第9話「予想は如何に!?」(2020年ジャパンカップ予想編:その4)

文字数 5,100文字

刺身包丁がマグロの赤身に袈裟懸けを入れる。
源司も久々の包丁捌きに真剣な面持ちとなり、キッチンで料理と格闘する。
「ふう」
一口大に赤身のブツに切り分けると安寧を吐く、額に滲む汗を肩にかけたタオルで拭う。
風呂上がりに少し残念がるが、酒の肴を三品仕立てるので仕方ないと思う。
先日のツマミのお礼に源司が「板場」に立つ。
源司も男の料理が嫌いじゃない。
付き合い始めた頃から彼女たちにお手前を振る舞ったことは幾度もある。
稟音と久美が一緒は初めてだが。
二人にはナイショと秘め事を胸に仕舞うと、苦い笑みが浮かぶ。

今は源司が先に風呂を済ませて、酒の友を膳立てる。
稟音の家には一階リビングへの途中に脱衣所と風呂がある
四人くらいが余裕で入れる湯舟はカラン付きの風呂場だ。
ちょっとした温泉旅館の雰囲気を源司は先に楽しんでいた。
久美は稟音に無理矢理誘われて、一緒に湯船に浸かっている。
その間に付け出しの枝豆を茹でて、他に料理三品を支度する。
いそいそとセンターテーブルへお品を運ぶ源司、口笛で関東のG1ファンファーレを吹くと心が弾む。
実は四十五歳源司、手料理は得意だ。
狭い自宅マンションでは男の炊事も、台所が汚れるだの材料費が高すぎるなどと妻である四十五歳久美からの不満で封じ込められていた。
それで、「お父さんは家事を手伝わない」と文句を垂れられる。
そんな記憶を振り切るように頭を左右に振ると女子たちの声音が耳に届く。

「えぇっ!何っ、この広いお風呂!」
二十歳の久美の驚きがリビング入口付近の浴室から飛び出してくる。
「久美ちゃんとは一度、一緒に入りたかったんだ」
稟音の嬉々とした一声が響くと久美が喜んだ。
若い女性の嬌声がキッチンに向け、木霊する。
改装しているが築五十年を経過の古い家は音がよく通る。
源司は風呂場へ意識を向けてはいけないとの懊悩に包まれ、大きな嘆息を吐いた。

「ビール、ビールだ。ビール飲むぞぉ」
右肩をグルグル回しながら妙にこざっぱりした稟音が首に掛けたバスタオルとツインテー
ルを揺らし、キッチンの冷蔵庫へと向かう。
姿は美少女、態度はオヤジでセンターテーブル脇を通り過ぎる稟音が料理を横目でチェッ
クする。
「ガーリックトースト」はニンニクのパンチの効いた風味が漂う。
「マグロのカルパッチョ」はマグロブツとパルミジャーノ・レッジャーのコンビ、バルサミ
コ酢におろしニンニクが隠し味の濃厚なソースが合う。
「牛肉のカレー風味ソテー」は牛肉とパプリカを塩コショウ、カレー粉とニンニクパウダー
で炒めたものだ。
テーブルの真ん中には枝豆が山盛りだ。
ニンニク料理を男が女に振る舞うのは、本当に仲良くなければあり得ない選択だ。
感心した稟音は源司の覚悟が嬉しいのを口から零す。

「源司、凄いなぁ」
「たいしたツマミじゃないけどさ」
「何言ってるの、レベル高いじゃん」
謙遜する源司も稟音に褒められれば、満更でもない。
「私もこんな料理がつくれる人がダンナだったらなぁ」
少し寂しげな声音で呟く稟音は久美に羨ましげな目線を向けていた。
栗色の髪を低い位置で一つに纏めた久美は精根尽き果て、ソファーの肘掛けに両手の上に頭を載せて黙り込んでいる。
源司もビールを取りに稟音を追いながら「久美に何した?」と背中に問う。
振り向いた彼女が「持って行け」と缶ビールを手渡ししながら、「イイコトしたに決まって
んじゃん♡」と口端を吊り上げて冷蔵庫の扉を閉められれば、源司も苦笑するしかない。
やっとの思いで口を開く久美が「長湯をして湯あたりしただけですぅ」と必死に事実を告る。
稟音が起きろと久美の肩を叩くが、緩慢な動きと生返事だ。
眠たそうな久美の頬に缶ビールを付けて飛び跳ねると、一笑する稟音が手渡しする。

「ジャパンカップの予想するかぁ」
稟音が宣言するとプルタブが一斉に引かれ、「ビール」が三人の喉を鳴らす。
「復活するわーっ!」
缶ビールを持つ手を突き上げた稟音に久美が吹き出し笑いをすると、源司も人心地となる。

「アーモンドアイかなぁ」
ビールで喉を鳴らす源司は府中の中距離絶対女王を再び指名する。
「牝馬初の天皇賞連覇に引き続き続き、ジャパンカップ連覇かねぇ」
実績の解説はもう不要とばかりに稟音が缶を呷る。
「え、アーモンドアイは去年出ていないけど」
源司は不思議そうな顔を凛音に向ける。
「一昨年からの出走機会でいうと連覇だぞ」
アーモンドアイファンの気持ちを考えろと凛音がソファーの右にいる源司の左手をつねる。
缶ビール片手の久美が優しそうに「よろしくお願いします」と源司の右肩を軽く叩く。
競馬初心者の久美はこれが初めての飲みながらのG1予想だ。

「やっぱり、アーモンドアイちゃんですかねぇ」
ビールを味わう久美が源司に念を押した。
「天皇賞秋のレースから馬券対象は必至かな」
好位から直線先頭で後続を押さえた競馬を再現ならば勝ち負けだとも言う。
久美に「その通り」と言わんばかりに缶ビールを掲げて、応えた源司は喉越しを味わう
「いずれにしても天皇賞秋とジャパンカップを各二勝する牝馬、いや牡馬も含めた馬なんてもう出てこないんじゃないか」
そう想起する凛音が枝豆を乱暴に口に入れ、二人にも食べろと枝豆を小皿に分けて渡す。
源司も久美も礼を言いながら、同意だと枝豆を剥いてビールに口を付ける。

「次はキセキか」
大好きな馬の名を挙げた凛音が「ガーリックトースト」を旨い旨いと頬張り、ビールで喉を流す。
「菊花賞馬ですよねぇ……」
そう期待する久美もトーストを口にする。
「……復活するといいですよねぇ」と願いながらの小さい咀嚼が可愛らしい。
「キセキには逃げて欲しいけどなぁ」と逃げ馬が好きな稟音は箸を手にして注文を付ける。
実際は3枠4番ならスタート五分から、前目の競馬が希望だ。
トーラスジェミニやヨシオが逃げるならカレンブーケドールと「番手グループ」を形成しての勝負ならという。
「確かに大レコードのジャパンカップ二着馬が同じ府中の1マイル半で復活するのは絵になるな」
目尻を下げる源司も復活を期待している意を示すべく久美の頭を一度、軽く叩く。
少し眉間にしわ寄せした凛音が「マグロのカルパッチョ」を味わいながら胸騒ぎを吐く。
「そうなると良いんだけどな」

何となく悩ましげな凛音が「マグロのカルパッチョ」を摘まんだ箸を源司に向ける。
凛音に勧められて鼻先にさらされたら飲み込むしかない。
「ここは信じてみようか」
源司が決心すると久美が相好を色映えさせ、競り合うように箸で挟んだマグロを口元に持ってくる。
私のも食べてと煌めく瞳でお願いされたらカルパッチョを一飲みだ。

「グローリーヴェイズはどうよ」
源司と久美の親しげな仕草を眇める稟音が口角泡と馬名を飛ばした。
「いいね。休み明けの京都大賞典を勝った後、ジャパンカップを狙い澄ましているよな」
「そうなんですか。頑張れそうですね」
ビールを片手に持つ源司の説明に久美が両手を合わせて感心する。
「前走は五番手を追走の競馬はジャパンカップに向けていい予行演習になったし、テン乗りだった川田騎手とも手が合っていそうだぜぇ」
そう評する稟音が「牛肉のカレー風味ソテー」を口に含んで、料理の味とグローリーヴェイズへの期待を賞賛する。
「大外15番は大丈夫ですかねぇ」と懸念する久美に「京都大賞典も17頭立ての13枠で勝っているし」と心配ないよと稟音が箸を左右に振る。
「なるほど京都大賞典の再現か、面白いな」
賛同した源司に向け、「海外G1馬だぜぇ」と喋る稟音の箸が再び「牛肉のカレー風味ソテー」掴むと彼の舌へと放り込む。
咽せて勢いよくビールともに飲み込む男が慌てると、両手を叩いてツインテールを揺らしながら女が面白がる。
酷いなぁと睨む源司に稟音はゴメンとばかりに頬に軽く唇を押す。
顔色が緩む源司が自らを落ち着けと胸を叩く。
目と口を見開く久美が可愛い声音を荒げて馬名を挙げる。

「ユーキャンスマイルどうなんですか?源司さん!」
馬名とは裏腹に頬を膨らませた久美に焦る苦笑を浮かべる源司がいいねを返す。
「ユーキャンスマイルも十一戦連続掲示板で堅実だねぇ……」
慌てる男を流し目に意地の悪い破顔を浮かべる稟音が解説を追加する。
「……その十一戦中七回が上がり最速だよぉ」
稟音の変な喜色纏う形相に差し馬が好きでユーキャンスマイルを応援する久美もつられて吹き出し笑いだ。
「去年のジャパンカップは重馬場で後からの競馬で苦戦してたよな」
そう振り返る源司に久美が再び口をへの字に曲げる。
「今年は良馬場予想で、同じ府中で繰り出した上がり33.4秒以上を期待だな」
慌てて久美をフォローするように待望とビールを口にする源司に稟音が続いて呷る。
「前走のアルゼンチン共和国杯はトップハンデで、ちょっと直線はごちゃついたかも……」
「……厳しい戦いだったけど、これで人気落ちするなら絶好の狙い目だよねぇ」
今回の7枠13番は外目でスムーズな競馬で末脚期待だといい、憤がる久美に微笑みを誘う。
「ユーキャンスマイルにも全力で挑んで貰いたいですねっ!」
笑顔を浮かべ、ほろ酔いの久美が缶ビール持つ手と宣言を突き上げて応援する。
何事かとお見合いをする源司、稟音、久美はリビングに静寂をもたらした。
普段慎ましい久美から大きな声のギャップがツボに嵌まった三人は大笑いをリビングに響かせた。

逃げ先行でキセキ、好位でグローリーヴェイズ、差しでユーキャンスマイルの選択だ。
「でもピックするのは穴馬ばっかじゃん」と自省する稟音が「雪乃っちの思惑通りの予想」だと苦い笑みを浮かべると「無敗の三冠馬たちは無視できないよなぁ」と冷静さを取り戻す。
稟音が両手を左右に伸ばすと笑いの渦が潮のように引くと、静かに低音を突き刺す。

「デアリングタクトの心意気だよなぁ」
久美と源司がその迫力に気圧されるも負けじと甲高い声を上げる。
「そうよね」
「その通りだ」
二人の元気な声に稟音も歯を照明に輝かす。
現役三冠馬の中では三歳牝馬ながらも真っ先にジャパンカップに名乗りを挙げた果敢さを三人は讃えた。
「あの問答無用の圧倒的なパーフォーマンスはここでも通用するべぇ」
絶対的な末脚で同世代を圧倒したと評価する稟音はビールを一気に喉を滑らすと気合いが乗る。
「でも三歳牝馬、男の子と初めてのG1戦ですよねぇ」
しかもG1八勝の女王様と無敗の牡馬三冠馬が相手となる。
眉根に皺寄せた久美が憂いの面持ちを浮かべる。
優しい目色の稟音が彼女の右に座ると左の頬を寄せる。
「逆に若いから斤量の差で有利なんじゃないかなぁ」
落ち着き払った声で大丈夫だという風に久美の豊満な胸を撫でる。
小さな手に伝わる心音が悪戯心を擽った。
不気味な笑みを浮かべる稟音は久美の首を愛おしく舐める。
柔らかい舌に首筋を襲われた久美は身体に悦楽を貫くと、瞼を熱くする。
セミロングを纏めた髪を揺らして、迸りから逃げるように源司の胸に飛び込んだ。
「まぁ、大丈夫じゃないかなぁ、デアリングタクト」
そう判断する源司が泣き虫久美の髪を梳く。
泣いた後の子羊のような久美は救いを求めるように稟音へ濡らした瞳を泳がす。
源司へ顎をしゃくった稟音に軽く肩を叩かれると泣き虫さんは首を上下さす。
促されるように栗色の髪を揺らして男の右足に乗る。
久美の動きを確かめた稟音が左足に乗り、二人で源司の耳に顔を近付ける。



「コントレイル」
美女二人から同時に最後の馬名が耳朶に甘く囁く。
源司の背骨に衝撃が迸る。
「やっぱり、そうきたか」
頷く源司に蕩けるような眼差しで久美が念を押す。
「決まってますよねぇ」
「大トリだぜぇ」
続いて千両役者だと稟音がウインクを投げた。
「菊花賞はちょっと肝を冷やしたけど……」
口を開きかける源司に「違う」と稟音が頭を叩き、久美が頬を抓る。
不機嫌そうな美女たちに源司が気後れする。
「コントレイルのアラ探しは無意味」と麗しい両人は白眼視で指す。
「……いや、ダービーの完勝を目にすると今回はチャンスだな……」
男の呟きにナニ当たり前のコトをと冷静な二人。
美女たちが向き合い「確かに同じ距離ならば」、「そうですねえ♡」とじゃれ合うと源司も表情を緩める。
「……でも、菊3,000mの後でジャパンカップ2,400mは勇気あるよな」
締めで競馬ファンとして本音を熱く語る源司に稟音と久美が抱き付いた。
「関係者やスタッフの方々には感謝しかないぜぇ」
どの馬もそうだけと言いつつ、謝辞を口にする稟音が男の首に爪を立てた。
「強いコントレイルが観れるのが、有り難いですね」
続いて久美が肩を甘噛みする。
「三冠馬三頭の共演が待ち遠しいですぅ」
叩首する源司は緩やかな痛みの悦楽に溺れようとしていた。
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