第1話「初恋の人、稟音との再会」(2020年天皇賞秋予想編:その1)

文字数 5,605文字

「コントレイルーッ!!」
稟音はツインテールを乱舞させ、中京競馬場の第四コーナーへ叫んだ。
リビングのソファーで真剣な表情で、胸に乗せた両手を握り締め、念じる。
菊花賞トライアルの神戸新聞杯は最後の直線を向くが、コントレイルは馬群の中だ。
このまま包まれたままで終わってしまうのか。
彼女の祈りが通じたのかグランデマーレとディープボンドに狭間が生じる。
迷うことなくコントレイルが鋭い脚で破目を割る。

「福永ーッ!」
源司が白髪交じりの髪を震わせ、貫禄がある腹から男声を稟音の隣で張る。
85インチのテレビからの競馬実況を掻き消すように男女の絶叫がリビングに響く。
腰を屈める源司はソファーから液晶大画面へ身を乗り出す。
コントレイルと福永騎手は人馬一体となり、少し気合いを付けて先頭に立つ。
馬群を抜け出せれば、レースはコントレイルのものだ。
二百の標識を切ると後続を突き放なそうとする。

「よっしゃーっ!」
「いけーっ!」
同時にソファーから飛び上がる源司四十五歳と妙齢の稟音が腕を天井に突き出した。
勝負あったか、焦点は二着争いとなる。
内でロバートソンキーがディープボンドを振り切る。
ヴェルトライゼンデもディープボンドを抜き、ロバートソンキーに襲いかかる。
「ヴェルトライゼンデッ!」
「兼一ッ!」
若々しい声の稟音が馬名を、渋い声音の源司が騎手名を挙げる。
立ち上がる二人は諸手を掴み合い、食い入るように先頭の馬を追い続ける。
コントレイルは悠々と先頭を飛躍し、ゴール前では抑える楽勝となる。

「コントレイルー!」
感極まって再び馬名を挙げる勝利の雄叫びは、稟音と源司の男女混声合唱だ。
「これでコントレイルは六連勝だねぇ」
可憐な息を厳つくした稟音は昂ぶって源司の頭やら肩などを何度も叩く。
これは堪らんと源司が逃げるように離れる。
今日の競馬はコントレイルの凄さを再び際立たせたに過ぎなかった。

「史上三頭目の無敗三冠馬に王手だ」
軽い痛みが心地良い源司がコントレイルを評した。
二着は二人の声援を受けたヴェルトライゼンデが確保する。
「よし、馬連取った!」
鋭い語勢の稟音が右手に拳をつくり、腕を引く。
「②-⑱を一点で仕留めたぜ、一万円」
馬券的中を祝う源司は右手の親指を突き出した。
稟音がブラウンリブニットにネイビーサーキュラースカートの裾を翻して拳を突き返す。
うら若き女性と中年男性が二人して喜び合うハイテンションだ。
2020年9月27日の日曜午後、曇る秋空を払拭するようにリビングは興奮に包まれた。

「稟音、久しぶり」
「源司、久しぶりだねぇ」
元の恋人で競馬ファンの源司と稟音が腕を振りかざして手のひらを叩き合う。
好きな馬が勝った時に出るのが稟音とのハイタッチだ。
二十五年前は府中や中山、大井などで交し合ったものだ。

前田源司は四十五歳。
腹回りと頭髪に少し混じる白髪と胴回りが気になるお年頃だ。
職業は都内某中堅システムインテグレータの営業、役職は課長補佐、その名の通り課のナンバーツーとして課長を補佐し後輩をフォローする立場となる。
昨今の事情により、最近は社内外ともテレワークが中心でリモート会議が多く、SI会社の営業でも複雑な操作にうんざりすることも多いのが悩みであるが。
テレワークは自宅マンションから出不精で運動不足になりがちになる。
平日昼から自宅に籠もっての仕事は、妻と女子高生の娘と一緒だと息苦しくもあった。
娘が成長して荷物が増え手狭になっただけではないのだろう。

源司がトランクルームを借りようとして、ひょんなことから初恋の人、稟音が住む一戸建てを訪れていた。
驚いたことに四半世紀を経て再会した稟音は二十歳の姿のままだった。
別れた時と同じ形貌は理屈抜きの不思議なお伽噺のようだ。
変わっているのは髪型で、当時はショートヘアが、今はツインテールだ。
まるで競馬を楽しむためツインテールを振りかざした稟音と「コントレイルが出走した神戸新聞杯」を一緒に観戦し、勝利を見届けた。
そして話は稟音と再会する数時間前に遡る。
源司は自らの立ち位置から思い出していた。

*************************************

「アンタ、四十五歳にもなって、まだ競馬なんてやっているのかい?」
同い年である妻の久美から歪めた口で「無駄なこと」と嫌みが飛ぶ。
9月27日の日曜日午前、手狭な自宅マンションのリビングで源司は競馬を観戦しようとした矢先だ。
窓先から源司の住む東京・深川を覆う鈍色の秋の曇り空へと顔を背ける。
源司の眉間に皺を寄せるのはテレビ画面の眩しさだけではないのだろう。
毎年体重が増え続ける妻は大学の同級で、長い付き合いとなる源司も辛い立ち位置だ。

「久美も昔は競馬を楽しんでいたじゃないか。また、競馬、やってみないか」
久美と付き合い始めた二十歳の頃は一緒に競馬を楽しんでいたのにと源司は残念がる。
現実の久美はくびれをなくした腰に両手を当て、源司を睥睨する。
「まったく、競馬なんて過去の汚点だよ。アンタがくだらないことを教えてさ」
源司が恋人の久美に競馬のレクチャーをしていたのが、黒歴史扱いだ。
窓の隙間からの風が源司の首筋を冷たく擦る。

今では源司は立派な恐妻家だ。
恐妻家というより、久美本人は箸が転がっても怒ったり、嫌みを言うように変わり果てていた。
結婚前、恋人だった頃の優しく可愛い久美、昔に戻れないかとの募る夢想を飲み込む源司がいた。

「お父さん、また競馬でお母さんを困らせているの?」
一人娘で高校一年生の咲がダイニングでオレンジジュースを飲みながら久美の味方をする。
どうも娘という人間は母親と結託して肩を持ち、男親を邪険にするものなのか。
最近の咲は昔の妻、柔らかでふくよかで可愛らしい恋人だった頃の久美に似てきた。
あの豊かな胸が男子生徒の注目を浴びているのかと邪な妄想を巡らすと、父親として複雑な心境になる。

今の久美だが恋した頃の姿など微塵もなく、身体も態度もオバサン全日本代表としてアクセル全開状態だ。
時の流れの無情を源司は苦虫を噛み潰したような表情で味わっていた。
「あーあ、こんな狭いマンションから抜け出したいわ」
皺が増えた眦から久美は斜めの目線と大息を源司に向けた。
年齢が加わった口臭が源司の鼻先を漂う。

東京東部、江東区木場に五十五平米の築十年の中古マンションは三十五年の住宅ローンで、十五年前、娘が生まれるのを機に購入した。
その頃からか、会社を辞めた久美は子育てや家事で忙しく、競馬と疎遠になっていった。
源司も子育てはそれなりに手伝ったはずだと思っているが。
「広い新築マンションなんて、まあ、無理よねぇ。給料は増えるどころか下がっているんだもんねぇ」
確かに自宅でのテレワークが多く、残業代と出張手当は減っている。
「社員を続けていればよかった」と大きな溜息を吐く久美に源司は心の中で嘆息した。
子育てと住宅ローンに縛られて、仕事は辛抱しながらたまに成果をあげて、何とか生活している。

土日に息抜き程度の競馬は源司のささやかな趣味だ。
バカみたいに大勝負はしないし出来ない、そもそも原資がない。
G1とか勝負レースでは万を超えることもあるが、小遣いや妻に内緒の出張手当を原資にちょっと嗜む程度だ。
妻への不満と言い訳は胸に留める。
口にしてしまったら久美からの「倍返し」が面倒くさい。
娘で女子高生である咲も思春期を迎え、何かと源司とは微妙な関係だ。

一緒に風呂に入ったのなんて懐かしい過去の栄光だ。
十五歳の女の子にしてみれば消したい歴史だろうか。
それでも咲の成長はささやかな源司の楽しみではある。
ふと、ダイニングにいる咲に目がいく。
少女は身体の線に幼さをみせるが、胸の膨らみは大人への階段を登っているのを示している。
「何見ているの。お父さん」
両腕で胸を隠す咲が厳しい口調で源司を突き、目線が合わさる。
咲は顔を赤らめ、口を窄めて必死に拒否を誇張する。
源司が耐えられなくて目線を切るのと、咲が頬を膨らませて横を向き、四畳半の自室へ消えたのが同時だ。
「娘のカラダを目で舐めるなんて、何考えているんだか」
久美の呆れた口調に源司は再び愁傷を吐く。

マンションの六階から見える曇天は低く垂れ込め、東京・深川の街にいる源司から何かを秘し隠そうとしているようだ。
何ともいえない雰囲気から逃れるべく源司が競馬を観る為にテレビのリモコンに手を伸ばした、その矢先。
「トランクルームの件はどうするんだい?」
久美がリビングを見ろと顎をしゃくる。
周囲を見渡すと雑多なモノが雑然としていた。
競馬雑誌、ハードカバーや文庫本、CDやDVD、テニス部に所属する咲のラケットやボール、使われているのかが分からない久美のフィットネスマシンなどもある。
今年、娘が高校生になると何かと荷物が増えてきた。
五十五平米のささやかなマンションでは、足枷が溢れて手狭になっていた。

「分かったよ。今日不動産屋に行ってみるよ」
前から話が出ていたトランクルームを近所に借りようということになった。
「小遣い減らすからね」
トランクルームの費用を捻出する為だと久美は断じた。
源司の眇々たる愉しみである競馬がさらに厳しくなる。
恐妻家の源司は大きな溜息を吐くと、仕方なく重い腰をやっと上げた。


「お客さん、競馬はお好き?お若い女性もお好きなの?」
不動産屋の初老の女性が眼鏡の奥から薄笑いを浮かべ、源司を覗き込む。
「まあ、そうですけど」
あからさまに否定するのも大人の機知がないのが嫌で、そう応えた。

トランクルームを借りに近所の不動産屋を源司は訪れていた。
ネットで調べようとしたが、家にいるのも嫌で逃げるように外に出た。
ふと足を踏み入れたのが門前仲町駅近く、裏通りの小さな不動産屋だ。
大通である永代通りから一本脇道を入ると渋い居酒屋や雰囲気のあるバーなどが軒を連ねる大人の街だ。
その一角に令和の世から捨てて置かれた昭和が薫る不動産屋に初めて足を踏み入れた。

格安のトランクルームがないかと源司が問うと、いきなり「競馬好き?女好き?」だ。
何でそう問うのかと、成人男性の一般論として返した源司は訝しがる。
「一戸建ての六畳間ですけどね。格安で物置代わりに使えるんですよ」
銀色のボブが印象的な女性が冷静に説明しながら、湯飲みを源司に出した。
不動産屋は今週、たまたまその六畳間に空きが出たという。
「人が死んでお化けが出るんですか?」
恐る恐る湯飲みに口を付けた源司に女は「それはないでしょ」とカラカラ笑う。

「住んでいる若い女性オーナーが競馬好きでねぇ」
それで「競馬好き?女好き?」か。
不動産屋は緑茶を啜りながら口を開く。
「その一戸建てはね、土曜の夜に行くと、何かがあるらしいのよぉ」
細面で狐に似た女性は源司を脅かすように真顔を突き出した。
ある人は地獄をみて、ある人は天国だという。

「まあ、二十歳くらいかなぁ、彼女。六畳間を借りた人と週末に競馬を楽しむことがあるらしいのよ」
初老の女性は競馬をやらないから細かいことは分からないと首を左右に振る。
「ただ、競馬をやらない人にとっては、家と女性オーナーは怪奇なのかねぇ」
狐顔の女は白髪を撫でながら続ける。
「最初は若い女性だから、皆さん興味あるのでしょうけど。そのうち色んな奇怪が起こると地獄に感じられるのでしょうねぇ」
家の中では照明が勝手に明滅したり、部屋では荷物が身ままに動いたり、不気味らしい。
面妖を覚えて逃げるように解約するのだと告げる。
まるで家の主が別れて欲しいようだという。
彼女が恐怖から逃れるように湯飲みに目線を落とす。
これが地獄の意味らしい。
源司は不動産屋の不可解な説明に渋い表情だ。
だが、男性競馬ファンならうら若き女性と競馬談議が出来るなんて天国だろうとも思う。
競馬ファンのための妖精、競馬の女神か。
しかし、天国の人も暫くすると契約を止めてしまうと陳じる。

「天国の人が何で行かなくなったんですか?」
「不思議とね、転勤なんかで止めちゃうんですよ。本人は止めたくなかったみたいだけど」
若い女の子と競馬で盛り上がれるのならば続けかっただろうと推し量る。
白髪の女性は、まるで女神に選別されてダメ出しされるように契約者の足が遠のくと言う。
「行ける時に訪ねれば、いいのでは?」
「ダメみたいねぇ。呼ばれた時にすぐ行かないと、オーナーは拗ねて会えなくなるそうよ」
鋭い眼光の女は人差し指で眼鏡の縁を鼻の上、眉間の方へと持ち上げた。
源司の胸中に競馬の妖精が降臨する。
女の銀髪が照明に映射され、魔女の髪の如く幻想的にそよぐ。

「まあ、彼女と会うのは週末が多く、土曜の夜が一番多いみたい」
確かに中央競馬観戦なら土日になるだろう。
日曜日のメインレースをゆっくり予想するなら、土曜日の夜がベストかも知れない。
土日に源司もフェアリーに会えるのだろうかと期待が擡げてくる。
不動産屋が「今の話は、冗談の与太話ですけどね」と話を締めながら、手を電話に伸ばす。
「お客さん。気にされているようですから、オーナーさんに連絡しますね」
彼女は源司の胸の内を見透かすように令和には珍しい黒電話のダイヤルを回す。

源司は躊躇するもののトランクルームとしての賃料が破格の安さなのと、何より同じファンとして競馬が好きな若い女性のオーナーに正直、興味が湧いていた。
緑茶を一口啜って、オーナーに電話連絡している不動産屋を緊張の面持ちで見入る。
黒い受話器を置く不動産屋が口元に弧をつくる。

「オーナーさんからのご厚意で、一ヶ月タダのお試しでいいですって。ラッキーですねぇ。アナタ」
そう言い終えた不動産屋が源司に手渡しする。
「はい、鍵」
「え、この鍵は?」
思わず手にした源司が急展開に困惑しながら立ち上がる。
心臓が急にステアを激しくする。
「ああ、家の鍵ですよ。ないと入れないでしょう」
合鍵ですと醒めた笑みを浮かべる銀髪の美魔女、嬉しいはずの源司の背筋に冷たさが迸った。
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