第3話「さあ、恋人へ戻ろう!」(2020年天皇賞秋予想編:その3)

文字数 4,438文字

「源司、待ってたよーっ」
稟音の住む一戸建ての引き戸を開けるなり、源司は再会時と同じく抱き付かれた。
2020年10月31日午後3時はちょうど約束の時間だ。
場所はこの前と同じ5LDK庭付き一戸建て、豪邸というより昭和の頃から大家族が住んでいる雰囲気だ。
この家にカノジョは一人暮らしなのか?と想像する源司の勘だが、この家が住居だと信じられない。
所帯じみるより、何となく生活感がないのは、女神と競馬観戦に好都合だろう。

二十歳の恋人のツインテールが揺れると、甘い髪の匂いが源司の鼻腔をくすぐった。
源司は一月待ち焦がれた初恋の人に目を向けた。
眦を下げるも涙腺を熱くする女の子がいた。
「おい、おい。大丈夫かよ」
心配する源司の口元は緩みっぱなしで、手で稟音の髪を梳く。

「だってぇ、待ってたんだよぉ」
口を窄める稟音の切なげな甘い声で、子犬のように懐く。
彼女も俺を待っていてくれたのか、源司の胸が熱くなる。
同時に源司は妻と娘の嫌みが頭を過ぎる。
友人と一晩、飲んで天皇賞を観戦すると宣言し、自宅マンションを後にした時だ。
「お父さん、何考えてるの?」と高一の娘である咲の発語に少し憂鬱になる。
「まったく、しょうもない人だね。いいよ、帰って来なくていいから」
妻の久美はその太い身体を揺らしながら、源司の背中に止めを刺す。
まさに夫は家にいなくて、外で適当にしているのが望ましいのか。
源司は「まったく、あいつらは」と頭に苦みが移ろう。

「源司、何考えているの?」
稟音が頬を膨らませて源司を見上げていた。
「まったく、しょうがない人だねぇ。いいよ、リビングで競馬観ようよ」
源司は背中を押されて競馬観戦すべくリビングへ向かった。


午後3時過ぎ、女の子の嬌声がリビングに響く。
「アエロリット出た!!」
稟音はツインテールと右腕を突き上げながら喜びを表す。
85インチの8K液晶テレビに映るアエロリットはゲートをポーンと出ると、そのまま一コーナーへ向かう。
逃げ馬が好きな彼女はアエロリットを応援している。
源司と同じ十八歳頃に競馬を始めた稟音は競馬歴二十七年の大ベテランだ。

2019年の天皇賞秋をリビングで二人は観戦している。
去年の東京競馬場は競馬ファンが一杯で、懐かしい。
今秋もアーモンドアイとダノンプレミアムが天皇賞に出走するので参考レースとしてチェックする為だ。
「アーモンドアイ一着固定で三連単を的中したんだよ」
思い出のあるレースだと成果を誇る源司の背中を稟音が「了解」と軽く叩く。

スティッフェリオがアエロリットに並び掛けるように二番手。
ドレッドノータスが三番手。
サートゥルナーリアは内で四番手集団、外にはダノンプレミアム。
アーモンドアイはその後の七番手あたりか。
そして各馬二コーナーへ。
逃げるアエロリットにスティッフェリオ追走。
サートゥルナーリアが三番手、名手スミヨンの手が身体に近く堅い。

「源司、あれ…」
「そうだな」
稟音が注意を向けるようにテレビの緊張している鹿毛馬を指さす。
戦前、同じ左回りのダービー敗戦からコース適性が揶揄されていたのを思い出す。
過去のレースで結果は分かっているがいいレースは見入ってしまう。
特に馬券を的中させたレースは尚更だが、案外、一年前のレース内容は憶えていないものだ。
サートゥルナーリアの後方にダノンプレミアム、内にアーモンドアイ。
各馬、三コーナーへ。

1,000m59秒。
四コーナーへ、隊列は変わらない。
サートゥルナーリアは相変わらずで『素人目にもリラックスして欲しい』は源司の呟きだ。
直線、後方集団の馬たちは外目を狙い、馬群が膨れる。
先行集団は隊列を同じくして機を伺う。
アエロリットが先頭、各馬を一馬身差で従える。
「いっけっー、戸崎ジョッキー!」
稟音が芦毛の馬へ腕と声を突き立て、応援を送る。
その外からサートゥルナーリア、ダノンプレミアムが並び掛ける。
「ダノンプレミアム追えーっ」
稟音が漆黒のツインテールを振る。
彼女の選んだ馬はアーモンドアイ、ダノンプレミアム、アエロリットだ。
サートゥルナーリアは無印だ。

そして内が一頭分、空いている。
まるでここを通れというように。
アーモンドアイがその最内を一気に刺す。
「アーモンドアイ頑張れーっ」
源司が両手でメガホンをつくり、大声を飛ばす。
「ルメール!ルメール!」
稟音がアーモンドアイの鞍上の名を連呼する。
四頭雁行の最外、ダノンプレミアムも脚を使う。
アエロリットも盛り返す。
「アエロリット!!」
稟音も顔を真っ赤にして両腕を何回も回転させる、その瞬間。
アーモンドアイが異次元の脚を使い先頭へ立つ。
二百の標識を過ぎると、二番手集団の三頭を突き放しにかかる。
三馬身差のセーフティリード。

ダノンプレミアムが二番手、アエロリットが三番手。
サートゥルナーリアは少し遅れた。
悠々とアーモンドアイが先頭ゴールイン。
ダノンプレミアムが何とか二番手優勢。
アエロリットにユーキャンスマイルが外から襲いかかる。
「粘れー、アエロ!」
「残せー!」
男女混声の大合唱だ。
ダノンプレミアムが二着。
アエロリットも三着キープだ。
「やったーっ」
稟音が両手を挙げると源司が冷静に語る。

「アーモンドアイ一着」
「ダノンプレミアムが二着で、アエロリット三着残った……」
「……でも、アーモンドアイ強かった、ココまでとは思わなかったなぇ」
稟音が声音を大きくすると、源司が応える。
「98年のジャパンカップみたいだ……」
「……まあ、府中の中距離女王ということだな」
二人はアーモンドアイの強さに酔いしれていた。
三連単が的中したレースは何度観ても楽しいものだ。
「さて、スワンステークスでも観るか」
「いいねぇ、どんなレースになるか楽しみだねぇ」
土曜の関西メインを観ると宣した源司に稟音が期待する。
競馬のライブを観ようとする二人を85インチの8K液晶テレビが待っていた。


「源司、興奮したねぇ」
「確かに。競馬っていいよなぁ」
過去の名レースの感動、ライブの興奮、競馬観戦は様々な楽しみ方はある。
源司と稟音は改めての感を述べながら並んで深川の街を歩く。
深川は材木を保管するのが由縁の運河の街で、運河や橋が数多ある。
鶴歩橋の交差点にある珈琲豆専門店の脇を通ると焙煎の良い薫りを道すがら楽しんだ。
この近所には紅茶の専門店など、良い意味で拘りの店も多い。

午後4時半過ぎ、土曜競馬が終わった後、競馬予想で飲み食べするモノの買い出しへと木場にあるスーパーへ外出していた。
源司は稟音と並んで歩くのも二十五年振りだ。
向かう先は稟音曰く、競馬ファンなら「サトーココノカドー」ならぬ「フジタナナコドー」とのことだ。

夕暮れは二人をヴァージンロードで祝福するように長い斜めの陽を浴びせていた。
道行く人は皆マスクで、源司と稟音もお揃いの白い不織布で口元を隠す。
表情は見え難く、お互いの目線を交し合う。



「スプリンターズステークスはどうだった?」
円らな瞳が少し意地悪そうに源氏の顔を覗き込む。
「お陰様で、馬連は一点で的中させて頂きました」
秋空に映える茶色の目に浮かぶ源司は自慢げに鼻を鳴らす。
「グランアレグリアは途中ではダメかと思ったよぉ」
短距離戦で後方のままだった展開を思い出し、心配げで泣き出しそうな少女の表情に源司の胸が締め付けられる。
源司は腕を彼女の肩に付けて、並べる歩を遅くする。
「直線で一気のゴボウ抜き、アレは凄い。アーモンドアイに勝った実力通りかな」
素人目にパドックで「一叩きしてからかな」と感じた源司は尚更驚いたという。
叩首する稟音のツインテールを可憐に揺らし、源司の横顔へ感を述べる。
「まぁ、競馬好きには馬券的中が一番だからねぇ」
打って変わってご機嫌な稟音が歩むと、源司が嬉しそうに問う。

「今晩、何食べるの?」
「あ、私がツマミをつくるよ」
簡単なのをいくつかだけどねと、はにかむ稟音が応え、鶏肉や小松菜を買うという。
彼女の手料理かと思うと、口元を緩める源司の腹が刺激される。
普段のレトルトや冷凍食品が主力でない食卓は楽しみだ。
「あとはビールかな」
稟音がマストバイでしょと目を細める。
「よし、乾杯が楽しみだ」
ビールを待ちわびる源司は他愛のない会話が嬉しかった。

「デアリングタクトは強かったねぇ」
秋華賞の回顧に同意を求めるように稟音が右肘で捥を突くと、源司が叩首で応える。
「前半は折り合い専念で、後半は徐々に好位に進出して四コーナーでは五番手……」
「……直線は馬場の真ん中を力強く抜けて」
白い歯を浮かべる稟音がもう一度、肘を小突く。
「史上初の無敗の牝馬三冠制覇だよねぇ」
「いいモノ、観たわぁ」
二人一緒の感想が漏れる口は緩みっぱなしだ。
腕を少し痛がる源司の馬券は「ヒモが荒れたから」で、難しかったようだ。
大通りの永代通りに差しかかると、赤い信号が二人の過渡を止めた。
源司の左手が稟音の右手に触れる。
四十五歳中年親父の心臓が年甲斐もなく、跳ねる。
源司は稟音の手を握る。
目を見開いた稟音が頬を緩めた。
小さい手が力むのに触発された源司が口を開く。

「コントレイルはディープインパクトに続いて父仔で無敗の三冠馬だな」
「菊花賞ねぇ、直線の途中でアリストテレスにやられたと肝を冷やしたよぉ」
新星誕生との驚きが蘇る稟音が強い口調で実感を吐く。
「でも抜かせなかったから立派だよ。それより道中はアリストテレスに突かれて……」
稟音が関心ありげに横目を使う。
「……コントレイルはディープボンドの後で宥めるように乗って、ワンテンポ追い出しを我慢して」
福永騎手とルメール騎手の攻防も見応えあったと源司も満足げだ。
「それで馬券は?」と問われた源司は「神戸新聞杯をゲットしたからね。その義理馬券だから……」と言って押し黙る。
ヴェルトライゼンデとの馬券と理解した稟音と源司は柔らかな失笑を交し合う。

「でも、サリオスが出走していたらどうなったんだろうねぇ」
皐月賞、ダービーともコントレイル二着だったサリオスの前走、毎日王冠でゴール前に騎手のガッツポーズが出る完勝を評する稟音が侘しげに目線を遠くへ投げる。
「菊花賞は1,000m62.2秒のスローだ。前半死んだふりで後半の自力勝負なら、ひょっとしたら……」
少し首を上げた源司も遠望して、応えた。
春はコントレイルに苦戦し、マイラーではとの評価が多いサリオスでも、今の能力だったらとの想いが募る二人は口を噤む。
サリオスが菊花賞に出走していれば、さらに盛り上がっただろうか。
色々なタラレバを楽しむのも競馬の醍醐味だと、手を繋ぐカップルは目尻を下げた。

妻と娘が住む自宅マンションは程近くだが、顔を隠すマスクのためか源司四十五歳は二十歳に戻り、大胆になっていた。
稟音の手から温かみが伝わる、それだけで源司は満足だった。
二十歳の時、恋人同士だった稟音と源司。
当時の姿のままの初恋の人と手を繋ぐ前田源司四十五歳。
世間の人からどう思われてもいい。
この至福が永遠であって欲しい。
今この時点で、稟音と手を繋げる奇跡が人生の全てだとする源司がいた。
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