第四章

文字数 5,893文字

 森に一歩足を踏み入れると、竹の葉の強い香りがした。鬱蒼と葉が繁り、昼だというのにうす暗い。ときおり木漏れ日が射し込んできて、天から後光が差し込んでいるように見える。
 恐怖も忘れて、私はうっとりとする。むげんの森。ここには妖精がすんでいてもおかしくない。少なくともこの森には、人間の手が加わっていないのは確かだ。
 しかし、奇妙な感覚はいっそう強くなっている。なんというか、磁場が狂っているような感じで、富士の樹海に似ている。鳩がこの上を飛んだら、きっと帰れなくなるだろう。
 あるいはこの美しさにうっとりとさせること自体が、森の意図なのかもしれない。やがて森全体が食虫植物のように、取り込んだ人間を食べてしまうのだ。それならば島がここに出現したのも納得がいく。
 京都線特急から青く光る炎が一瞬見えたとき、確かに島はこの森の中にあった。場所は定かではないが、それがこの森のどこかであることは間違いない。
 「この森は深いから、はぐれないように気を付けて。迷ったら大変なことになるからな」
 彼は、私のあとをついて懸命に歩いている。
 私は、ポケットのなかに何十本の紐を潜ませておいた。それを気に結びつけて歩くことで、道に迷わず、出口もわかる。やみくもに危険に立ち向かっていくのではなく、それなりの用心をした上で何事にも望まなければならないと私は思っている。
 先を急ごうとする私に、彼は泣きそうな声で言った。
 「霜村さん、ちょっと待ってください。足がいたくて、くつに穴が開いてしまいました」
 「大丈夫か、隼人。仕方ない。少しペースを落とすか」
 彼は情けない声で呟いた。
 「すみません。だけどさっきよりさらに頭がいたくなってきたんですよ。おまけにふらふらするんです」
 私は彼に向かって言った。
 「思った通りだ。隼人はなかなか感受性が鋭いみたいだな」
 彼は目を丸くする。
 「僕が身体的にすぐれないことの理由が、霜村さんにはわかってるんですか」
 「いや。それについてはいろいろと思うことはあるんだが、私の説を教えるのはもう少しあとにしよう」
 「ええ、もったいぶってないではやく教えてくださいよ」
 私は、笑いながら首を横に降った。
 「悩みは一生懸命考えたあとにとけたほうが気持ちいいだろう。そこの木陰でちょっと一休みしようか」
 彼はとたんに威勢がよくなった。
 「やった!疲れた体には何より休憩だ、休憩!」
 全然元気じゃないか。私は冷ややかな眼差しで彼を見た。
 
 水筒に入れていたお茶で喉を潤し、お弁当のおにぎりを食べながら、回りを見回していたら、奇妙なものが目に入ってきた。
 立ちあがり、近づいてみると、木の幹に何かが結わえ付けられている。
 これはなんだろう。紐か?
 茶色と緑色との迷彩柄になっている紐だ。保護色になっているので、つい見落としてしまう。それは落ち葉や土の上を這って、森の奥深くへと続いているようだ。
 私は、紐がどこに続いているのか確かめたくなった。振り返ると、彼は疲れたのか居眠りをしている。
 私は彼をそっとしておこうと、声をかけずに歩きだした。紐はまだ新しく、布地も腐蝕していないので、ごく最近、気に結わえ付けられたものだということが分かる。
 いったい誰がなんのためにと、疑問に感じながら、森の奥に向かい進んでいった。
 竹の香りがいっそう強くなる。陽の射さない森のなかはひんやりとして、空気も湿っている。
 そういえば、忍者は竹を使って忍術をしていたらしい。だとしたら、この森の竹は、忍者が使っていたものと同じなのだろうか。
 そう思うと、とたんにわくわくしてきた。そして、もう少しだけ足を伸ばしてみようと、先に進むことにした。
 その辺りから森が顔を変えてきた。ぶら下がる蔦が髪に絡み付く。落ち葉も湿っていて、靴が埋まってしまうようだ。迷いこんだ人を取り込もうと、森が意思を持ち始めたかのように。
 さすがに危険を感じて、戻ろうと思ったそのとき、不意に視界が開けた。森を抜けたのだ。
 目の前には深い緑色の池がある。まわりをぐるりと森にかこまれた池は、水面に緑が映りこんで神秘的な色をたたえて、霧が立ちのぼり、まるで不思議な世界に迷い混んでしまったようだ。
 池への出口となる木に、迷彩柄の紐が結びつけられていた。そこが森の終着点であるという印なのだろうか。誰の仕業かはわからないが、ここまで長い紐を渡して位置をしるしておこうとしたからにはこの場所には何かがあるはずだ。
 ふと見ると、木の枝が片面のみきれいに削ぎ落とされているのが目についた。それを見て私は、昨日見た飛行島の秘密がわかってしまった。
 彼に伝えようと思った瞬間、ずんと頭が重くなった。締め付けられるような感じで、喉もつまる。いったいこの場所で何が起きているんだろう。
 そこまで考えて怖くなった。
 ひょっとして私は、何かに誘き出されたのではないか。罠にはめられたのではないのか。
 そのとき、音が聞こえた、獣の叫び声でもなく、ましてや鳴き声でもない。もっと低い音、そう、地鳴りだ。
 地下の深いところで振動しており、地震の前兆のように感じられる。それも、とてつもなく大きなものだ。
 恐怖に駆られて空を見上げる。背の高い木が、ぐるぐると回転しながら頭上に倒れこんでくるようだ。
 地震が起こり、木が倒れてきて、下敷きになったなら、ここで誰にも知られずに死んでしまうのだろうか。
 今更ながらに軽はずみな行動を心底悔やむ。森のなかを一人で歩いてはいけないと、あれほど彼に言っていたのに、その本人が危険にさらされているなんて、聞いてあきれる。
 自ら掘った墓穴ゆえに、このままここで死んで永遠に見つけ出してもらえないかもしれない。
 ネガティブな思考が限界まで達したとき、振動はぴたりと止んだ。
 私は体を起こし、まわりを見回す。
 何事もなかったかのように、辺りは静まり返っている。狐につままれていたのだろうか。
 私は照れ臭くなり、一人で頭をかいた。何を一人で騒いでいたんだろう。永遠に見つけ出してもらえないなんて大げさな。
 そのとき、微かな声が聞こえた。誰かが私の名前を呼んでいる。私は耳を澄ませた。この声は彼だ。
 私は叫ぶ。
 「隼人、私はここだ」
 「霜村さん、どこですか」
 「ここだ。ここにいるぞ」
 やがて、彼が木々の隙間から姿を現した。
 「隼人!」
 私は感極まり、思わず泣きそうになっていた。もちろん泣いてはいないが。
 「霜村さん、一人で動かないでくださいよ。僕、怖くなって一生懸命さがしましたよ」
 「すまん、隼人。ありがとう。もう絶対にしないと約束する」
 彼の心配そうな顔を見て、私はうなだれた。そんな私の様子を見て、彼は慰めるように言ってくれた。
 「でも霜村さんは、これが何かを確かめるために来たんですよね」
 その手には、例の紐をつかんでいる。
 「そうなんだ。これを見てくれ。紐が木の幹に結わえ付けられている。目立たないようにわざわざ迷彩柄にして。これがさっきの倒木の近くにある木から、この木の間に渡してあったんだ。それと、これも見てくれ」
 私は、片面のみきれいに削ぎ落とされている木を彼に見せた。私の自信のある足取りに、彼は私が秘密を解いたことに気づいたようだ。
 「霜村さん、何かわかったんですね」
 私は微妙な表情を浮かべて言った。
 「どうやら昨日私が見た、飛行島の秘密が、わかったような気がするんだ」
 「ええ、本当ですか。教えてください。何で島が空に浮かぶんですか」
 「それが、思っていた以上に大したことじゃなくてな。あまりにあっけなくて、隼人が聞いたらたぶんがっかりするだろうな」
 「そんなことはないです。きっとびっくりして腰を抜かすと思います」
 「すべての秘密が解けたとは言えないが。だけど、昨日見たものについては間違いない」
 私はなお言うか言うまいか、迷っていたが、思いきって言った。
 「なんのことはない。幻影だったんだ」
 「幻影、とは?」
 「画像を使ったんだ。池を挟んで木と木の間に巨大な虫眼鏡のようなものを取り付け、どこかの島の全景を撮った画像を投写したんだ。虚像ならば本物より大きくみえるから、そんなに大きな画像を用意しなくてもすむしな。
 それと、この木と、向こうの木の枝が片面のみきれいに削ぎ落とされていた。おそらく、その木に取り付けたんだろう」
 「いったいどういうことですか」
 「簡単なことだ。昨日私が京都線特急から見た島は全くの偽物、作り物の飛行島だったんだ」
 「作り物の飛行島ですか?」
 「私のような人間を引っかけるためのな。まんまと私は引っ掛かってしまったが、きっと本物は他にあるはずだ」
 私は言いながら、名張の町でも同じように感じたことを思い出す。ここは嘘臭くて、作りものの町だと。
 私はかすかに震えて言った。
 「そろそろ名張の町に帰ろう。見知らぬ土地だ。また今度あんな目に遭うのはごめんこうむりたいからな」
 
 そして私たちは、名張の町に向けて歩きだした。だが、いつまでたっても名張の町にたどり着けない。
 「おかしいな」
 私は呟いた。
 なぜだろう。すでに十キロは歩いている。時間的にも歩数的にも、疲労度からいってもそれは確実だ。倍とまではいかないが、少なくとも一・五倍は歩いている。
 大きな夕日が山の向こうに沈みかけている。その姿が完全に隠れてしまう前に、なんとしてでも名張の町にたどり着かなければ。
 もしかして、道に迷ってしまったのか。しかし、赤目から名張までは一本道だ。どんなにひどい方向音痴でも迷いようがない。
 あるいは不動明王に呪いをかけられ、惑わされてしまっているのか。
 山田さんは言っていた。赤目は不動明王が現れた地だと。ならばそこに長い間いた私たちは、不動明王の気に触り、知らず知らずのうちに呪われてしまっているのか、それとも、町自体が消されてしまったのか。
 「消された町?」
 私はあの話を思い出して寒気がたった。
 私と彼は顔を見合わした。
 「霜村さん、どうも変な感じがします」
 「今きた道を戻ろう。町を探さなければ」
 
 一時間後。私たちは町の中央に、呆然と立ちすくんでいた。
 町の中央といってもそこには、旅館も奇妙な七地蔵も、崩れそうな墓も何一つない。
 だが、そこが名張だったであろう証拠に、私たちが宿においてきた荷物は、部屋があったらしい場所に、きれいにおかれていた。
 それだけを残して、名張の町は跡形もなく消えていた。
 「これからどうしよう」
 消えた町のことももちろん気になるが、実際にこれからどうしたらいいのかという問題の方が大きい。
 陽はどんどん沈んでいく。じきにここは真っ暗闇になるだろう。
 彼は情けない声で言う。
 「なんとかなりませんか、霜村さん。僕はお腹ぺこぺこですよ」
 そう言われて私は、鞄からビスケットの入っている袋を取り出した。
 「一昨日買ったもので少し湿ってるが、まだ残ってるぞ。これでよければ食べるか」
 「い、いや!僕はそんなつもりで言ったんじゃなくてですね」
 そう言い訳しながらも、彼の目はビスケットに釘付けだ。
 「いいから、いいから。遠慮しないで食べろ。腹が減っては、旅はできないぞ」
 私はそう言って、袋の口を開けて差し出した。
 「じ、じゃあ。ありがとうございます」
 彼はビスケットを一枚取り、大事そうに少しずつかじりながら、首を振って言う。
 「ありがとうございます。霜村さんは何て良い人なんだ。このお礼は必ずさせてもらいます」
 「ビスケット一枚ぐらいで大げさだな。別に気にしなくていいぞ」
 そのとき微かな音がした。あれは、エンジン音だ。
 黒の軽自動車が私たちの前で止まり、運転していた人がドアを開けて降りてくる。私は目を疑った。
 「お前は!」
 それは京都線特急からつけてきた男だった。いったいどうしようというのか。こそこそ尾行するのはやめて、私と正々堂々勝負するつもりなのか。
 私が身構えたとき、男は声を発した。
 「どうでしょう。みなさんお困りのようですし、よろしかったらご一緒しませんか」
 それは思ってもみないような、細く甲高い声で、それは以前聞いたことがある声だった。
 「あ、あなたはいったい」
 男は髭のしたで、かすかに笑ったようだった。それとともに髭が不自然な揺れかたをする。それはまるで、作り物のようだった。
 「お分かりになりませんか」
 男は、束ねていた髪を振りほどき、頭をひと振りした。
 すると、白色の髪が、ふわりと広がった。続けてサングラスと口髭を取ると、そこには若く美しい女性の姿があった。
 「わたしは、『京都新聞』の若山 美麗です。前に、悩み相談所についてインタビューさせてもらったのですが覚えてませんか」
 わたしは、少し考えこみ、ようやく思い出した。
 「ああ、あの時の」
 わたしは、昔からひとの名前と顔をすぐに忘れてしまう人だったので、彼女のことも忘れてしまっていたのだ。
 「実は霜村所長にインタビューさせていただいた記事が、とても人気でして、 私もようやく一人前の記者として認められるようになりました。そこでまた面白い記事を書けないかと、こっそり霜村所長に張り付いていたのです。悩み相談所に人が入っていくのを見て事件勃発と思い、変装して京都線特急に乗り込んだというわけです」
 そうだったのか。それならば京都線特急で見張られていた感じがしたのも納得がいく。彼女は私たちを取材対象として見張っていたのだから。しかし、彼女が彼を狙っていたのではないとすると、彼を狙っているのはいったい誰なのだろうか。 
 それにこの美しさはどうだろう。長く豊かに波打つ、輝くような白色の髪。トマトのような赤くて丸いつやつやした目。その目でじっと見つめられると女性の私でもドキドキしてしまう。
 そのとき私は、彼がポカンと口を開けて、彼女のことをうっとりと見つめているのに気がついた。ひょっとしたら私は、彼が恋に落ちる瞬間を目撃したのかもしれない。それを見て、私は少しむっとした。
 そして、私たちは軽自動車に乗り込み、彼女は助手席に座った私に尋ねてきた。
 「目的地はどこですか」
 「青山町へ」
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