変わりゆく世界の片隅でわたしたちは——アイネクライネナハトムジーク

文字数 1,842文字

「アイネクライネナハトムジーク」
「…は?」
「アイネクライネナハトムジーク」
「ぶっ、ははははは!!!」
 日本語の発音が面白いらしい。泣き笑いながらアルテミスはもう一回と言ってくる。

 ここは2020年の1月の中国。武漢から発生したコロナウィルスで、わたしたち留学生も行動を記録したりしなければならず、不便な日常を過ごしていた。
 一人、また一人と周りの留学生が帰国する中、わたしとクラスメイトで友達のアルテミスはそんな日常でもどうにかこうにか楽しく過ごしていた。
 アルテミスはギリシャ人だ。ギリシャというのは東ヨーロッパの、イタリアとトルコの間に位置する国である。なので、ぱっと見たところイタリア人のような背が高くなく、肌艶のいい、南っぽさを感じるヨーロッパ人であるが、よく見るとどことなくトルコ人のようなオリエンタルさもある顔つきである。
 外に出るのもウィルスの関係で寮に引きこもりっぱなしで、日本から持ち込んだ大量の本をごろごろ読んでいた。アルテミスはふらっとわたしの部屋にやって来ては、「この日本語は何?どういう意味?」と聞いてくる。アルテミスはギリシャ語、英語、ドイツ語、中国語ができ、日本語にも興味があり少しできる。
「ナントカ…日記?ダイアリー?」
「壇蜜日記。きれいなお姉さんの日記を覗き読みしている気分になれるよ」
「じゃあこれは?」
 と聞いたのが今回の『アイネクライネナハトムジーク』だ。
「それ日本語で何て意味なの?」
「えっと、日本語じゃないよ」
「じゃあ何語?」
 知らん。恐らく英語ではないだろうけど。パソコンで『アイネクライネナハトムジーク』と打ち込むとモーツアルトの曲の一つらしいとのことがわかった。Eine kleine Nachtmusikというドイツ語を見せると、バイオリンが弾けるアルテミスはすぐにわかったようで、
「あ~、Eine kleine Nachtmusikね」
とうなずいた。わたしにはアイネクライネナハトムジークにしか聞こえないぞ。

 『アイネクライネナハトムジーク』は伊坂幸太郎の小説で、短編集ではあるのだが、人々はつながっており、時を隔ててもなお、互いに影響し合っている、そんな長編の物語だ。映画化もされている。
 物語の展開の緻密さはさすがで、その上伊坂幸太郎ならではの個性的な主人公たちの視点も面白さの一つだ。けっこう社会的にズレた認識のまま、誰かに反対意見を言われることもなく、そのままで生きているということにある種凄みを感じる。どの話も面白いが、映画には登場しない話、『メイクアップ』が自分としては最高に面白かった。

 主人公・窪田結衣の会社では広告会社のコンペが行われることに。窪田はクライアントとしてどの広告会社を選ぶか任されていた。そんな中、広告会社の一社から小久保亜季という人物が現る。亜季は高校時代に結衣をいじめており、文化祭の日のダンスパフォーマンスの時には、当日のダンスが勝手に変更したのにも関わらず、結衣には知らせず、結衣が一人、ステージ上であたふたしているのを見てみんなと笑っていたという過去があった。
 結衣は現在結婚をし姓が変わり、ダイエットをしてきれいになったせいか、亜季は結衣に気づかない。これは待ちに待った復讐のチャンスか…。

 この話は他の話のように少しずつ人々が影響し合い変わっていくというストーリーとは異なり、「何年たっても本質は変わらない」ことが描かれている。意地の悪い亜季も、意地悪できない結衣も変わらないのだ。
 わたしもそうだが、都合よく振り回される人間って、結衣のように結局変われないことが多い。やられっぱなしだ、いつだって。でも、この物語は復讐しなくても、変わらなくても、それでも少し晴らしてくれる。その展開がやられっぱなしの人間に響く。最後の一文が何とも鮮やかで、『メイクアップ』を読んだ、やられっぱなしの友達同士でその結末をくすくす笑いながら話していた。

 互いに影響し合うお話。コロナで狂い始めたこの世界は断絶を迫られている今、人と人との交流、そんな世界がまぶしく思えた。それでも、少なくともわたしとアルテミスは今一緒にいる。
「アルテミス、アイネクライネナハトムジークってどういう意味?」
 わたしはアイネクライネナハトムジークを調べた時、その意味も書いてあったが、わざとアルテミスに聞いた。だってアルテミスからその言葉、教えてほしかったのだもの。


 今回の物語:伊坂幸太郎著『アイネクライネナハトムジーク』

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