序章
文字数 1,455文字
カーボンキャニオンの高台から吹き下ろす夜風が、夕刻まで街を覆っていた雨雲をすっかり吹き飛ばした。
先ほどまで、今時季のロサンジェルスには珍しく篠つく雨が降っていて、五十七号線を疾走する車の群れは、シュウシュウと音を立てながらアスファルトに溜まった泥水を巻き上げていた。夜の帳が降りると同時に雨は嘘のように止み、ハイウェイを飛ばすドライヴァーたちはいっせいにワイパーを切り、代わりにヘッドライトのスイッチを入れた。
その男は眠っているとも覚醒しているともおぼつかない状態で、車のウインドウに額をつけてかすかな揺れに身を任せていた。対抗車線を走る車の無数のヘッドライトが、窓についた水滴のおかげで、複雑な光条を不規則に回転させながら、後方にすっ飛んでいた。
躰の節々に鈍痛があったが、どうして痛いのか思い出せない。
痛みよりももっと別のことを考える必要があるはずだが、何を考えるべきなのだろうか。ひどい宿酔のように、血管の中を血とは別のものが流れているような気がした。
窓外を流れていく光の行列を眺めているうちに、子供の時分、遊びに行ったどこかの遊園地を思い出し、不思議と幸せな気分になってきた。
急激なGに躰が揺れた。
車が停まったことに気づいた。
誰かが車外から彼を引っ張り、誰かが車内から押し出した。頬を撫でる夜風の冷たさが、ほんの一瞬の間だけ、男に正気を取り戻させた。
歩道の脇に立つ水銀灯の青白い輝きに、ふたりの男の姿がシルエットになって見えた。ひとりが彼の顔を覗き込み、ニヤニヤと笑った。
「ひでえ一日だった。早いとこ、こいつを片付けちまおう」
「こないだ二番街の角に、しゃれたバーができたんだ。あとで一杯、引っかけにいこうぜ」
片付ける? 片付けるっていうのは、どういう意味だ。
ふたたびぼんやりと霧のかかった意識の底で、彼は考えた。こいつらは、まるでマネキンでも扱うようにおれを抱えて、どこかへ持っていこうとしている。こんなフリーウェイのど真ん中で?
突然、縁石にけつまずいて俯せに倒れた。
舗道に溜まった泥水に突っ伏し、その冷たさのおかげでまた我に返った。
さっきから近くで車の音がしていないことに気づく。目の前にあるはずのガードレールがなく、代わりに剥き出しになった鉄骨が雨に濡れ、水銀灯の明かりに光っていた。鉄骨の先に、遥か下を走る車道を流れる光の洪水があった。
五十七号線を横切る建設途中の高架の上だった。二年後に完成するはずの、新しい幹線道路だ。何とかっていう名前の議員が、どこかに融資して作らせているとか、そんな話を聞いたことがあった。
風が下方から吹き上げてきた。あおられて、前髪が乱れた。
「しっかりしなよ、相棒」
ふたり組の片方が右手を肩にまわして引き起こそうとしたとき、彼は爆発的な恐怖にとらわれた。アドレナリンが分泌され、足の筋肉が無意識のうちに力を解放していた。声をかけた男の股間を蹴飛ばし、同時に逃げようとした。
だが、足に力が入らなかった。三歩も足を進めないうちに、あらぬほうに躰が傾き、どっちが上か下かもわからなくなった。背後に誰かの笑い声がしたと思った瞬間、遠くに見える街の光がくるりと反転した。
街の光――実際、それはやけにきれいに見えた。毒々しいまでの艶色に彩られる街の輝き。ロサンジェルスの美しい夜景。大小無数の宝石を散りばめた、虚栄と実利の街。名誉と栄光を金で築き上げようとした、偉大なるアメリカの夢がそこにあった。
先ほどまで、今時季のロサンジェルスには珍しく篠つく雨が降っていて、五十七号線を疾走する車の群れは、シュウシュウと音を立てながらアスファルトに溜まった泥水を巻き上げていた。夜の帳が降りると同時に雨は嘘のように止み、ハイウェイを飛ばすドライヴァーたちはいっせいにワイパーを切り、代わりにヘッドライトのスイッチを入れた。
その男は眠っているとも覚醒しているともおぼつかない状態で、車のウインドウに額をつけてかすかな揺れに身を任せていた。対抗車線を走る車の無数のヘッドライトが、窓についた水滴のおかげで、複雑な光条を不規則に回転させながら、後方にすっ飛んでいた。
躰の節々に鈍痛があったが、どうして痛いのか思い出せない。
痛みよりももっと別のことを考える必要があるはずだが、何を考えるべきなのだろうか。ひどい宿酔のように、血管の中を血とは別のものが流れているような気がした。
窓外を流れていく光の行列を眺めているうちに、子供の時分、遊びに行ったどこかの遊園地を思い出し、不思議と幸せな気分になってきた。
急激なGに躰が揺れた。
車が停まったことに気づいた。
誰かが車外から彼を引っ張り、誰かが車内から押し出した。頬を撫でる夜風の冷たさが、ほんの一瞬の間だけ、男に正気を取り戻させた。
歩道の脇に立つ水銀灯の青白い輝きに、ふたりの男の姿がシルエットになって見えた。ひとりが彼の顔を覗き込み、ニヤニヤと笑った。
「ひでえ一日だった。早いとこ、こいつを片付けちまおう」
「こないだ二番街の角に、しゃれたバーができたんだ。あとで一杯、引っかけにいこうぜ」
片付ける? 片付けるっていうのは、どういう意味だ。
ふたたびぼんやりと霧のかかった意識の底で、彼は考えた。こいつらは、まるでマネキンでも扱うようにおれを抱えて、どこかへ持っていこうとしている。こんなフリーウェイのど真ん中で?
突然、縁石にけつまずいて俯せに倒れた。
舗道に溜まった泥水に突っ伏し、その冷たさのおかげでまた我に返った。
さっきから近くで車の音がしていないことに気づく。目の前にあるはずのガードレールがなく、代わりに剥き出しになった鉄骨が雨に濡れ、水銀灯の明かりに光っていた。鉄骨の先に、遥か下を走る車道を流れる光の洪水があった。
五十七号線を横切る建設途中の高架の上だった。二年後に完成するはずの、新しい幹線道路だ。何とかっていう名前の議員が、どこかに融資して作らせているとか、そんな話を聞いたことがあった。
風が下方から吹き上げてきた。あおられて、前髪が乱れた。
「しっかりしなよ、相棒」
ふたり組の片方が右手を肩にまわして引き起こそうとしたとき、彼は爆発的な恐怖にとらわれた。アドレナリンが分泌され、足の筋肉が無意識のうちに力を解放していた。声をかけた男の股間を蹴飛ばし、同時に逃げようとした。
だが、足に力が入らなかった。三歩も足を進めないうちに、あらぬほうに躰が傾き、どっちが上か下かもわからなくなった。背後に誰かの笑い声がしたと思った瞬間、遠くに見える街の光がくるりと反転した。
街の光――実際、それはやけにきれいに見えた。毒々しいまでの艶色に彩られる街の輝き。ロサンジェルスの美しい夜景。大小無数の宝石を散りばめた、虚栄と実利の街。名誉と栄光を金で築き上げようとした、偉大なるアメリカの夢がそこにあった。