第8話「マイルCとJCの穴馬談義」(2020年ジャパンカップ予想編:その3)

文字数 5,042文字

「しかし今年のG1、ルメール様は無双だねぇ」
そう評する稟音は源司の左腕にまとわりつき、右側の久美が微笑ましそうにやや後方で寄り添う。
「ジャパンカップも勝っちゃうんですかねぇ」
呼応する久美たちは踝までのコンバットブーツの音を響かせていた。
「十分あり得るなぁ」という中年親父と美女二人が並んで歩くと、相対する通行人は奇妙な目をして避けて通る。
門前仲町駅近くの雪乃の喫茶店に向け、凸凹三人組は道行く歩道一杯に拡がっていた。
ミニスカ姿で十一月末でも寒くないのかと要らぬ心配を投げる源司がマイルチャンピオンシップの感を述べる。

「グランアレグリアは凄かったよな」
「直線どうなるかと思いましたよぉ」
「前の馬に塞がれ進路が取れなくて、外に持ち出してからの末脚は鬼レベルだぜ」
久美が緊張で強張ると、コース選択で苦労したであろうジョッキーの冷静さも称える稟音が白い歯を見せる。
「インディチャンプとアドマイヤマーズの強い牡馬を従えてのG1三連勝するヒロインは格好良過ぎるぜぇ」
朱塗りの八幡橋、日本最古の鉄橋でドラマの撮影スポットで稟音は主演女優のようにわざとらしく、科を作りながら歩くのが滑稽だ。
品のある住宅と木々が多い細い道は東京都心に近いのを忘れさせてくれる。

富岡八幡宮へ脇から入る。
境内の一角にある横綱力士碑に一同一礼して行く。
ご本殿で三人一緒に柏手を打ちお参りする。
競馬ファンとしては神様や横綱に肖りたいというところか。
源司が他力本願になるのも仕方ない、最近は的中馬券にソッポを向かれているのだ。
「直線で外からサリオスが伸びた時は一瞬、声を挙げて応援したけど」
寂しそうに語る男はグランアレグリアとサリオスで馬券を組み立てたらしい。
「休み明けを嫌ってのインディチャンプ、買えなかった」
ボソリとした呟きに稟音が「えっ!」と驚き、目を丸くする。
「外厩トレーニング施設が併用出来る今日び、休養明けなんかハンデにならないじゃん!」
口を閉じる男に追い打ちを掛ける。
「だったら何で、休み明けを一叩きしたアドマイヤマーズを買わないんだよ」
どういう基準で馬券を買っているのか?と稟音が見透かした源司に白い眼を横から流した。
お前何年競馬ファンやってるの?これじゃあ馬券の神様も逃げていくよとツインテールを左右に振る。
雰囲気のある街並みを通り抜け、散歩しながら「雪乃っちの喫茶店」に向かう。
本来は楽しいはずの三人が押し黙る。

「サリオスくん頑張りましたね」
薄い笑みを浮かべる久美の腕が源司に触れる。
「1,000m58.5秒か、マイルでこのメンバーで後方からかぁ」
「レースの上り33.5秒で、ケイバも外目外目だったしな」
残念がる稟音のツインテールと源司の呼吸が下を向く。
久美が意を決したように珍しく大声を出す。
「ほらほら、源司さんも稟音ちゃんも雪乃先輩に会うのにいい顔しましょうよ」
気持ちを切り替えた元気娘が二人の背中を同時に叩く。
目を見開いた先に明媚な破顔が飛び込んで来た。
「よし、雪乃っちの店でハムカツサンドを喰うぞぅ」
「稟音ちゃん、食べますよぉ」
「おーっ」という掛け声の美女二人が天に向け腕を突き上げると、漸く源司も相好を柔らかくしていた。

門前仲町駅近く、赤い庇の屋根に「Vivace」と白く染め抜かれるオシャレな喫茶店だ。
店名はイタリア語が語源で「生き生きと速く」の意味は競馬ファンには持って来いの店だ。
ランチタイムの終了間近、店内にいた最後の客と入れ違いになる。
源司がドアを開け続けると、隙間から稟音が店内に滑り込むと久美が続く。

「稟音ちゃん、久美ちゃん、いらっしゃい」
しっとりとした懐かしい女性の声音に稟音が口を開く。
「雪乃っち、ハムカツサンドのセット、三人前ね」
「頼んだよ」と宣言した稟音はカウンター越しの妙齢の女性に三本の指を立てた右手を突
き出した。
源司が何で稟音がいきなり三人分オーダーすると訝しむと「二等兵と軍曹は少佐の命令を
聞け」とミリタリージャケットの階級章を指さした。
我が家のように大股で軍靴の音を響かせた稟音は店の奥の四人席へ腰を下ろし、足を組ん
むと源司が相対する。
久美はミニスカートを隠すように前屈みで稟音たちの隣にある四人席へ一人で座る。
ランチタイムが終わった午後、四人のみの店内、後で雪乃が久美の席へ来るという。

サイフォンを見ていた喫茶店のオーナーは高い位置で纏めた漆黒の髪を振りかざして
和風人形のような細い目を更に細めた眼を源司に向けた。
「あら、源ちゃん、オヒサねぇ」
「白井さん、ですか?」
懐かしい声音へと源司が驚嘆を投げる。
「店と下の名前だけじゃなくて、私自身を忘れていた?」
テーブルに水を運ぶ白井雪乃は五歳年上の和風美人で源司と稟音を競馬に引き込んだ張本
人だ。
「競馬は大マスターの趣味だったでしょ」
源司と稟音が競馬を始めたのは他界した「大マスター」と呼ばれた雪乃の父の影響だと言い
張った。
この喫茶店は学生割引があり、大学生の頃の稟音と源司は重宝していた。
社会人になってから、特に最近は足が遠のいていた。
名物の絶品ハムカツサンドはコーヒーとのセットで千五百円する。小遣いが限られる源司は安々と暖簾を潜るのは厳しいのでここ暫く、足と記憶が遠のいていた。



首を捻る男の記憶が段々戻って来ると疑念が湧く。
確か、雪乃は源司より五歳年上のはずだ。
だが目の前の雪乃はどう見ても源司と出会った二十代半ばの姿だ。
「雪乃さん、歳は幾つでしたっけ?」
「源ちゃん、女の人に歳聞かないでよ」
雪乃が屈託なく笑うとコーヒーとハムカツサンドがテーブルに届く。
「源司、雪乃っちが若くて何が悪い?」
「罰を与える」と言う稟音は源司の目の前に置かれたハムカツサンドを奪って口にする。
 一体何だと目を見張り唖然とする男の額にデコピンを見舞う。
「雪乃っちの歳を訊いた、罰だよ」
白井雪乃の姿も稟音の影響下か。
ハムカツサンドを咀嚼する稟音の説明は凄く聞き取りにくい。
吹きそうな微笑みの久美が口内の味わいを必死に堪えていた。

「で、源ちゃんはどうするの?」
サイフォンを操作する雪乃が細い目を下げて源司に向く。
「アーモンドアイ、コントレイル、デアリングタクトは直ぐにピックアップ出来るんですが」
他の馬をどうしようかと言う、競馬ファンなら誰もが思う悩みだろう。
「凄いお馬さんたちですねぇ。素晴らしいレースが早く観たいです」
屈託のないスマイルを表す久美が手を合わせて期待を込める。

「そおねぇ、三強なのか?三頭以外もあるのか?」
「レース検討のポイントだよなぁ」
口を結んで雪乃が右手を顎に当てた考えに、稟音も二つに分けた髪を上下さす。
「仮に三強だとしても損しない券種と買い目、配分が難しい」
源司が馬券への苦悩を披露すると久美が尋ねる。
「三頭さん以外なら、どのお馬さんですかぁ」
久美の問いに稟音と源司の息が止まる。
「久美ちゃん、いい突っ込みね」
久美に笑みを振った雪乃は自身と三人へのお替わりコーヒーを持って来る。
礼を言う三人に雪乃が「馬を選ぶ前に」と言い置いて、続ける。

「三強で決着するのか、そうでないのか……」
雪乃は空いている久美の前に座ると三人は固唾を呑んで顔を向ける。
「……三強が崩れるとしたら、どういう形か」
鳩首協議を面白がる雪乃が笑いを吹く。
「難しいわね。私たち一般の競馬ファンじゃ分からないわね」
「何だよそれー」という期待外れを悔しがる稟音に源司も同意の嘆息を吐く。
「でもね……」
静かに聞いてと雪乃先輩が右の人差し指を立て、口を塞ぐ振りをする。
少し古いけどと前置きし。
「……シンボリルドルフとミスターシービー、メジロマックイーンとトウカイテイオー。世紀の対決と評されたレースで額面通りの決着ってなかなかないわねぇ」
雪乃が目を瞑りながらコーヒーカップに口づけをしてコーヒーの苦みと酸味を愉しむ。
「でも、ジェンティルドンナとオルフェーヴル、凱旋門賞馬のソレミアが揃った対決もあったな」
その源司の問いに手を合わせて雪乃が応える。
「あれも凄かったわね。三番人気のジェンティルドンナが一番人気のオルフェーヴルをハナ差凌いだマッチレースよね」
冷静に分析する美女が黒髪を揺らして「そういうこともある」と述べて、続ける。
「ま、三強かそうでないかが分かれば馬券は当たったようなものね」
相好を崩す雪乃がコーヒーを勧めると三人も深い味わいに納得する。

「それが分かれば苦労はないよぉ。雪乃っち」
両肘を着いて怪訝そうな顔を両手で支える稟音が愚痴を零す。
「でもね、競馬には絶対がない」
落ち着いたしっとりとした大人が妹のような稟音に諭した。
源司が腕組みして「そうですね」と語り、久美も栗色の髪をアップダウンさせる。

「三強以外、先行する馬と差してくる馬、それぞれピックもアリじゃない?」
艶やかな黒髪を左手で整えると雪乃は再びコーヒーカップにキスして続ける。
「まあ、キセキがいるしね。レース自体どうなるのか分からないわよ……」
キセキについては逃げるのか、控えたとしても折り合うのかが皆の頭に過ぎる。
「……1枠にはカレンブーケドールが入って、噂ではヨシオが逃げ宣言してるようだしねぇ」
乱ペースになるのか、波乱の可能性を三人に示唆する。
「厳しい競馬になるのは必定。前と後で競馬する好きな馬を何頭か選べばいいじゃない」
コーヒーカップがテーブルに置かれ「三強が崩れるならば、経験の面かしらねぇ」と雪乃が続ける。

「ふふ」と微笑を零しながら「デアリングタクトのお嬢さんは差し切れるのかしら?」とコーヒーに向け息吹を掛ける。
可愛くて好きな馬だから「お嬢さん」なのよと、嬉しがる。
「オークスのような四コーナーでも後方の競馬はしないと思うけど?」と源司が口を挟む。「秋華賞の競馬で間に合うかよねぇ」と雪乃が切り返す。
秋華賞は後方から三、四コーナーで好位に取り付く競馬だが「後位に押し上げるのに脚を使うでしょう」と斤量のアドバンテージを活かしたとして「それでも末脚を繰り出せるのか?」と加える。
別に馬や携わる方々をどうのこうの言うつもりはないとも断言しつつ。
「秋華賞二着マジックキャッスルとアーモンドアイは同厩舎よね」と含んだ笑みだ。
ミリタリージャケットを着る三人組は固唾を呑みながら「マジックキャッスルが来年G1取る可能性があるわね……」「……一競馬ファンとしてはエリザベス女王杯出て欲しかったなぁ」との評を聞き入る。

「四コーナーで『お嬢ちゃん』より前目の競馬をするのは?」
雪乃が『お嬢ちゃん』に親しみを込めて、深い漆黒の双眸で三人の顔を嘗め回す。
「アーモンドアイ」と源司。
「コントレイルくん」と久美。
「グローリーヴェイズもだろうし……」「……スタート五分でマトモな競馬ならキセキも」と稟音が期待を込める。
「カレンブーケドールもそうよねぇ」と雪乃が目を閉じて再びコーヒーの憂き目を味わう。
「さて、『お嬢ちゃん』が一気に纏めて面倒を看るのかしら?」
お道化る雪乃は見開いた艶美な眸子の中へ三人を吸い込み、唱える。
「アーモンドアイ……」
美麗な瞳が物語る。
「……女王様以上なら」
ジャパンカップは『お嬢ちゃん』が絶対女王へ君臨する継承式で、凱旋門賞への第一歩になる、と。
「コントレイルくんが勝ったら王様の戴冠式ですね」
雪乃の想いに久美が憧憬を重ねると、源司も稟音も王家の果てしない可能性を望んでいた。

「ま、仮の話として……」
一呼吸置いた雪乃が静かに口を開く。
「……厳しい競馬で乱戦になるなら、他の馬が突っ込む可能性は十分にあるわね」
そう話題を切り替え、「三強」以外の可能性を追求する。
「乱戦になるなら、秋シーズン一回は競馬を使うか、波のあるタイプよりどんな競馬でも大崩れしない馬の台頭が気になる」
黒髪を揺らしながら囁いた。
殿堂入りするであろう三頭の真剣勝負へ挑むには休養明けはどうかな?とも呈した。
「配当的にも多少多めに選んでもOKでしょ?」
雪乃はウインクして戯けて見せる。
芦毛が好きな彼女は馬場適性が未知数だけどと前置きしてウエイトゥパリスも遊びで応援し、六年連続馬券に絡んでいる「白い帽子」の1枠カレンブーケドールも買いたいという。
漆黒の髪を揺らす妙齢の女性に源司もカップ片手で顔を赤らめ目線を釘付けにする。
稟音が源司の足の甲を思いっ切り踏んづけると小さい悲鳴を鳴らす。
コンバットブーツでも痛いものは痛い。
目に涙を滲ませた源司に雪乃も久美も笑顔を向ける。
ただ、稟音だけは頬を暫く膨らませていたが。
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