつ周囲を見ながら訊いた。
「どうなってる?」
「ナルティはごらんの通り重傷だ。さらに悪いことに、オフィスで由起が人質になっている」
「彼女、怪我は?」
「今のところ、無傷のはずだ」彼は答えた。
「相手は?」
「シグ・ザウエルP230を持った黒人の殺し屋だ」
「ひとりか」
「ひとりだが凄腕だぜ」
「こっちだってプロだ」
 そういってラリーはブレンテンのセフティをオフにした。トリガーガードに人差し指をあてがって、下向きにかまえている。
「しかし、妙だな」ふと、俊介が眉を寄せて、いった。「どうしてまたオフィスに入ったんだろう」
 ラリーも奇異な顔になった。
「外に逃げる余裕がなかったのかな」
「凄腕にしちゃ、素人みたいじゃないか」
「とにかく、奴はオフィスにいる。突っ込むしかない」
「そうだな。やるしかない」
「もしも由起が殺されたりしたら――」
 ラリーはいったん口を噤んで、いった。「ぼくは泣く」
 俊介は片目を瞑った。「ようやく白状したな」
 ふたりはゆっくりと立ち上がった。両手で保持した銃を床に向け、巨大な穴の空いたガラス扉の両脇に立つ。
「入口が狭いから、ふたり同時はむりだ」俊介がいった。
「ぼくが先だ」と、ラリー。
「いいだろう。三つ数えてから突入だ」
 ラリーがうなずき、いった。「ワン、トゥー……!」
 数え終わらぬうちに、俊介が先に飛び込んだ。
「SHIT!」
 ラリーが続いた。

 オフィスの中には、誰もいないように見えた。
 ふたりが入ると、マホガニーの机の後ろに黒人が立ち上がった。由起を前に抱えたまま、彼女の脇の下から銃を出して二度、撃った。一発は俊介の頭を掠め、背後の壁の漆喰に食い込んだ。二発目はラリーを大きく外れ、天井板に孔を開ける。
「由起!」ラリーが叫んだ。
 彼女は必死に涙を堪えているようだったが、ふいに目尻からあふれたひと雫が、頬を伝った。大きな鳶色の瞳は、まっすぐラリーを見つめていた。
「お前らの秘書は、なかなかのやり手だぜ。おれより一枚上だって認めるよ」
 黒人がいって、由起の頭に銃口を突きつけた。そのまま窓際までゆっくりと後退った。「残念だが、ここで殺す」
「諦めろ。どっちみち、あんたの仕事は失敗なんだ」ラリーがいった。「慎吾は無事だし、彼を殺しにいったスキンヘッド野郎がどうなったか、いうまでもないだろう? あんたもプロなら、女を人質に取るような素人じみた真似はやめろ」
 黒人がふっと笑みを浮かべたそのとき、由起がいった。
「気をつけて。もうひとりいるっていってたわ」
「何……」
 ラリーは気づいた。そうだ。三人目がいる。
「罠だ!」
 横にいた俊介に飛びかかった。
 ふたりがもつれ合って床に倒れた瞬間、近くのガラス窓がぴしりとかすかな音を立てた。同時に何かが空気をえぐりながら飛び、壁が鈍い音を立てて揺れた。電灯のスイッチの横に莫迦でかい孔が開いていた。
 遅れて届いてきた銃声が、窓外のどこかで長く尾を引いた。
 二発目。さらに三発目が来た。
 いずれもふたりの至近を通過し、壁にめり込んだ。
 オフィスに埃が白く立ちこめている。
「狙撃か」俊介が伏せたまま、いった。「よく気づいたな」
「やっこさん。やけに窓際まで後退するから、妙に思ったんだ」
「おかげで助かった」
 俊介が笑った瞬間、今度は由起の後ろにいた殺し屋のシグ・ザウエルが火を吹いた。数発の九ミリ弾がカーペットに食い込んだ。とっさにふたりは左右にわかれて伏射の姿勢を取った。
 窓の外には気をつけねばならない。
 今は死角にいるが、うかつに身をさらせば、たちまち狙撃の餌食となる。
「由起、ラリーのことを信じられるな?」と、俊介が日本語で声をかけた。
 彼女は涙目で頷いた。
「ラリーがそいつの顔を狙う。合図したら、思い切り頭を下げるんだ。できるな?」
 由起がまた頷いた。
「YOU――!」黒人が目を剥いて、叫んだ。
 ラリーが左膝を立て、銃を左肩に引きつけるように両手でかまえた。ステンレス製の大型自動拳銃と目の高さが一直線になっている。
「今だ!」
 ラリーの声とともに、彼女が頭を下げた。
 黒人が焦ってシグ・ザウエルを向けようとする直前、ブレンテンが轟音とともに火を吹いた。黒人の残された右耳が吹っ飛んだ。彼は由起の躰を離し、背中から背後のガラスにぶち当たった。
 とっさに由起が床に身を投げ出すように伏せた。
 ラリーは姿勢を変えず、すさまじい速度で残り九発の弾丸を発射した。そのほとんどが黒人の胸と腹に命中したのだろう、弾丸が突き抜けた背中から鮮血を霧のようにしぶかせた。大きくのけぞった黒人は、弾痕だらけのガラスを後頭部と背中でぶち破って、ヴェランダに転げ出してしまった。
 ラリーはスライドが後退して止まった銃をかまえたまま、空の弾倉を落とし、ほとんど同時に腰のパウチから抜いた予備弾倉を銃把に叩き込んで、スライドを戻した。窓の外に転がる黒人の死体を見ていたが、やがて引鉄から人差し指を離して、ふうと溜息を吐き出し、カーペットに両手をついた。
 俊介が由起が伏せた場所まで這っていく。「大丈夫か?」
「ええ」彼女は指先で涙を拭ってから窓外を指差した。「でも、もうひとりがどこかから……」
「わかってる」俊介が答えた。
 彼が少し前に這って進んだとき、また別の窓がピシッと音を立て、稲妻のように縦にひび割れを走らせた。俊介の肩を掠めて飛んだ銃弾が、プラスティックのゴミ箱を貫通し、壁にめり込んだ。
 直後に銃声が聞えた。コンクリの壁に大きな亀裂が走っていた。
「由起、しっかり伏せてろ。ビッグゲーム・ハンティング用の大口径ライフルだ。おれたちを象と間違えているらしい」
 そういった俊介のスーツの左肩が裂け、そこから血が滲み出していた。
 彼は慎重に窓際まで這っていき、金具を回してブラインドを降ろし始めた。全部の窓にブラインドがかかった時点で、俊介がうなずく。
 由起がふたりのほうに這ってきた。狙撃の死角に入った時点で素早く立ち上がり、長い黒髪を揺らして出口に向かった。
 ラリーが匍匐前進で部屋の端のロッカーまで行き、扉を開けた。
 中に立ててあったミニ14を取り出した。
 スタームルガー社のオートマティックライフルで、口径・二二三レミントン。お情け程度の代物ではあるが三倍固定の望遠スコープが取りつけてある。それを持って窓際まで匍匐前進し、彼は黒人がぶち破ったガラスの大きな穴から、そっと銃身を突き出した。
「ラリー?」俊介がいった。「お前……まさか?」
 スコープを覗き込みながら、彼が答えた。「当然、撃ち返す」
「こんな町中で、ライフルで撃ち合う気か」
「いた」
 真正面にあるビルの屋上に、芥子粒のように小さな人影を見つけた。
 たしかあそこは〈パシフィック・セントラル・ビル〉だ。
 引鉄に指をかけた。とたんに、その人影の真ん中辺りで何かが光った。
 パシンと音がしてガラスが小さく壊れたとき、ラリーは床に頬をつけていた。
 銃声。それから、かすかな音を立ててガラス片が降ってくる。
「大丈夫か?」俊介が訊いた。
「ああ」と、ラリーが答えた。
「どこからだ?」
「〈パシフィック・セントラル・ビル〉の屋上からだ」
「たまげた。あのオンボロのアパートメントか? 四百ヤードも先だぞ」
「こんな銃じゃ、とてもかなわない」
 そういってラリーがライフルを床に放り出した。
「たぶん、車のナンバープレートを撃ちやがった野郎だ」俊介がいった。

 ラリーたちがオフィスから出ると、ナルティはまた意識を取り戻していた。
 由起が彼の前に座り、ハンカチで額を拭いている。肩近くの銃創に押し当てた彼女の手が血まみれだった。
「巡査部長は?」と、俊介。
「大丈夫。大きな血管が破断していないから。このまま圧迫止血を続けるわ。でも、早く救急搬送しないと」
「今、救急車を呼んだ。すぐにここに来るよ」と、ラリーがいった。
「そっちの首尾はどうだ?」ナルティが探偵たちに訊いた。老人のようにしゃがれた声だった。
「あんたを撃った奴はやっつけた。あとひとり、外にいるんだ」
 俊介がリヴォルヴァーの銃口を上に向けたかたちで、アップサイドダウンのショルダーホルスターに差し込みながら、そう答えた。
「ナルティ。あんたはきっと助かるよ」
「ありがとう、ラリー」
「由起。頼んだよ」
 そういってラリーは傍に落ちていたナルティの警察バッジを拾い、相棒といっしょにエレヴェーターに乗り込んだ。扉が閉まる直前、彼はナルティの傍についている由起を見つめた。彼女は今にも泣き出しそうな大きな瞳で、ラリーをじっと見つめていた。

〈パシフィック・セントラル・ビルディング〉に入ると、階段の下に住民らしい数人の日系人が集まっていた。不安そうな顔が並んでいる。屋上の銃声を聞いたためらしい。
 ふたりは彼らの間を通り、階段を上っていく。
 一気に最上階に到達すると、さすがに息が切れた。ふたりは膝に両手を突きながら、荒く呼吸をくり返した。それから暗くて狭い通路を歩く。
 屋上に出る鉄扉の前に人影を見つけ、まずラリーが、続いて俊介が銃を抜いた。
「警察だ!」ラリーが銃を向け、もう一方の手でナルティのバッジをかまえた。
 あわてて両手を上げたのは、青い浴衣を着た老婆だった。腰を抜かしそうになって、ふらりとよろめいたところを、すかさず俊介が走っていって彼女の躰を支えた。
「失礼。LAPDです」彼は優しく声をかけた。「怪しい奴を見ませんでしたか?」
「外の……お、おくじょうに誰かが……」日本語で答え、彼女は震える指先を鉄扉に向けた。
 その鉄扉には、『立入禁止』の札がかかっていたが、南京錠が外されていた。わずかに開いた扉の隙間から、外の陽光が差し込んでくる。
 ここを抜けたとたん、待ち伏せを食らうのは目に見えていた。
「他に屋上に出る方法はありますか?」ラリーが日本語で訊いた。
「あたしの部屋の窓から行けるよ」老婆が答える。
「あなたの部屋?」と、俊介。
「壁に梯子が取り付けてあるんだよ」
「なるほど」と、ラリーがいい、相棒と目を合わせた。
 彼女の部屋番号を訊いた。ドアは施錠されておらず、他に住人もいないという。ビルの外に避難するようにいい、彼らは走った。
 ――六〇六号室。
 ふたりはそう記された扉の前で銃を抜き、部屋に入った。
 狭いキッチンを通り抜けて居間に入ると、大きなラッタンチェアの向こうに、ヴェランダに出るアルミサッシの扉があった。ガラス窓に一匹の大きな青蝿がとまっていた。
 ヴェランダに出た。風がラリーのブロンドヘアを乱した。
 老婆のいったとおり、屋上に上れる鉄梯子が壁に沿って取りつけられている。
「上の男、ナルティがいった”ブロンディベア”とかいう奴かな」ラリーが訊いた。
「”ブラッディベア”だ」と、俊介。
「本名はクリスチャン・ウォルター・ゴドノフ。元ネイビーシールズの特殊部隊隊員で、中東ではゲリラ狩りのプロだった。戦後はCIAに雇われ、ヨーロッパや第三世界で要人の暗殺を専門にやってきた」
「そんな男と撃ち合うわけだ」
「仕事だからな。俺たちだってプロだ」
 ラリーがわざとらしく肩をすくめて見せた。
 梯子の上を見上げ、俊介がいった。
「へたすりゃ、狙い撃ちだな。どっちが先に登る?」
 屋上までは十フィート。だが、眼下は六階ぶんの高さ、かなり下に道路が見える。
 ラリーは上着の胸ポケットからクォーター銀貨を出して、宙に放り、受け止めた。
「今度はぼくが決める」
「いいさ」俊介が頷く。
「表だ」そういってラリーが手を開いた。だが、掌に乗っていたのは、鷲の絵柄だ。
「WOOPS!」俊介がふざけていった。「どうぞ、お先に」
 仕方なくラリーは鉄梯子に足を乗せ、屋上を目指し始めた。
 その真下で、俊介がリヴォルヴァーを上に向けてかまえた。
 屋上に気配があれば、すかさずぶっぱなさなければならない。さもないと、ラリーは額を撃ち抜かれ、彼の死体は遥か下に見える道路に真っ逆さまに落下していくだろう。
 ラリーは無事に屋上に取り付いた。
「どうだ?」俊介が声をかけたとき、銃声がした。相棒の傍のコンクリが、小さな爆発を起こしたようにぱっと砕けた。
「ラリー!」
「大丈夫だ。奴はポンプ室の後ろから撃ってくるんだ」彼がいった。「俊介。さっきの屋上への出口に行ってくれ。挟み撃ちにしよう」
 俊介は了解して、ヴェランダを走り、ふたたび居間に飛び込んだ。
 外の通路に飛び出すと、走った。屋上への扉の前で、老婆はまだ案山子のようにぼんやりと立ち尽くしていた。
「お婆さん。ここは危ないから、外に避難するか、自分の部屋に入っていて下さい」
 指示してから、俊介は銃をかまえ、そっと扉を開く。
 銃声はまだ派手に轟いていて、ラリーと相手が撃ち合っているのがわかった。出入口に伏せるようにして、扉の隙間からそっと覗くと、給水ポンプの傍に彼がいた。
 思った通り、後ろ姿である。
 見事な赤毛の男だった。モスグリーンのコート姿だ。
 弾丸を使い切ったのか、ライフルはコンクリの床に置いてあった。代わりに銃身の長いリヴォルヴァーを握って、ポンプの横から右手を突き出してかまえている。
 俊介は慎重に狙い、二発撃った。一発はゴドノフの脇の鉄柱に、もう一発はどこにも当たらず、虚空に消えていった。
 赤毛の殺し屋はとっさにコンクリの床に身を投げて、そのまま莫迦でかいポンプの陰に隠れた。ラリーと俊介、ふたりの位置からは、ちょうど死角になる場所だ。
 ――何やってんだ。作戦が台無しじゃないか。
 ラリーが遠くから叫んだ。
「悪い。銃は苦手なんだ」手早く弾丸を装填しながら、俊介が謝った。「だが、時間の問題だ。じきにパトカーがうじゃうじゃと集まってくる。そうなりゃ、さすがのランボー野郎だって――」
 敵が二発、撃ってきて、そのうちの一発が俊介の左耳を掠めていった。一瞬、空気が個体のように感じられた。衝撃波が彼の鼓膜を直撃し、ひどい耳鳴りが始まった。
「SHIT!」
 俊介は叫んで銃を突き出し、二発を撃ち返した。ゴドノフが身を隠しているポンプが、二回、派手な火花を散らした。
「見たかよ、ラリー! 今のはけっこう至近距離だぜ」
 ――当たらなきゃ意味がない!
 ラリーの声が、また屋上を渡ってきた。
「そりゃそうだな」と、独りごちた。
 ――パトカーが来るまで、待ってられない。こっちはさっきから鉄梯子に掴まりっぱなしで手がしびれている。だいいちぼくは――
 真下を向いたらしく、声が一瞬こもった。
 ――高所恐怖症なんだよ。
「我慢しろ!」俊介がまた二発撃った。今度は前よりも大きく外れた。
「くそったれ! どうにも当たらん」
 輪胴を振り出すと、エジェクターを乱暴に叩いて空薬莢をはじき出した。弾丸を交換しながら俊介が叫んだ。
「ラリー? 落ちたのか?」
 返事があった。
 ――まだ、いるよ。だけど、もう限界だ。
「限界って、まさか、おま――」
 いいかけたとたん、向こうの手摺にラリーが這い上るのが見えた。
 屋上のコンクリの床に降り立つや、身を低くして顔の前でかまえたオートマティックを、マシンガン並みの速度で連射した。給水ポンプや手摺に着弾し、火花が飛び散り、コンクリの破片が四散した。
 さすがにたまらなくなったのか、”ブラッディベア”ゴドノフが遮蔽物から飛び出してきた。片手で握った銃をまっすぐに突き出し、立て続けに撃った。銃声が三度、轟いた。
 ラリーが弾倉を取り替え、ふたたび連射しながら、大声で俊介を呼んだ。
 呼ばれた俊介は、思い切って一気に屋上に飛び出した。
 そのままゴドノフを狙って六発全弾をぶっぱなす。殺し屋はひどくあわてて、振り返りながら俊介に向けてまた撃った。その弾丸は鋭い音を立てて空気をえぐりながら、背後の虚空に吸い込まれていった。
 それが、ゴドノフの最後の弾丸だった。
 殺し屋は弾倉を振り出して空薬莢を掌で叩き落とし、予備の弾丸を装填し始めた。
 俊介が大声でラリーの名を叫んだ。
 むろん彼は、自分に回ってきた好機を逃す男ではない。
 両手でブレンテンをかまえざま、弾丸を装填している”ブラッディベア”を狙って引鉄を絞った。
 次の瞬間、ゴドノフは血しぶきを上げて倒れるはずだった。
 しかし、代わりに寂莫を破ったのは、ラリーの銃の撃鉄が落ちる、カチッという金属音だ。彼は舌打ちをし、もう一度――今度はダブルアクションで引鉄を引いた。同じ音が耳朶を打った。
 俊介があんぐりと口を開けて、相棒を見つめた。
 ”ブラッディベア”ゴドノフがゆっくりと立ち上がり、数歩、後退ってからニヤリと笑った。
 右手のリヴォルヴァーはリロードが完了していたはずだが、茫然と立ちすくむラリーと俊介にかまわず、素早く身をひるがえした。
 コンクリの手摺に足をかけざま、一気に約四フィート先の隣のビルの屋上に飛び移り、そこを突っ切ってから、階下に降りる扉を開いて、姿を消した。
 あっという間のことだった。
 俊介が力なくうなだれ、ゆっくりと歩き、屋上を横切った。
 ラリーのいる場所まで行くと、足を停めた。
「いったいそれ、どうなってるんだ?」
 ラリーはその場に胡座をかいて座っていた。しばらく自分の拳銃の撃鉄を起こしては、引鉄を引いたが、やがて諦めたのだろう。悲しげな顔で俊介の顔を見上げた。
「どうやら、極め付きの貧乏クジを引いたみたいだ」
 スライドを後退させる。排莢口を塞ぐようにして、薬室の弾丸を抜き取った。掌に転がる弾丸を見た。雷管をピンで打った痕が見当たらなかった。
「不発(ミスファイア)じゃない。銃の故障だ」
 遠くにパトカーのサイレンが聞え始めた。いくつも重なり合っている。
「よりにもよって、こんなときに」
 ラリーが茫然とつぶやいた。
 俊介が吐息を投げた。「なあ。前々からいいたかったが、なんでそんなマニアックなオートマティックなんか使うんだ? どうせオートなら、高性能なグロックにしろ」
「グロックは嫌いだ。趣味じゃない」
「趣味で撃ち合いするなよ」
 そういって俊介がうなだれた。

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