はじめて見るのに“懐かしい”――九龍ジェネリックロマンス

文字数 851文字

 鯨井Bはすでに死んでいる——。
 かつて存在し、今はないはずの九龍城砦。ノスタルジーな九龍で暮らすのが不動産の会社員の鯨井玲子。同じ会社の先輩に恋心を抱く彼女には彼女自身も知らなかった秘密が。それは今の鯨井玲子が存在しているのはここ最近で、かつてもう一人の自分(=鯨井B)が存在するということ。その証拠に鯨井には過去の記憶ではない。わたしは一体誰なのか?
 SF的なストーリー展開とともにこの作品を彩るのは、「はじめて見るのに“懐かしい”」と思う作画や設定だ。80年代を彷彿とさせるポップでコミカルな絵で、どのシーンごとに切り取っても絵になる。そこにスイカ、ひまわり、金魚と夏休みの思い出に出てきそうな懐かしいアイテムの数々。特に、冷蔵庫に一日置いてカルキを抜いた水を飲むシーン。ひんやりと冷たく澄んだ水をゴクゴク飲むシーンは懐かしさを不思議と感じる。だってやったことないのに、初めて知ったのに。
 最近の作品は高校生とかが主人公が多いけど、この先輩と鯨井はともに30代。大人が仕事して、アフターに青島(チンタオ)ビール片手に中華なんていいよね。90年代のコカ・コーラのCMのような、爽やかでかっこいい。
 そしてシーンのコマ割りにも先輩との二人の距離感が描かれていたりと、意味があるからこそぐっと引き込まれる。そしてウォンカーウェイの香港映画のように雑多で、むわんと熱気立つような湿度高めの九龍が漫画から描かれていない部分まで目の前に広がっていくような気がする。そのぐらい包み込まれるような臨場感のある作品だ。
 でも不思議に思う。ほとんどの読者はきっとそんな香港を知らない、けれど“懐かしい”と感じるはずだ。だから読者もまた鯨井と一緒で、知らないのに懐かしいこの世界から抜け出せなくなるのかもしれない。

今回の漫画:眉月じゅん著『九龍ジェネリックロマンス』集英社

参考文献:眉月じゅん×杉田智和 特別対談https://tonarinoyj.jp/article/entry/2020/02/21/170000
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