第五章

文字数 3,928文字

 暗い夜道を軽自動車は走っている。道路が整備されたおかげで、伊賀の北部へもずいぶん行きやすくなった。かつてはそびえ立つ山々や深い渓谷が行く手をさえぎり、陸路を行くのは大変な危険を伴った。だからこそ伊賀は忍びの地と呼ばれて、長い間、隠されてきたのだ。
 道の両側には、霧に包まれた森が見渡すかぎりある。ときどき小さな池や沼が姿を現すが、他は深く生い茂っている森だ。
 「よろしかったらどうぞ」
 彼女は手拭いで包んだ箱を取りだし、私に手渡してきた。
 「これは!」
 受け取って風呂敷を解いた私は絶句した。
 「どうしたんですか、霜村さん」
 「いや、隼人、見てくれ、美味しそうな弁当だ」
 それを聞いて後部座席で彼が喜ぶ。弁当の中にはおにぎりだけでなく、ウインナーと卵焼きが入っている。
 彼女は恥ずかしそうに言った。
 「スクープを追いかけて外を飛び回っていると、食事をとれないことが多くて、それでいつも簡単に食べられるものを持ち歩いてるんです。どうか私を食いしんぼうな女だと思わないでくださいね」
 彼は嬉しそうに叫ぶ。
 「いいじゃないですか!大食いの女性、僕は大好きです!」
 「だから隼人、鈴さんは食いしんぼうな訳ではないって言ってるじゃないか」
 私は彼をたしなめた。
 彼女はそれを見てくすっと笑って言った。
 「いえ、やっぱり食いしんぼうかも知れません。私も食べることは大好きですから」
 「ほら、そうじゃないですか」
 彼が得意気に言う。
 「そんなことよりも、どうぞお二人で遠慮なく召し上がってください」
 「では、遠慮なくいただきます!」
 彼はすかさずおにぎりに手を伸ばす。
 「うまいっ」
 一口かじって叫ぶ。
 「いやあ、ほんとにうまいです!中身は嬉しき焼きたらこ、これぞ伊賀の味、我が家のおにぎりを思い出します」
 あまりのはしゃぎように、私も、そして彼女も吹き出し、やがて車内は笑いに包まれた。
 「な、なんですか?なんか僕、変なこと言いました?」
 彼はきょとんとして、私や彼女の顔を覗き込む。彼女はなおも笑いながら言う。
 「いいえ。でも、すごく面白い方だなと思って」
 「え、そうですか。ありがとうございます。どうしよう霜村さん、褒められてしまいましたよ」
 「ああ、そうか、だがそれは残念ながら褒められてるというのとは、ちょっと違うと思うけどな」
 それからも彼はうきうきして冗談ばかり言っていた。楽しげな人がいると、その空気はこちらにも伝染するものだ。
 私もおにぎりとウインナーをいただき、いい具合にお腹がふくれた。
 少し眠くなってしまったので、うとうとしていると彼女が話しかけてきた。
 「すこし、お聞きしたいことがあるのですが、よろしいですか」
 「ああ、別にいいけど」
 「お二人は付き合っているんですか」
 「は?」
私の眠気が吹き飛び、時間が静止した。五分ほど口を開けていたように感じたが、本当は五秒ほどだろう。
「な、な、な、何を言ってるんだ、お前は!」
「ずっと一緒におられたので、そういう関係かと。違うんですか」
 私は慌てて手を振る。
「ち、違うぞ!そういう関係ではない、断じて!」
そういった私の顔はゆでダコもまだ安心するんじゃないかと思うほど真っ赤になっている。
 彼の方を見ると、彼も私と同じく顔を赤く染めて下を向いている。
「そうですか、ならまだ私にもチャンスはありますね」
彼女は私の方を向いてにこりと微笑んだ。
 私は気まずくなり、窓の外を見た。
 心臓の鼓動が、今まで感じたことがないぐらいに早くなっている。
 彼が、話題を変えようとしたのか、大きな声で言った。
 「知ってますか。これから行く青山町の森の奥には不法地帯があるんですよ」
 「不法地帯?」
 私も、話題を変えたかったのと、そのいかにも秘密がありそうな響きに目を輝かせた。興味津々で続きを聞きたそうな顔をしている私に、彼は苦笑いしながら、青山町のことを話してくれた。
 「青山町は、昔から森しかないとみんなに思われてきたんですけど、本当は違うんです。本当は汚れきった地上の上に森を作り、地上部分をすべて木で見えないようにしてしまったんですよ」
 「なに、そんなことが!そんなところに住んでいたら病気になってしまうぞ!」
 彼は溜め息をついて言った。
 「汚い部分はすべて木で隠してしまおうということですね。都合の悪いことには蓋をしてしまえという偽善者の考え方ですよ。それでも貧困から抜け出せない人たちは地下にすむ以外になく、病気が蔓延し、犯罪者がなだれ込むようになりました。結果的に青山町の森の奥は、病気と犯罪の温床になったんです」
 悪と闇を木で隠してしまった町。
 話を聞いているだけで、重苦しい気分になってきた。
 そんなことを話しているうちに、車が止まった。
 私は車を降りて、辺りを見渡した。
 小高い丘の上には立派な家があるが、それ以外はなだらかに続く裾野まで、背の高い木が生え、森しかないように見える。
 ここが青山町。
 闇と悪を木で隠した町。
 だがそれは、私が想像していたのとはまるで違っていた。
 空気は綺麗で自然も豊かだ。この奥に、不法地帯があるなんて想像できないほどに。
 彼は丘の上を指差して言った。
 「あの丘の上にたつ家こそが、この町の支配者、神木一族の家ですよ」
 「なんだって!」
 私は叫ぶ。
 貧困と汚物を木で隠し、森の街を造り上げた支配者。
 まさかそれが神木一族だったとは。
 私は言葉を失い、呆然と家を眺めていた。
 
 その後、私たちは青山町に足を踏み入れた。青山町は隅々まで坂道の巡らされた町だった。
 坂道は上の町へ、あるいは森の貧民街へと続く。上には整備された美しい町が広がり、森には犯罪者が横行する汚れた闇の森が広がっている。
 この光と闇の町を造り上げたのが神木一族だったとは。失踪した神木さんも、故郷が青山町だと言っていたことから見て、この一族と無関係ではないだろう。
 いったいどういう人なのだろう、神木という人は。幻の『科学の真髄』に命を懸けている彼は、神木一族の中でどんな位置にいるのだろう。
 そして彼は、この町の現状をどう思っているのだろう。本のために全財産や命すら失ってもいいという豪快さと、この町の陰湿さはどうにもそぐわない。
 足がだるいのをこらえて坂道を上っても、目の前には森しか広がらず、そろそろこの町に嫌気がさしてきそうになっていたときに町の一角に旅館を見つけた。
 外観も蔦などが張り付いている廃墟のようなものではなく綺麗で、内装も品がいい。ここなら安心して一息つけそうだ。
 私がフロントで交渉して、部屋をとっていると、彼はロビーのソファに勢いよく座り、体をバウンドさせている。彼女は彼をたしなめつつ、彼の前の椅子にゆっくり座った。
 年格好からすると二人はお似合いなのではないかと思うが、彼はあの通りの変人だ。彼女に彼の変人なところを好くことが果たしてできるだろうか。
 そんなことをあれこれ考えていたら、フロントのスタッフから、
 「あの、こちら、部屋の鍵でございます。お客さま?」
 と言われ、我に帰った。
 彼に部屋の鍵を渡そうと、ロビーに向かったとき、すぐ近くから聞き覚えのある声がした。
 威張り口調で、特徴的なハスキーボイス。私はとっさにある人物の顔を思い浮かべてぎょっとしたが、すぐに考え直した。まさか、あいつがこんなところにいるはずがない。
 幻聴が聞こえるほどに嫌いだったとは、我ながらショックだ。京都府警察の威を借りた態度によほどうんざりしていたのか。よくよく考えればあの人にも優しいところがあったと思うが、あの威張り口調が私はどうしても気に食わず、すべてを帳消しにする。
 それにしても似ている。
 そう思いながら声のする方に顔を向けると、そこにはなんとあいつがいた。
 「ま、まさか!」
 私は叫びそうになったが、慌てて口を押さえ、足音を忍ばせて二階まで階段を駆け上がり、鍵を開け、部屋の中に入った。
 後ろからついてきた彼等が、怪訝そうに聞いてきた。
 「どうしたんですか、霜村さん。そんなに慌てて、らしくないですよ」
 私は呼吸を整えて、彼等に言った。
 「実は、私の父親がいる」
 「政義警部が、ですか?」
 彼も驚いたように目をみはる。
 「嘘だと思うなら見に行くか?」
 「私もついていっていいですか?スクープチャンスの気がします」
 私たちは、廊下を走り、抜き足差し足で階段を降りる。そして、階段の途中から頭を出して下を覗いた。
 「どの人ですか、霜村所長のお父さんって」
 「あいつだ」
 私が指を指した先には、がっしりとした体格の男が、人差し指を立ててベルボーイに文句をつけている。白くてかっちりとしたあご髭を生やし、肩をいからせている。
 「間違いなく、政義警部ですね。後ろには竹田さんもいます」
 あいつの後には、いつも行動をともにしている同じ警部の竹田さんが控えている。
 あいつはベルボーイにひとしきり苦情を述べているようだったが、やがて不満そうなうなり声をあげると、ドアを開けっ放しで出ていった。竹田さんはあいつのあとをちょこちょこ歩きで追いかける。
 だが、あいつがここにいるということは、神木さんの失踪は、『科学の真髄』を探すなどという理由で引き起こされたのではないかもしれない。
 私は、思っているよりも遥かに大きくそして重大な事件にぶち当たっているような気がした――。
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