第23話 武蔵の遺髪の中から一本を抜き取った

文字数 1,707文字


 そこは阿蘇山麓の草原。あたりに人は誰もいない。見渡す限りいるのは馬くらいのものだ。
 明暦三年(1657年)晩春。宮藤兵乃進はそこを訪れている。武蔵の死後から12年が経っていた。
 兵乃進の用向きは、このあたりに生息する在来固有種肥後馬の調査だった。噂によると、肥後馬の中になんと木に登る馬がいるらしい。
 あり得ない、と兵乃進は(いぶか)った。訝ったが、父武蔵が五輪の書の火の巻を書くきっかけを阿蘇の麓で得たと耳にしていたので、寧ろその御礼参りの意味の方が大きかった。木に登る馬などは初めから信じていない。
 ところが、その草原に来てみると、信じられぬことに1本の杉の木の上に馬が登っているではないか。間違いない。目を凝らしてみてもそれは馬だった。
 兵乃進は叫んだ。
「うわさはまことであったか!」
 見ると、馬は木に乗っているのではなく木にしがみついている。まるでサルのごとく。
「さては、サルと馬の異種交配か!?」
 それをまず疑った。ロバと馬の交配は聞いたことがあったが、まさかサルと馬の・・・。兵乃進はこの不思議な生き物を木の下からまじまじと観察した。するとこのサルみたいな馬は逃げるように木から木へと飛び移った。兵乃進はこのサル馬(?)を追った。
 サル馬は、杉林に入っていく。兵乃進は懸命に後を追った。
 行き着いたのは林の中の泉である。ただの泉ではなさそうだ。湯気が立っている。おそらく熱水が湧き出ているのだろう。火山地帯にはこうした地下から湧き出る温泉がたまにある。
 そこで兵乃進が見たものとは、あのサル馬がこの温泉に浸っている姿だった。サル馬だけではない。本物のサルも何匹か一緒に湯に浸かっている。
「なんとも不思議な光景たい。馬とサルの混浴じゃ」
 兵乃進は夢でも見ているのかと思った。
 サル馬がこの泉の水を時折飲んでいる。
「どうやらあの水に秘密がありそうじゃな」
 兵乃進は彼らを刺激しないように、泉に近づき、竹筒にその水を汲んでひとまず一旦持ち帰った。
 家に戻り調べてみると、水には何かの動物の体毛らしきものが切れ切れに浮いていた。それがサルの体毛であることは後日再びあの温泉を訪れて水の中に浮いていたサルの毛と付合して確信した。
 さらに、この水の中に不思議なものが混じっていた。それは金色に光る微粒子だった。
「もしや金か?」
 兵乃進は砂金かと思い喜んだ。しかしよおく目を凝らしてみると、砂金とは少し違う。その粒子はなんと自律的に動いている。サルの毛にくっ付いたり離れたりしている。粒子のついた箇所の毛が少しずつ溶けていくのを兵乃進は発見した。
「こりゃ生き物たい。こんまか虫たい。サルの毛ば食いよる」
 その見たこともない小さな金の生物はおそらく阿蘇山の地中から湧き出てあの泉に生息しているのだろう。動物の毛を食って。
 兵乃進は思った。
「ひょっとしてこいつがあのサル馬を作り上げとるんじゃなかと?」
 そう仮説した。試しに、この微生物が入った水を犬に飲ませてみたところ、なんとその犬は木によじ登ったのである。サルのごとく。
「間違いなか!」
 兵乃進は小躍りした。
 この泉の水の秘密を兵乃進は誰にも明かさなかった。自分ひとりで試してみたいことがあったからである。
 宮本の本家には剣聖の遺品が多く残されていた。世を圧倒した武芸である。しかも誰にも継承されなかった二天一流の技である。せめて形見だけは綺麗にと武蔵の子孫たちは、剣や稽古で使った木刀、甲冑、そして剣聖直筆の五輪の書を大切に保管していた。その中には刀剣を置いた武蔵が後に切り落とした(まげ)、すなわち遺髪もあった。
 落とし胤である兵乃進には武蔵の遺品を何一つ分け与えてもらえなかった。本家との交流もまったくなかった。
 そこで兵乃進は夜中に本家の蔵に忍び込み、武蔵の遺髪の中から一本を抜き取った。遺髪は形を変えぬまま木箱に戻され抜き取られたことを誰ひとり気づかなかった。
 兵乃進はこの一本の遺髪をあの微生物が混入する泉の水に混ぜた。水はサルの体毛を除去してある。代わりに武蔵の毛が入った。
 金の微生物が武蔵の毛を食い荒らす。武蔵の遺髪が溶け入ったこの水を、兵乃進は一気に飲んだ。
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