第2話「一人暮らしの稟音の家へ」(2020年天皇賞秋予想編:その2)

文字数 4,406文字

永代通りを木場方面に向かって東へ、歩く。
門前仲町駅付近からの道通り、源司の自宅マンションへ戻る方向だ。
空を低くする曇りなど何のその、歩幅が大きく、交互する足は速くなるは、その家に恋い焦がれるからか、住処へ向かうのとは別な足取りだ。

「こんな近くにあるなんて」
不動産屋に教えて貰った住所が自宅付近だと気がつかなかった源司がスマホ片手に小走りになる。
住所、連絡先とオーナーの氏名が耳朶に触れると、何かが気になった。
特に氏名が引っかかる、過去の記憶に関係あるのかも知れなかった。
胸騒ぎが蠢かす源司が、汐見橋の手前の信号を左に曲がる。
考え事をしながらだと歩みが遅くなる。
少し先に黒塀に囲まれた古い家が見えた。
壁の表札をみると「春日」とある、不動産屋に教えて貰ったオーナーの姓と同じだ。

「ここだ、ここだ」
確かめつつ源司は何かが胸を巡るが、浮かばない。
奥にものが詰まるような感覚、引き出せない、もどかしい。
定かでない物覚えは歳を経ると引っ込み思案なるのが恥ずかしかった。
玄関に向かい、佇立する源司。
その呼び鈴を押す直前、過去のメモリーがリロードする。

「ああ、春日か」
元恋人の姓を口にする。
目を閉じた源司の顔が赤らむ。
初恋に夢中だった頃が心の奥底から甦る、彼女の名。
「稟音」

「りんね」と呟く、すると初めての恋人と別れた時の印象が湧いてくる。
彼女の残念そうな寂しそうな目見、頬を伝う雫。
いや、別れたというより、源司二十歳がフラれたのだ。
突然、彼女に呼ばれたのが、今日に似た曇り空が広がる秋の午後だった。
別れ際の台詞、彼女は「源司は他の人と結婚しちゃうから」と予言した。
なぜいきなり、「他人と結婚」するからと恋人に言われて別れなければならないのか、当時の源司は全く理解出来なかった、今でもだが。

茫然自失の源司に現れたのが久美だ。
「稟音」の知り合いでもある久美と恋仲になり、源司は五年後に結婚した。
結果からは「稟音」の台詞通りになったのだが。
そして「稟音」の最後の口上が蘇る。
「またね、源司」
頬にキスをくれた稟音は源司に背中を向けて永久に消えた、はずだった。
埋もれていた日付が復活すると、1995年9月27日だ。
まさに四半世紀前の今、この日だ。


競馬が好きな若いオーナーが「稟音」、それはあり得ない。
「稟音」は源司と同じ四十五歳、オバサンで「若く」はないはずだ。
「何を考えているのか、俺は」
いい歳して未練かと自嘲するが、忘れ得ない思い出を持っていても良いだろう、とも反駁する。

気持ちはティーンエイジャーであり続けたいとも冀求している。
だが、今は大人として家主との初対面を迎えている源司は自らを冷静たれと戒めた。
深呼吸で一度リセットし、心を落ち着かせる。
他人であるトランクルームのオーナーに会うために。
気を取り直して、無心で呼び鈴を押す。

家の奥から「はーい」の応答が耳朶に触れる。
ソプラノが効いた瑞々しい女性の声音が源司の記憶を一気に蘇生する。
「あの声は……」
無性に懐かしさがぶり返し、頭の中に色彩が戻る。
家の中では足音が玄関に向かい、可憐な小走りが近づいて来る。
何が起こっているのかと源司が心を千々に乱すも、唖然とする。
小さな影が引き戸の磨りガラスに写ると、戸を開けたくなる衝動に駆られる。
他人の家なの扉に手がかかり、堪え切れなくなった源司が封を解く、瞬間。

「お帰り、源司」
可愛らしい女の子がツインテールを振りかざし源司へ飛び跳ねる。
若いボーイッシュな女性がスローモーションでやって来る姿は、源司の思い出が溢れ出す。
「まさか……」
目を見張る源司、彼女の名が再び吐いて出る。
「稟音!」
「そう、りんね、だよ」
愛らしい目を細めた稟音は自分の名を告げた。
二十歳だった源司の初恋の人、稟音。
彼女は別れた時と同じ二十歳の姿で源司に抱き付いた。


「久しぶりだねぇ、源司」
源司の胸で稟音が顔を見上げると、嬉しさが迫り上がってくる。
稟音も口元を緩めて、犬歯をひけらかす。
「おお、稟音。元気そうで何よりだ」
源司は素直に四半世紀振りの再会を喜んだ。
稟音は顔も口調も少年のようだが、ツインテールの髪型が実に可愛らしい。
別れた恋人と続開へ向けた素晴らしさを四十五歳の源司は歓喜として噛み締める。

「髪型変えたのか?」
源司の彼女だった頃、稟音はショートヘアだった。
「そう、この方が興奮するから」
「興奮って?」
「競馬に決まっているじゃない」
稟音曰く、競馬観戦をする時、ツインテールを振り回すは気分が乗るという。

源司と競馬を始めた二十七年前と違う髪型だが、これはこれでいい。
「稟音は可愛いなぁ」
「ありがと。源司も年取って渋くなったわねぇ」
「サンキューな、そう賞賛してくれるのは、稟音だけだよ」
「あったり前じゃん」
元気な声を響かせる稟音が源司の背中を叩く。
「ん、んーんっ!?」
眉間に皺を寄せる源司が天を仰いで考える。
どうしたの?と戯ける果凛が首を横に傾げる。

「お前、俺と同い年だろ」
昔と変わらない容姿は何故だと源司が訝しがる。
ツインテールの少女が着こなすブラウンリブニットが華奢な鎖骨を披露する。
ネイビーサーキュラースカートの裾が揺れると若々しい甘さが漂い、瑞々しい素足が披瀝される。
面前の彼女は紛れもなく源司が覚えている二十歳の稟音だ。



「若い姿はお嫌?」
茶目っ気たっぷりにウインクをする稟音が左腕に抱き付く。
小ぶりな型のいい胸が腕に押しつけられると、喉仏がゴクリと動いた。
「い、嫌じゃないけど」
「なら、いいじゃん」
満面の笑みを突きつけられた今以降、目の前だけを受け入れようと源司は覚悟を決めた。


「源司、今日は何曜日だ?」
分かっているよねと目を細める稟音が念を押す。
「日曜日だ」
源司が左腕に絡みつく稟音に苦笑を投げながら、競馬ファンにとり特別な曜日を答えた。

「今日は神戸新聞杯でコントレイルが走るよ」
これは観なきゃダメでしょ、競馬観戦しようよと稟音が肱を巻き付けて誘う。
家の中へと促された源司は廊下の行く先、腕を稟音の
胸で押されながらリビングへ向かう。
回廊を軋ませながら、天国への階段のように歩む。

三十畳はあるリビング・ダイニング。
入口はリビングで奥はダイニング、最奥がキッチンでワインセラーまである。
リビングとダイニングの間にはアップライトピアノまであった。
手前のリビング入ると右側にL字型のソファーにオットマン、飲食に便利そうなセンターテーブル。
入口から右の壁側には85インチの8K液晶テレビが鎮座していた。

「おお」
「完璧だろ」
驚嘆を上げる源司に稟音が親指を突きつける。
確かに競馬観戦には最適な空間だ。
「ほら、座ってよ」
果凛は源司の両肩に手を置き、L字ソファーの長辺へと誘導する。
ちょうど85インチの8K液晶テレビ正面だ。
ソファーの左側短辺に南向きの庭から昼間の陽が薄らと差し込む。
点けたテレビには、早速サラブレッドが遊弋していた。

「凄い」
「まあ、最高だよね」
感嘆を続ける源司の脇にリビングを評する稟音が鎮座する。
ブラウンリブニットとネイビーサーキュラースカート、秋の装いがよく似合っていた。
可愛い、何度も繰り返す言の葉を喉で飲み込みながら源司は顔熱を帯びる。
逃げるようにテレビに眼を移すと、コントレイルがパドックを周回している。

「良いねぇ、コントレイル」
稟音が両手を頬に着けながら評すると源司も叩首する。
青鹿毛が黒光りする馬体はしなやかで、他を圧倒する雰囲気を醸し出していた。
「後はダービー三着のヴェルトライゼンデか」
源司は顎を右手で弄りながら思案する。
馬券はコントレイルからなら絞らなければ儲からない。
源司が稟音向くとお見合いになる。
「思い切ってヴェルトライゼンデとの馬連一点にするか」
「ナイスな選択だね」
口端を持ち上げる源司に稟音が白い歯を浮かべる。
さあ、神戸新聞杯のレースが始まる。

****************************************

神戸新聞杯は大方の予想通りコントレイルの勝利に終わる。
「凄かった」
ソファーに座る源司は隣にいる二十歳の姿を留めたままの稟音に呟く。
「見応え有ったねぇ」
稟音が源司の手にそっと重ね、感を述べた。
温もりに少し驚いた源司が続ける。

「スタートしてから直線向くまで、ずっと内でガマンして」
「包まれて終わるんじゃないかと。ハラハラしたねぇ……」
稟音がか細い声音で心配そうな表情も、目に力を入れながら続けた。
「……でも、直線向いたら狭い所を器用に抜け出して」
目線を稟音に向けた源司が合わせながら評する。
「先頭に立った後は楽勝だったね。最後は11.8-12.2だもんなぁ」
会話を重ねながら稟音の小さな手、皺一つない弾力がある肌から熱が伝わって来る。
源司は今、競馬ファンの稟音を恋人として取り戻していた。
稟音が右手を顎に当て、思案する。

「うーん、どうするかなぁ?」
源司も何事かと考え続ける彼女を眺める。
稟音は満面の笑みを返して、宣言する。

「そうだ、次は秋の天皇賞だね」
くりっとした小動物みたいな漆黒の双眸。
小さな鼻、愛らしい唇。
その口唇も源司は再び重ねられるのかと劣情が頭を過ぎる。
だが今は稟音の紅潮した頬を眺めることで満足する。
復活した恋人の眩しい笑顔が次を誘う。

「また、競馬観戦しようよ?」
稟音は「いいよな?」と合意の念を押すように無邪気に源司の顔を覗き込む。
これでは源司は断れない、断るつもりは毛頭ないが。
「でも、何で天皇賞?」
2020年秋シーズンのG1ならスプリターズステークスもあるし、デアリングタクトの無敗牝馬三冠がかかる秋華賞がある。
今日のコントレイルが勝利した神戸新聞杯を観たら、次は菊花賞で無敗の三冠挑戦を応援したいという気もする。
自然と手が解けると、稟音は源司に向き直る。

「今度は、事前に会う日を決めてさ。ちゃんと準備しておくよ」
二人が会う準備に秋の天皇賞まで時間かかかると稟音が言う。
何か特別な事情があるのだろうか。
どういう意味?と源司が問うも返答を紛らわせるように時間指定となる。

「天皇賞の前日、土曜日の三時頃に家に来てよ。約束ね」
幻惑させるような稟音が甘い目線で源司を落とし掛ける。
土曜メインを観てから、一緒に飲み食べ物を買い出ししたいという。
「天皇賞の予想しながら、夜は飲み明かそうよ」
提案した稟音が恥ずかしそうに視線を逸らす。
絶句する源司は感動で肩が震えていた。
言っている意味は分かるが、しかしだ。
悩む源司、家族が頭を過ぎる。
いつも源司の競馬を止めさせようとする嫁と娘。
ゆっくりと土曜の夜など予想出来ないし、日曜日の競馬中継も白眼視が痛い。

「よし、分かった。天皇賞の前日、土曜の午後3時な」
反芻する源司が意を決したように同意をぶつける。
瞳を輝かせる稟音の表情に明るさが広がる。
「当日は凄いことになるから、期待して」
未来を見透かすように宣言する。
いや、そう言われましてもと頭を搔く源司がいた。
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