第六章
文字数 3,630文字
一夜が明けた。
厚い木々の隙間から、弱々しい光が射し込んでいる。高い壁に囲まれた細い路地には、陽の光は届かない。故に昼間でも街灯を絶やすことはない。
黒く濡れ、苔が生い茂っているコンクリート。狭い小道には、重苦しく霧が立ち込めている。この路地に、犯罪者や病気がひしめく森の奥への入り口がある。私たちは、ぽっかりと黒く口をあけている入り口の前にたった。
彼が思わしげな表情で彼女に言う。
「いよいよここから、森の中に入るわけですけれど、鈴さんはホテルで待機している方がいいのではないでしょうか。たとえ昼間といってもこんな森の奥には、女性は入らない方がいいのではないでしょうか」
私は彼の話を聞いて、それなら私はどうなるんだと思った。
彼女はすがるような目で彼を見つめている。
「でも、わたしもみなさんと行動をともにしたいんです。それと、あなたともっと一緒にいたいな、なんて」
「お、お気持ちは、わ、わかるのですけど、やはり気になりますよ。さてどうしたものでしょうか」
私は少し離れたところに立ち、押し問答する二人をぼんやり見つめていた。なぜか昨日から気持ちが晴れない、どうしてだろうか。
そうこうして、彼等は、満面の笑みを浮かべて私の方に近づいてきた。
「彼のお許しが出ました。わたしもお供します」
「やる気のある女性の熱意に負けてしまいました。僕が鈴さんを守りますので、心配は無用です」
べこべこのハンチングをあげようとして、彼の手が当たり、眼鏡が落ちた。またか。私はうんざりした。自分の手で眼鏡を落とすとは、信じがたいほどのドジだ。
私はコンクリートの上に転がっている眼鏡を拾ってあげた。幸いなことにレンズは割れていなかった。
「よかったな。眼鏡は無事だぞ」
「あ、ありがとうございます、霜村さん」
彼はおろおろして言った。
「まったく気を付けてくれよ。ほんとにそそっかしいんだからな」
ぶつぶつ文句をいいながら、眼鏡を彼の前に差し出し、私はびっくりした。
眼鏡をとった彼の顔があまりにイケメンだったからだ。
私は彼に気づかれないように背を向けて歩き出した。
彼女はこっそり近づいてきて、私の脇腹をつついた。
「な、なにをするんだ」
「大丈夫ですか」
「なんのことだ」
「隼人さんですよ。霜村所長、隼人さんのことが好きでしょ」
「な!何を言ってるんだ、お前は!恥ずかしいやつだな、昨日も言ったが私は違う!」
「彼の気持ちはどうなんでしょう、わたしとかなり親しげに話してますが」
「ううううう」
「あんまりのめり込まないようにしてくださいね。ふられたときのダメージが大きいですよ」
「な、なまいきだ。」
私は真っ赤な顔で叫んだ。
彼女は彼の方に走りよっていき、彼の手をつかんだ。彼は、はにかんだように彼女の瞳を見返し、眼鏡を手に静かに言った。
「安心してください。あなたのことは、僕が命を懸けてお守りします」
キザな台詞だったが、素朴な彼が言うと、ひどく真摯なものに聞こえる。
彼女は彼の顔をじっと見つめ、かすかに頬を染めた。
「ありがとう」
小さな声で呟き、嬉しそうににっこり笑った。彼女は、彼のそばを通りすぎるときに、小さな声でささやいた。
「わたし、守ってあげるなんて言われたの、生まれてはじめてです。すごく嬉しかった」
彼は、その言葉が耳に入らなかったかのように、ポカンとした顔で空を見ている。
私は彼のそんな顔が気にくわなかった。
森の奥へと入っていくと、辺りは暗くなり、木々の隙間から少し見えている光なしにはなにも見えないほどになった。
彼が先頭に立ち、彼女を真ん中にして、森の奥の通路を進んでいく。少し向こうから、賑やかな声が聞こえたので、そちらに向かってみることにした。
そこには賑やかな繁華街が広がっていた。小さな店がいくつも並んでおり、派手な看板が飾られている。ランプの照明が煙に滲んでいて、ひどく幻想的だ。
酒場や賭博場なども店を開けていて、打ち興じる人の声ががやがやと反響する。朝だというのに、この森の奥は夜の騒がしさと楽しさの中にいるのだ。
彼が私に不思議そうに言った。
「思っていた以上に活気があって賑やかな場所ですね。昔は、病人や犯罪者でもない人はこんなところにはいられないと思うような場所でしたけど、ここ数年の間に大分変わったようですね」
私はうなずく。
「たしかにそうだな。私はもっと悲惨な光景を思い浮かべていたが、ちょっと驚いたな」
私の目には、不法地域は充分潤い、繁盛しているようにも見えた。病気や貧困に困り果てている人々が、暗闇の中にうずくまり、犯罪者が我が物顔で幅を聞かせているのかと思ったが、そんなことはない。時おり行き交う人の表情は生き生きとしており、むしろ普通の人よりも、目がぎらついているのが気になるほどだ。町を木で隠してしまったことは許されることではないかもしれないが、現在この町にいる人々は、大変満足しているのではないだろうか。
私は賭博場に入って聞き込みをすることにした。私を見る目が気になったが、よそ者だからだろうか。
賭博場の人によると、この先には鉱山があるらしい。この森の人たちはそこで仕事にありついているそうだ。
私たちはそこに向かうことにした。お礼をいい、賭博場から出て振り返ると、数人の工場勤め風の男たちが、ひそひそと話し合いながら、私たちの方を見ている。その表情が敵意を含んだものに感じられて、私は思わず彼に身を寄せた。
「隼人、後ろの男たちが私たちの方を見ているが」
彼が、私たちを振り返って言う。
「大丈夫ですよ、何かあったらあんな奴ら、僕が軽くやっつけちゃいますから」
私たちはくすっと笑った。
「また、見栄張ってるんじゃないんですか、隼人さん」
「ほんとですよ、僕は高校時代かなりそっちの方でならしたんですから、ねえ霜村さん」
私は黙って苦笑いを浮かべた。
奥の方へ歩を進めるにつれて、しだいに騒がしさは遠のき、朝露の滴る音しか聞こえなくなった。
鉱山の中に入ると、一本道がだらだらと続いている。この先でいったい何が発掘されているのか、なんといっても闇の不法地域だ。町の雰囲気からいってもなにか危険なものが掘られているのは間違いないような気がする。犯罪に近いことが行われている危険性も否定はできない。
あれこれ考えながら進んでいくと、道の突き当たりに金属のドアが見えた。
「お、ドアがあったな。鉱山の中にドアか、不思議な感じだな」
だが、私たちはその場で立ちすくんだ。ドアの前で、顔も服も泥にまみれた小さな男の子が、膝を抱えて座り込んでいたのだ。私が、服を整え、挨拶をすると、男の子は言った。
「ここから先へは、行かない方がいい。――死んじまうからな」
こともなげに男の子は言った。
「そんな!」
私たちは思わず棒立ちになった。
男の子は鼻をこすって、話を続けた。
「なかでは、街で処方されている薬が、発掘されてるらしい。
だが、俺の家族はここで働いて、全員が病気になっちまった。だから本当のところは、何をやってるか、わからねえ。だから、俺の家族みたいな事にならないよう、あんたらみたいなよそ者が来たときはここで俺が止めてやってるのさ」
年端も行かないような子供の、家族全員が病気になっているなんて、と胸を締め付けられるような気がした。
「たしかにここはひどく空気が悪い、ずっとこんなところで働いていたら体を壊してしまうかもしれないな」
男の子はうつろな瞳で呟いた。
「でも、たくさん金をもらえるからって、俺が止めても、みんな入っていくんだ」
私はドアを叩いてみた。音から判断してひどく分厚そうだ。叩いた手の臭いをかぐと、ひどい鉄の臭いがした。
「驚いたな。これは鉄だぞ」
「鉄ですって!」
「ああ。なんだってこんなところに鉄のドアなんか取りつけたんだろう」
男の子は言う。
「いっとくが、ドアは中からしか開かないよ。押しても引いてもびくともしない、嘘だと思うなら体当たりでもしてみることだな。仕事は始まったばっかりだ、次に開くのは十時間後だ。そうしてこの仕事は、途切れることなく続けられるのさ」
十時間後。それまでずっとここにいるわけにも行かない。
彼女は男の子に問いかけた。
「一人で大丈夫?」
男の子はこっくりうなずいた。
その目には、うっすら涙が浮かんでいるように見えた。男の子のことが気がかりだったが、私たちは地上に戻ることにした。振り返ると、男の子はドアの前にぽつんと座って、こちらを見ていた。
あの扉の向こうでは、何が行われているのだろうか。やはりこの町の闇はひどく深いもののようだ。
厚い木々の隙間から、弱々しい光が射し込んでいる。高い壁に囲まれた細い路地には、陽の光は届かない。故に昼間でも街灯を絶やすことはない。
黒く濡れ、苔が生い茂っているコンクリート。狭い小道には、重苦しく霧が立ち込めている。この路地に、犯罪者や病気がひしめく森の奥への入り口がある。私たちは、ぽっかりと黒く口をあけている入り口の前にたった。
彼が思わしげな表情で彼女に言う。
「いよいよここから、森の中に入るわけですけれど、鈴さんはホテルで待機している方がいいのではないでしょうか。たとえ昼間といってもこんな森の奥には、女性は入らない方がいいのではないでしょうか」
私は彼の話を聞いて、それなら私はどうなるんだと思った。
彼女はすがるような目で彼を見つめている。
「でも、わたしもみなさんと行動をともにしたいんです。それと、あなたともっと一緒にいたいな、なんて」
「お、お気持ちは、わ、わかるのですけど、やはり気になりますよ。さてどうしたものでしょうか」
私は少し離れたところに立ち、押し問答する二人をぼんやり見つめていた。なぜか昨日から気持ちが晴れない、どうしてだろうか。
そうこうして、彼等は、満面の笑みを浮かべて私の方に近づいてきた。
「彼のお許しが出ました。わたしもお供します」
「やる気のある女性の熱意に負けてしまいました。僕が鈴さんを守りますので、心配は無用です」
べこべこのハンチングをあげようとして、彼の手が当たり、眼鏡が落ちた。またか。私はうんざりした。自分の手で眼鏡を落とすとは、信じがたいほどのドジだ。
私はコンクリートの上に転がっている眼鏡を拾ってあげた。幸いなことにレンズは割れていなかった。
「よかったな。眼鏡は無事だぞ」
「あ、ありがとうございます、霜村さん」
彼はおろおろして言った。
「まったく気を付けてくれよ。ほんとにそそっかしいんだからな」
ぶつぶつ文句をいいながら、眼鏡を彼の前に差し出し、私はびっくりした。
眼鏡をとった彼の顔があまりにイケメンだったからだ。
私は彼に気づかれないように背を向けて歩き出した。
彼女はこっそり近づいてきて、私の脇腹をつついた。
「な、なにをするんだ」
「大丈夫ですか」
「なんのことだ」
「隼人さんですよ。霜村所長、隼人さんのことが好きでしょ」
「な!何を言ってるんだ、お前は!恥ずかしいやつだな、昨日も言ったが私は違う!」
「彼の気持ちはどうなんでしょう、わたしとかなり親しげに話してますが」
「ううううう」
「あんまりのめり込まないようにしてくださいね。ふられたときのダメージが大きいですよ」
「な、なまいきだ。」
私は真っ赤な顔で叫んだ。
彼女は彼の方に走りよっていき、彼の手をつかんだ。彼は、はにかんだように彼女の瞳を見返し、眼鏡を手に静かに言った。
「安心してください。あなたのことは、僕が命を懸けてお守りします」
キザな台詞だったが、素朴な彼が言うと、ひどく真摯なものに聞こえる。
彼女は彼の顔をじっと見つめ、かすかに頬を染めた。
「ありがとう」
小さな声で呟き、嬉しそうににっこり笑った。彼女は、彼のそばを通りすぎるときに、小さな声でささやいた。
「わたし、守ってあげるなんて言われたの、生まれてはじめてです。すごく嬉しかった」
彼は、その言葉が耳に入らなかったかのように、ポカンとした顔で空を見ている。
私は彼のそんな顔が気にくわなかった。
森の奥へと入っていくと、辺りは暗くなり、木々の隙間から少し見えている光なしにはなにも見えないほどになった。
彼が先頭に立ち、彼女を真ん中にして、森の奥の通路を進んでいく。少し向こうから、賑やかな声が聞こえたので、そちらに向かってみることにした。
そこには賑やかな繁華街が広がっていた。小さな店がいくつも並んでおり、派手な看板が飾られている。ランプの照明が煙に滲んでいて、ひどく幻想的だ。
酒場や賭博場なども店を開けていて、打ち興じる人の声ががやがやと反響する。朝だというのに、この森の奥は夜の騒がしさと楽しさの中にいるのだ。
彼が私に不思議そうに言った。
「思っていた以上に活気があって賑やかな場所ですね。昔は、病人や犯罪者でもない人はこんなところにはいられないと思うような場所でしたけど、ここ数年の間に大分変わったようですね」
私はうなずく。
「たしかにそうだな。私はもっと悲惨な光景を思い浮かべていたが、ちょっと驚いたな」
私の目には、不法地域は充分潤い、繁盛しているようにも見えた。病気や貧困に困り果てている人々が、暗闇の中にうずくまり、犯罪者が我が物顔で幅を聞かせているのかと思ったが、そんなことはない。時おり行き交う人の表情は生き生きとしており、むしろ普通の人よりも、目がぎらついているのが気になるほどだ。町を木で隠してしまったことは許されることではないかもしれないが、現在この町にいる人々は、大変満足しているのではないだろうか。
私は賭博場に入って聞き込みをすることにした。私を見る目が気になったが、よそ者だからだろうか。
賭博場の人によると、この先には鉱山があるらしい。この森の人たちはそこで仕事にありついているそうだ。
私たちはそこに向かうことにした。お礼をいい、賭博場から出て振り返ると、数人の工場勤め風の男たちが、ひそひそと話し合いながら、私たちの方を見ている。その表情が敵意を含んだものに感じられて、私は思わず彼に身を寄せた。
「隼人、後ろの男たちが私たちの方を見ているが」
彼が、私たちを振り返って言う。
「大丈夫ですよ、何かあったらあんな奴ら、僕が軽くやっつけちゃいますから」
私たちはくすっと笑った。
「また、見栄張ってるんじゃないんですか、隼人さん」
「ほんとですよ、僕は高校時代かなりそっちの方でならしたんですから、ねえ霜村さん」
私は黙って苦笑いを浮かべた。
奥の方へ歩を進めるにつれて、しだいに騒がしさは遠のき、朝露の滴る音しか聞こえなくなった。
鉱山の中に入ると、一本道がだらだらと続いている。この先でいったい何が発掘されているのか、なんといっても闇の不法地域だ。町の雰囲気からいってもなにか危険なものが掘られているのは間違いないような気がする。犯罪に近いことが行われている危険性も否定はできない。
あれこれ考えながら進んでいくと、道の突き当たりに金属のドアが見えた。
「お、ドアがあったな。鉱山の中にドアか、不思議な感じだな」
だが、私たちはその場で立ちすくんだ。ドアの前で、顔も服も泥にまみれた小さな男の子が、膝を抱えて座り込んでいたのだ。私が、服を整え、挨拶をすると、男の子は言った。
「ここから先へは、行かない方がいい。――死んじまうからな」
こともなげに男の子は言った。
「そんな!」
私たちは思わず棒立ちになった。
男の子は鼻をこすって、話を続けた。
「なかでは、街で処方されている薬が、発掘されてるらしい。
だが、俺の家族はここで働いて、全員が病気になっちまった。だから本当のところは、何をやってるか、わからねえ。だから、俺の家族みたいな事にならないよう、あんたらみたいなよそ者が来たときはここで俺が止めてやってるのさ」
年端も行かないような子供の、家族全員が病気になっているなんて、と胸を締め付けられるような気がした。
「たしかにここはひどく空気が悪い、ずっとこんなところで働いていたら体を壊してしまうかもしれないな」
男の子はうつろな瞳で呟いた。
「でも、たくさん金をもらえるからって、俺が止めても、みんな入っていくんだ」
私はドアを叩いてみた。音から判断してひどく分厚そうだ。叩いた手の臭いをかぐと、ひどい鉄の臭いがした。
「驚いたな。これは鉄だぞ」
「鉄ですって!」
「ああ。なんだってこんなところに鉄のドアなんか取りつけたんだろう」
男の子は言う。
「いっとくが、ドアは中からしか開かないよ。押しても引いてもびくともしない、嘘だと思うなら体当たりでもしてみることだな。仕事は始まったばっかりだ、次に開くのは十時間後だ。そうしてこの仕事は、途切れることなく続けられるのさ」
十時間後。それまでずっとここにいるわけにも行かない。
彼女は男の子に問いかけた。
「一人で大丈夫?」
男の子はこっくりうなずいた。
その目には、うっすら涙が浮かんでいるように見えた。男の子のことが気がかりだったが、私たちは地上に戻ることにした。振り返ると、男の子はドアの前にぽつんと座って、こちらを見ていた。
あの扉の向こうでは、何が行われているのだろうか。やはりこの町の闇はひどく深いもののようだ。