第二章
文字数 4,744文字
翌日。
京都駅に私たちはいた。京都駅は日本でも有数の大きな駅で、プラットホームがいくつも並んでいる。
天井は鉄骨のドームで、警笛や人のざわめきが反響し、見知らぬ地への旅立ちをいやがうえにも盛り立てる。
気品ある風格と威厳をもたらせるべく、高い天井となっており、効率一点張りのそこらの大都市の駅とは、そもそも駅としてのレベルが違う。
いよいよ京都線特急に乗り込み、伊賀方面へ出発だ。私は駅で駅弁を買い、ホームへと向かった。
彼は相変わらず階段でけつまずいたり、通路で人とすれ違うときに何度もぶつかったりして周りに迷惑をかけまくっている。
私は本当に彼を、大事な旅につれてきて良かったのだろうかと少し思った。神木さんや『科学の真髄』のこともあるので、かなりの慎重さが要求される旅だと思うのだが、大丈夫だろうか。
座席の番号は 七 。神木さんと同じものを見るために、彼が座っていたのとあえて同じ座席にした。
座席に座ろうとしたとき、強い視線を感じて、私は振り向いた。
連結扉の前に、一人の男が鞄を手にして立っている。ピシッとしたスーツを着て、口髭を生やし、サングラスをかけている。
私に注視されていることを悟ると、男は鞄から携帯をとり出しさりげなく視線を落とした。
私の鞄をひったくろうとしたやつだろうか。
いや、あの男はもっと背が高かったし、年寄りだった。
「霜村さん。何してるんですか。早く座ってくださいよ」
横から彼が呼んでいる。私はその時、彼が誰かに鍵をとられてしまったという話を思い出した。
どうしようか。彼にあの男を見てもらうか。怪しい男がこちらを見ているが、見覚えはないかと。
「隼人」
私は小声で呼び掛けた。
「なんですか」
「ちょっとこっちに来てくれ。確認してもらいたいことがあるんだ」
彼は、怪訝な顔持ちで立ち上がった。
「見てほしい人がいるんだ。あの人なんだが」
私はそっと、男が立っている連結扉の方に顔を向けたが、そこには誰の姿もなかった。
「あれっ?」
私は驚いた。注意を座席に向けていたほんの一瞬で、男はいなくなってしまったのだ。
「おかしいな。変な男があそこに立って私たちを見てたんだが」
「誰もいないじゃないですか。席がわからなくって迷ってたんじゃないんですか」
「いや、とてもそんな風には見えなかったんだが」
「なんにもないんなら、僕は戻りますよ。窓から見える景色が素晴らしいんです。霜村さんも早く座ってくださいよ」
言うなり彼は、座席に座ってしまった。私は誰もいない通路を一睨みすると、座席に座った。
京都線特急の車内は、ブロンズ色に塗られた高級仕様のラインデリアといい、アンゴラ山羊の毛で織り上げた手触り抜群のシートといい、かなりの豪華さだ。もちろん特急なので、速度もかなり出ている。
列車はすでに京都郊外にさしかかり、窓から見える景色は、目に染みるような緑のお茶畑に変わっている。
祖父さんに、借金をしに行くという情けない状況にも関わらず、彼は窓に顔をペッタリとつけて、楽しげに歌を口ずさんでいる。
私も目を細め、なだらかに続く丘と、風に揺れる茶の葉を見つめていた。まさに窓に描かれた動く絵画だ。私たちはしばらく、その光景に見入っていた。
正午になったので、駅弁を出して食べることにした。牛を砂糖としょうゆで炊き込んだ関西風のすきやき味で、ごぼうや糸こんにゃくにも牛肉からでた旨みが染み込んでいて、味のバラツキがなく私みたいな女性でも食べきれる、程よいボリュームだった。
お腹が一杯になったあとは楽しみにしていたゲームをする。
驚いたことに、彼はゲームが異常に強かった。私がやるゲームは難しいことで有名なのだが、彼は最高難易度をいとも容易くクリアしてしまった。最高難易度をクリアできる人なんて、私は初めて見た。やはり彼は天才らしい。
そうこうしているうちに、空の色が変わってきた。薄水色をした空が、しだいに濃い黒色に染まってゆく。くれゆく空は、胸がきゅんとなるほど美しい。
川の上をわたる橋にさしかかったとき、私は思わず歓声をあげていた。白や桃色に色づき始めた山々、はるか眼下を流れる川、かなたには青く霞んで見える切り立った峰々。この時間帯の列車だからこそ望むことができる、夢のような大景観だ。
「本当に素晴らしい。これが春の醍醐味だな」
夏も秋も美しいだろうが、春の山の鮮やかな色彩はまた別格だ。
だが、進んでいくに連れて、豊かだった緑は少なくなり、風景は寂しく、荒涼としてきた。
やがて、空に蓋でもされたかのように、辺りは一気に暗くなった。
「そろそろ三重県だろうか」
私は呟いた。
三重県。
そのなかでも伊賀というものはまるで違う世界に迷い混んだように感じられる。
不思議と神秘と、そこはかとない邪悪の気が渦巻いているような。
視界は深い闇で閉ざされ、光源となるのは弱い月の明かりだけ。
その昔、忍者が住みかとしていたところだけあり、周りは山に囲まれ、隔離されているようにも感じる。
湖が点在しているのか、ときおり月の光が水に反射して揺らめく。
不意に思った。ここは闇が支配する地なのだ、そしてこの地では、どんなに不思議なことが起きてもおかしくないと。
その時、洗面所に行っていた彼が、晴れ晴れとしない顔で戻ってきた。
「どうしたんだ、隼人。トイレから落ちそうになったのか」
私の冗談に少しも取り合わず、彼は言った。
「実はいま洗面所から帰ってくるときに、車掌さんが誰かと話をしていたですけどね。そこで妙な話を聞いたんです」
私は彼に尋ねた。
「妙な話とは?」
「実はこの先の赤目で、身元不明の男の死体が見つかったらしいんです」
「なんだって」
私は叫んだ。私は真剣な表情で、彼に問いただす。
「それは何歳くらいで、どんな風体なんだ」
「いや、詳しいことはわからないですけど、死体はこの次の町、名張に運ばれたらしいですよ」
まさか、死体は神木さんではないだろうか、彼は私の到着を待たずして、亡くなってしまったのだろうか。なくなる前に伝説の飛行島を見つけ、そこで『科学の真髄』を手に入れたのだろうか。
様々な疑問が頭を埋め尽くす。私は顎に指を当て、じっと考え込む。
彼は旅疲れのせいか、私の横でぐうぐうと居眠りを始めた。
安藤との約束のせいで、『科学の真髄』のことも神木さんのことも話せないので彼が眠ってくれたのは非常に好都合だ。
私は窓側に陣取り、空から長い間、目を凝らして一心に窓の外を見つめていた。だが、目にはいるものは、月明かりに照らされる背の高い木々のシルエットや、湖だけだ。
飛行島はおろか一軒の家すらもない。
私は凝ってしまった肩と首を回しながら考えた。
どうやら今日は外れだったのではないか、そうそう島だって都合よく現れるはずもない。なんといっても伝説の島だ。日本各地をあちこちさまよっているのかもしれない。
諦めかけ、窓から目をはずそうとした私の視界の中になにかが写った。
それは断じて、木々のシルエットなどではない、もっと別のものだった。
「あれはなんだ」
漆黒の闇の中に、青白い光を発して、何かが浮かび上がっている。
私は叫んだ。
「島だ!飛行島だ!」
それが飛行島であることに疑いはない。それまでなにも存在していなかった漆黒の闇に、突然島が浮かび上がったのだ。
だが、島はあっという間にはるか彼方へいってしまった。といっても、島が高速で移動しているわけではなかった。私たちの乗っている特急が速いことが仇となってしまったのだ。
窓に顔をつけて見ても、すでに島の影も形もない。ただの闇である。
「くそっ、島が!せっかく現れたのに、もうなにも見えなくなってしまった」
私は地団駄を踏んだ。
すっかり寝入っていた彼が起き上がり、寝ぼけ眼を擦りながらくぐもった声で言う。
「な、なんの騒ぎですか」
私は頭をかいた。すぐそこに超弩級の手がかりがあるのに、見過ごすしかないなんて。
彼はあくび混じりに言った。
「ちょ、ちょっと。いったい何があったんですか」
「飛行島を見たんだ」
「あの伝説の島をですか?そんなわけないでしょう」
「本当に見たんだよ、私は」
ぼそっと呟くと、どさっと座席に身を投げた。
「まさかあ」
彼はまったく信じていないようである。
私は頭にきて、はねつけるように言った。
「もういい。隼人には関係ないことだからな」
その時列車がガコンと大きく揺れ、鼓膜が破れそうなほど大きな車輪のきしむ音がした。
列車は止まり、真っ暗になる。停電か。
私は外に何が起きたのか見に行こうとした。
座席を立ち上がると、暗い廊下に懐中電灯を手にした男がぬっと立っていた。
「だ、誰だ」
よくよく見ると車掌だった。犬のようにおとなしそうな顔をしているが、気味が悪いほどに無表情でこちらを見つめている。
車掌は抑揚のない声で言った。
「車両の故障が発生いたしました。お客様にはご迷惑をおかけいたしまして、大変申し訳ございません」
私は車掌に尋ねる。
「どこが故障したんですか」
「今のところ原因はまったくわからず、復旧の見込みはたっておりません」
彼が抗議するように言う。
「たっておりませんって、じゃあ僕たちはいったいどうしたらいいんですか」
「皆様にはここでお待ちいただくか、次の名張まで歩いていただくしかありません」
「歩くだって!」
彼は、腕を組んで唸った。
「次の駅までどれくらいあるんですか」
「約十キロほどですので、歩いて一時間半ほどではないかと」
私は少し考え呟く。
「歩けない距離ではないな」
「ええっ!霜村さん、歩くつもりですか」
私はきっぱりと言った。
「赤目で見つかった死体の件もあるし、いま見えた島の件もある。
次の町を調査の足掛かりにするのが最上だと思うが。列車がいつ動くか待っているよりも、歩いた方が断然いい」
そういうことで私は歩くことになり、彼も一人で残るわけには行かないので、渋々ついてきた。
列車から降りると、頬を切り裂くような寒くて冷たい風が吹きつけてきた。
私は慌てて昨日買った、羊の耳当てを取り出す。
これがあって本当に良かった。伊賀の寒さは、京都とはわけが違う。
地図を車掌に描いてもらい、懐中電灯も借りた。次の町まで歩いていこうという変わり者は他にはおらず、みな列車に残るようだ。
そういえば、その町に男の死体が運び込まれたと言っていた。はたして死体は神木さんか否か。それがまず次の町、名張で明らかにしなければいけないことだ。
暗い道のなかを、たった二人で名張まで歩く。何が起きてもおかしくない地、伊賀の道を。
やがて前方に、建物のかたちと、かすかな明かりが見えてきた。
「霜村さん!町です」
地図を手にした私は、ほっとして言う。
「ああ、ようやく名張についたようだな」
夜更けの名張は濃い霧に包まれていた。
濡れた地面からは苔が生え、石の壁は黒ずんでいる。七体並んでいる地蔵がこちらを見つめるようにして立っている。
七地蔵。右から祖父地蔵、祖母地蔵、父地蔵、母地蔵、子供地蔵、 結び地蔵、賢者地蔵と書かれている。
その奇妙な地蔵は、古代の信仰のまがまがしさを思い起こさせ、私はえたいの知れない不安に、胸が塞がれた。
京都駅に私たちはいた。京都駅は日本でも有数の大きな駅で、プラットホームがいくつも並んでいる。
天井は鉄骨のドームで、警笛や人のざわめきが反響し、見知らぬ地への旅立ちをいやがうえにも盛り立てる。
気品ある風格と威厳をもたらせるべく、高い天井となっており、効率一点張りのそこらの大都市の駅とは、そもそも駅としてのレベルが違う。
いよいよ京都線特急に乗り込み、伊賀方面へ出発だ。私は駅で駅弁を買い、ホームへと向かった。
彼は相変わらず階段でけつまずいたり、通路で人とすれ違うときに何度もぶつかったりして周りに迷惑をかけまくっている。
私は本当に彼を、大事な旅につれてきて良かったのだろうかと少し思った。神木さんや『科学の真髄』のこともあるので、かなりの慎重さが要求される旅だと思うのだが、大丈夫だろうか。
座席の番号は 七 。神木さんと同じものを見るために、彼が座っていたのとあえて同じ座席にした。
座席に座ろうとしたとき、強い視線を感じて、私は振り向いた。
連結扉の前に、一人の男が鞄を手にして立っている。ピシッとしたスーツを着て、口髭を生やし、サングラスをかけている。
私に注視されていることを悟ると、男は鞄から携帯をとり出しさりげなく視線を落とした。
私の鞄をひったくろうとしたやつだろうか。
いや、あの男はもっと背が高かったし、年寄りだった。
「霜村さん。何してるんですか。早く座ってくださいよ」
横から彼が呼んでいる。私はその時、彼が誰かに鍵をとられてしまったという話を思い出した。
どうしようか。彼にあの男を見てもらうか。怪しい男がこちらを見ているが、見覚えはないかと。
「隼人」
私は小声で呼び掛けた。
「なんですか」
「ちょっとこっちに来てくれ。確認してもらいたいことがあるんだ」
彼は、怪訝な顔持ちで立ち上がった。
「見てほしい人がいるんだ。あの人なんだが」
私はそっと、男が立っている連結扉の方に顔を向けたが、そこには誰の姿もなかった。
「あれっ?」
私は驚いた。注意を座席に向けていたほんの一瞬で、男はいなくなってしまったのだ。
「おかしいな。変な男があそこに立って私たちを見てたんだが」
「誰もいないじゃないですか。席がわからなくって迷ってたんじゃないんですか」
「いや、とてもそんな風には見えなかったんだが」
「なんにもないんなら、僕は戻りますよ。窓から見える景色が素晴らしいんです。霜村さんも早く座ってくださいよ」
言うなり彼は、座席に座ってしまった。私は誰もいない通路を一睨みすると、座席に座った。
京都線特急の車内は、ブロンズ色に塗られた高級仕様のラインデリアといい、アンゴラ山羊の毛で織り上げた手触り抜群のシートといい、かなりの豪華さだ。もちろん特急なので、速度もかなり出ている。
列車はすでに京都郊外にさしかかり、窓から見える景色は、目に染みるような緑のお茶畑に変わっている。
祖父さんに、借金をしに行くという情けない状況にも関わらず、彼は窓に顔をペッタリとつけて、楽しげに歌を口ずさんでいる。
私も目を細め、なだらかに続く丘と、風に揺れる茶の葉を見つめていた。まさに窓に描かれた動く絵画だ。私たちはしばらく、その光景に見入っていた。
正午になったので、駅弁を出して食べることにした。牛を砂糖としょうゆで炊き込んだ関西風のすきやき味で、ごぼうや糸こんにゃくにも牛肉からでた旨みが染み込んでいて、味のバラツキがなく私みたいな女性でも食べきれる、程よいボリュームだった。
お腹が一杯になったあとは楽しみにしていたゲームをする。
驚いたことに、彼はゲームが異常に強かった。私がやるゲームは難しいことで有名なのだが、彼は最高難易度をいとも容易くクリアしてしまった。最高難易度をクリアできる人なんて、私は初めて見た。やはり彼は天才らしい。
そうこうしているうちに、空の色が変わってきた。薄水色をした空が、しだいに濃い黒色に染まってゆく。くれゆく空は、胸がきゅんとなるほど美しい。
川の上をわたる橋にさしかかったとき、私は思わず歓声をあげていた。白や桃色に色づき始めた山々、はるか眼下を流れる川、かなたには青く霞んで見える切り立った峰々。この時間帯の列車だからこそ望むことができる、夢のような大景観だ。
「本当に素晴らしい。これが春の醍醐味だな」
夏も秋も美しいだろうが、春の山の鮮やかな色彩はまた別格だ。
だが、進んでいくに連れて、豊かだった緑は少なくなり、風景は寂しく、荒涼としてきた。
やがて、空に蓋でもされたかのように、辺りは一気に暗くなった。
「そろそろ三重県だろうか」
私は呟いた。
三重県。
そのなかでも伊賀というものはまるで違う世界に迷い混んだように感じられる。
不思議と神秘と、そこはかとない邪悪の気が渦巻いているような。
視界は深い闇で閉ざされ、光源となるのは弱い月の明かりだけ。
その昔、忍者が住みかとしていたところだけあり、周りは山に囲まれ、隔離されているようにも感じる。
湖が点在しているのか、ときおり月の光が水に反射して揺らめく。
不意に思った。ここは闇が支配する地なのだ、そしてこの地では、どんなに不思議なことが起きてもおかしくないと。
その時、洗面所に行っていた彼が、晴れ晴れとしない顔で戻ってきた。
「どうしたんだ、隼人。トイレから落ちそうになったのか」
私の冗談に少しも取り合わず、彼は言った。
「実はいま洗面所から帰ってくるときに、車掌さんが誰かと話をしていたですけどね。そこで妙な話を聞いたんです」
私は彼に尋ねた。
「妙な話とは?」
「実はこの先の赤目で、身元不明の男の死体が見つかったらしいんです」
「なんだって」
私は叫んだ。私は真剣な表情で、彼に問いただす。
「それは何歳くらいで、どんな風体なんだ」
「いや、詳しいことはわからないですけど、死体はこの次の町、名張に運ばれたらしいですよ」
まさか、死体は神木さんではないだろうか、彼は私の到着を待たずして、亡くなってしまったのだろうか。なくなる前に伝説の飛行島を見つけ、そこで『科学の真髄』を手に入れたのだろうか。
様々な疑問が頭を埋め尽くす。私は顎に指を当て、じっと考え込む。
彼は旅疲れのせいか、私の横でぐうぐうと居眠りを始めた。
安藤との約束のせいで、『科学の真髄』のことも神木さんのことも話せないので彼が眠ってくれたのは非常に好都合だ。
私は窓側に陣取り、空から長い間、目を凝らして一心に窓の外を見つめていた。だが、目にはいるものは、月明かりに照らされる背の高い木々のシルエットや、湖だけだ。
飛行島はおろか一軒の家すらもない。
私は凝ってしまった肩と首を回しながら考えた。
どうやら今日は外れだったのではないか、そうそう島だって都合よく現れるはずもない。なんといっても伝説の島だ。日本各地をあちこちさまよっているのかもしれない。
諦めかけ、窓から目をはずそうとした私の視界の中になにかが写った。
それは断じて、木々のシルエットなどではない、もっと別のものだった。
「あれはなんだ」
漆黒の闇の中に、青白い光を発して、何かが浮かび上がっている。
私は叫んだ。
「島だ!飛行島だ!」
それが飛行島であることに疑いはない。それまでなにも存在していなかった漆黒の闇に、突然島が浮かび上がったのだ。
だが、島はあっという間にはるか彼方へいってしまった。といっても、島が高速で移動しているわけではなかった。私たちの乗っている特急が速いことが仇となってしまったのだ。
窓に顔をつけて見ても、すでに島の影も形もない。ただの闇である。
「くそっ、島が!せっかく現れたのに、もうなにも見えなくなってしまった」
私は地団駄を踏んだ。
すっかり寝入っていた彼が起き上がり、寝ぼけ眼を擦りながらくぐもった声で言う。
「な、なんの騒ぎですか」
私は頭をかいた。すぐそこに超弩級の手がかりがあるのに、見過ごすしかないなんて。
彼はあくび混じりに言った。
「ちょ、ちょっと。いったい何があったんですか」
「飛行島を見たんだ」
「あの伝説の島をですか?そんなわけないでしょう」
「本当に見たんだよ、私は」
ぼそっと呟くと、どさっと座席に身を投げた。
「まさかあ」
彼はまったく信じていないようである。
私は頭にきて、はねつけるように言った。
「もういい。隼人には関係ないことだからな」
その時列車がガコンと大きく揺れ、鼓膜が破れそうなほど大きな車輪のきしむ音がした。
列車は止まり、真っ暗になる。停電か。
私は外に何が起きたのか見に行こうとした。
座席を立ち上がると、暗い廊下に懐中電灯を手にした男がぬっと立っていた。
「だ、誰だ」
よくよく見ると車掌だった。犬のようにおとなしそうな顔をしているが、気味が悪いほどに無表情でこちらを見つめている。
車掌は抑揚のない声で言った。
「車両の故障が発生いたしました。お客様にはご迷惑をおかけいたしまして、大変申し訳ございません」
私は車掌に尋ねる。
「どこが故障したんですか」
「今のところ原因はまったくわからず、復旧の見込みはたっておりません」
彼が抗議するように言う。
「たっておりませんって、じゃあ僕たちはいったいどうしたらいいんですか」
「皆様にはここでお待ちいただくか、次の名張まで歩いていただくしかありません」
「歩くだって!」
彼は、腕を組んで唸った。
「次の駅までどれくらいあるんですか」
「約十キロほどですので、歩いて一時間半ほどではないかと」
私は少し考え呟く。
「歩けない距離ではないな」
「ええっ!霜村さん、歩くつもりですか」
私はきっぱりと言った。
「赤目で見つかった死体の件もあるし、いま見えた島の件もある。
次の町を調査の足掛かりにするのが最上だと思うが。列車がいつ動くか待っているよりも、歩いた方が断然いい」
そういうことで私は歩くことになり、彼も一人で残るわけには行かないので、渋々ついてきた。
列車から降りると、頬を切り裂くような寒くて冷たい風が吹きつけてきた。
私は慌てて昨日買った、羊の耳当てを取り出す。
これがあって本当に良かった。伊賀の寒さは、京都とはわけが違う。
地図を車掌に描いてもらい、懐中電灯も借りた。次の町まで歩いていこうという変わり者は他にはおらず、みな列車に残るようだ。
そういえば、その町に男の死体が運び込まれたと言っていた。はたして死体は神木さんか否か。それがまず次の町、名張で明らかにしなければいけないことだ。
暗い道のなかを、たった二人で名張まで歩く。何が起きてもおかしくない地、伊賀の道を。
やがて前方に、建物のかたちと、かすかな明かりが見えてきた。
「霜村さん!町です」
地図を手にした私は、ほっとして言う。
「ああ、ようやく名張についたようだな」
夜更けの名張は濃い霧に包まれていた。
濡れた地面からは苔が生え、石の壁は黒ずんでいる。七体並んでいる地蔵がこちらを見つめるようにして立っている。
七地蔵。右から祖父地蔵、祖母地蔵、父地蔵、母地蔵、子供地蔵、 結び地蔵、賢者地蔵と書かれている。
その奇妙な地蔵は、古代の信仰のまがまがしさを思い起こさせ、私はえたいの知れない不安に、胸が塞がれた。