第一章

文字数 4,415文字

安藤は、手紙を読み終えると大きなため息をついた。
 「この手紙を座席に残し、神木は姿を消したのだよ」
 私は、考え込むように呟いた。
 「幻の『科学の真髄』と、飛行島ですか。『科学の真髄』とは、いったいどんなものなのでしょうか」
 安藤は答える。
 「『科学の真髄』とは、人類が誕生してから絶滅するまでのすべての科学を一文字一文字手書きでしたためたといわれる、世界でただひとつの本だよ。
 ただ、その本はあまりに危険性があるので、封印されてしまったと言われているがね」
 「では、その本にかかれていることは、今の我々の科学力よりも遥かに優れているということになりますね」
 安藤はいかにもといった顔で頷いた。
 「だからこそ、島が空を飛ぶという伝説が、これだけ長く語り継がれたのではないかね」
 私は、考え込みながら言った。
 「島はすごく大きかったそうですよね。島を空に浮かせるとなるとすごい力が必要だと思います。はたして、科学なんかでそんなことが起こせるでしょうか。たとえ未来の科学力でも不可能だと思います。つまり、島を浮かせるなんて、地球の重力場を考えたら何をどうしたところで絶対に無理だと思うのですが」
 安藤はかすかに笑っていう。 
 「だからそれを確かめるために、神木が島を見たという場所に向かっているのではないのか」
 安藤は、三重県の大きな地図を取り出し、私の前に広げた。
 私はその地図にペンで印をつけながら言う。
 「神木氏は故郷の青山町へ向かう途中で姿を消した。理由は途中の赤目周辺で空に浮く島を見たから。この直近で列車が止まるのは赤目口。したがって、彼がいる可能性のもっとも高いのが赤目口駅周辺ということになりますね。列車から飛び降りたとしたら怪我をおっている可能性もあります」
 安藤は眉を曇らせて言った。
 「わたしもそれを心配しているのだよ。無事でいてくれればいいのだが」
 私はきっぱりと言った。
 「ご心配は無理もありません。一刻も早く私が現地にいって、調べてみましょう。神木氏が赤目周辺で見つからなかった場合には、青山町まで足を伸ばして調べてみます。故郷に戻った可能性もありますからね」
 私は普段はおっとりとしているが、一旦決めると行動が早い。
 安藤は私を京都駅に下ろすと、
 「わたしはここまでだ。明日も仕事があるのでな」
 と、もと来た道を帰っていった。
 安藤からは、神木さんと幻の本『科学の真髄』の名はできるだけ出さないようにとの注意を受けていた。神木さんが人生をかけて手にいれようとした幻の本の存在を、私が周辺をかぎまわることで、他の人間に気取られてはいけないからである。
 太っていて優しく、いつも笑顔を絶やさない男だというのが、安藤が教えてくれた神木像だ。ちょっと手がかりとしては弱いような気もするが、こればかりは仕方ない。
 私は近くにホテルを借りて、古道具屋を訪れ、暇潰し用の携帯ゲーム器を入手した。あとは非常食のためのビスケットと、向こうの気候はどうなっているかわからないので、羊の毛でできた耳当てを買い、ホテルに向かった。
 あちこちに寄り道をしたので、ホテルに戻ってきた時には午後7時を回っていた。
 ホテルに入ろうとしたときのことだ。年配の男が、突然私に体当たりをしてきた。
 「何をする!」
 男は私の持っていた鞄をひったくろうとしている。私はすかさず男の股間に蹴りを入れた。男は飛び上がり、一瞬よろけたが、すぐに体勢を立て直すと、脱兎のごとく逃げ出した。
 「待て!」
 私は叫び追いかけたが、男は逃げ足が異様に速かった。
 私は男の後ろ姿を、目を細めて値踏みするように見ていた。身のこなしが半端でなく軽かった。鞄を狙っていたようだが、ただのひったくりだったのだろうか。日本も物騒になったものである。
 用心のため、まわりを油断なく見回しながら階段を上り、私の部屋の前の廊下にさしかかったとき、私はぎょっとして足を止めた。
 私の部屋の隣のドアの前に座り込み、まわりを見回しながら、室内を覗きこんでいる男がいるではないか!なかを覗くだけではない。ドアノブをガチャガチャといじって、強引に開けようとしている。
 「泥棒!」
 私はとっさに叫んだ。
 男は、はっとこちらを振り向く。逃げ出すかと思いきや、びっくりしたという感じで私のことを見ている。といっても表情はまるでわからない。レンズが黒いメガネをかけているので、目がまったく見えないからだ。何者だろう。
 メガネの男は私に向かって叫んだ。
 「あれ、霜村さんじゃありませんか、どうしたのですか、こんなところで」
 男はメガネを外した。それを見て私はその男を思い出した。
 「なんだ、隼人じゃないか」
 彼は、よろけながら立ち上がった。私もかなりの長身だが、それより頭ひとつ分ぐらい大きい。ひょろりと痩せていて、はだが白く、髪の毛は手入れが行き届いてなく、ところどころはねている。
 彼はベコベコにへこんだハンチングをわずかに上げ、おどおどと頼りなく笑った。
 「ど、どうも霜村さん。元気でしたか。久しぶりですね。突然どうしたんですか」
 「実は悩み相談所の仕事で近くまで来ていてね。それというのも、この近くで人が消えたみたいで」
 「そ、それはお疲れ様です」
 彼は消え入りそうな声でいい、うつむいた。埃だらけのジャンパーは、裾や袖口が擦りきれている。身に付けているものは上等なのに、ひどくみすぼらしく見え、知らずに町で彼に出会ったら、浮浪者だと思うだろう。
 これでもまだ、二十代前半らしい。
 「とりあえず、なかに入らないか」
 私は彼にみなまで言わせず、やさしく部屋に招き入れた。
 メガネ男の名は、中野 隼人。私の高校以来の友人で、考古学者だ。
 しかし、初対面で考古学者だと言われてもぴんとこないかと思う。たしかにすごく独創的な感じはするが、変なものの発掘をしていると勘違いされるだろう。
 彼はソファに腰を落とし、リュックを膝に抱き締め、ぼんやりとしたようすで呟いた。
 「ここのところ、おかしなことばかり起きるのですよ。泥棒にはいられてお金を盗まれるわ、背中を突き飛ばされてメガネを落としそうになるわ、さっきだって部屋の鍵を誰かにとられてしまったのですよ。
 もういいかげん、おかしくなりそうです」
 私は彼にお茶を差し出して、心配しながら言った。
 「もしかしたら、隼人の研究を狙っている人がいたりするかもしれないな。隼人は高校きっての天才だったから」
 何も知らない人が聞いたら彼が天才だなんてまったく信じられないだろう。彼は、人間は外見と内面が全然違うこともあるのだということを証明するための、格好の材料になるかもしれない。
 「でも、僕の研究を盗んだところでどうしようもないと思いますけどね。霜村さんも知っている通り、僕は金になる研究なんてまったくしていないのですよ?」
 「それは、隼人がそう思っているだけで、他の人たちはそう判断していないかもしれないじゃないか」
 「そうですかねえ」
 彼は首をかしげると、音をたてて紅茶をすすった。
 彼の指先はとても細い。そのせいか湯飲みを持つ手が危なっかしく見えて、いつホテルの床にこぼすかと、私は緊張しながら見ていた。
 私は彼に言った。
 「私は明日から調査のために京都駅から伊賀方面に向かうのだが、よかったらその間、ここで留守番をしているか?」
 「伊賀ですって?」
 彼はすっとんきょうな声で叫んだ。そのとたん、湯飲みが揺れて中のお茶が手にかかった。
 「あっつ!」 
 彼は慌てて、湯飲みを持っていた手を離し、それとほぼ同時に床の上で派手な音をたてて、湯飲みが割れてしまった。
 私は呆然とした。あんな場面で手を離す人がいるだろうか。信じられないほどのおっちょこちょいだ。
 「わっ!霜村さん、す、すみません!」
 彼は床に手をついて、慌てて湯飲みの欠片を拾い集めようとする。しかし、素手でそんなことをするとどうなるかはもう予想がつく。
 「痛いっ!」
 どうやら予想通り欠片で指を切ってしまったようで、指を口にくわえる。
 「大丈夫か。隼人、座っていてくれ」
 私は、彼を制し、近くにあった新聞で欠片を拾い集めた。
 「ああ、すみません、霜村さん。僕はいつもこうなのです。何かをしようとすると、かえって霜村さんに迷惑ばかりかけてしまう」
 彼は指をくわえ、床にしゃがみこむ。私はそんな彼を眺めて笑いだした。
 「ふふ、隼人は変わらないな。でも、そんなドジなところが隼人の持ち味じゃないか」
 「そういってくれるのはあなたぐらいのものですよ、霜村さん」
 私は彼を立ち上がらせ、ソファに腰かけさせた。
 「そこでゆっくりしてくれ。で、伊賀がどうかしたのか?」
 「伊賀に親戚がいるのです。けっこう前に祖父一人になってしまったのですが、僕を可愛がってくれた人で。今となっては数少ない身内の一人なのですよ。しばらくそこにいってもいいかなと思って。あまりにも気味の悪いことが続いているので」
 「まあ、この辺りは何かとげんが悪そうだからな。転地して気分を変えるのもいいかもしれないな」
 彼はもじもじしながら言った。
 「そこでなんだけど、霜村さん。本当に申し訳ないのだけど、ちょっと切符代の方を貸してくれませんか。祖父のところにいったら、すぐに返しますから」
 私は苦笑いしながら言った。
 「分かっているよ、隼人。金のことは気にしないでくれ」
 「そうだ!霜村さんもよかったら祖父の家に一緒にいきませんか。かなり老朽化はしているけど由緒正しき建物で、なかなか価値のあるものだと思いますよ」
 「目的地に近ければもちろん考えますが。ちなみに、祖父の家は伊賀のどこにあるんだ?」
 「青山ですよ。もっとも家は、町から離れた山の中にありますけど」
 「青山だって!」
 私は叫んだ。
 彼はきょとんとして、私の顔を見る。
 「どうしたのですか。青山に何かあるのですか」
 「いや、私もひょっとしたら青山に行くかもしれないと思っていたから、ちょっとビックリしたんだ」
 「ふうん。ところで、調査って人探しじゃないのですか。青山なんて森しかないけど、何か変わったものが見つかったとかですか?」
 「ああ、そんなところだな」
 私は言葉を濁した。安藤との約束がある。いくら親しい友人でも、おいそれと真相を明かすわけにはいかない。
 彼は考え込みながら言った。
 「祖父のすんでいるところにも、霜村さんの好きそうな変わったものがありますよ。何でもっと早く気づかなかったのだろう。あそこはきっと霜村さんにとって宝の山になるに違いないですよ」
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