第102話 好きと好きの強さ ~男女の心根~ Bパート

文字数 6,185文字

 その後、どこをどう通って帰ったのかは覚えていないけれど、いつもの道を体が覚えているのか、気が付けば家の近くまでは帰って来ていた。
「……」
 ただ、今の問題はこのまま家には入れないと言う事だ。
 今日はお母さんが夜ご飯を作ってくれると言ってくれていたから、鈍色(にびいろ)の空が黒く染まるこの時間まで優希君と話が出来た。でもそれは逆に言うと、この時間にはお母さんが帰って来ている事は確実で。
 それでも家に帰る以外の選択肢が思い浮かばなかった私は、そのまま家に入る。

「ただいま」
 それでも、少しでも帰って来てくれたお母さんに心配を掛けたくなかった私は、精一杯声を張って、着替えるためにそのまま自室へと急ぎ足で駆け込む。
 その後、鍵をかけた自室の中で部屋着にだけは着替えたものの、この顔で下に降りる訳にはいかないからと、私は途方に暮れる。
「愛美。お母さんよ。少しだけお話をしましょ」
 しばらくの間どうしようかと思っていると、夕飯前にもかかわらず、本当に珍しく私の部屋をノックしてくるお母さん。
「今、勉強しているから、また後ででも良い?」
 だけれど、少しでもこの顔を見せたくなくて嘘をつく。
「じゃあ勉強の邪魔はしないから、二週間ぶりの愛美の顔を一目で良いからお母さんに見せて」
 私の嘘なんてものともせずに、今、私が一番弱い所を突いて来るお母さん。
 だから私もドア越しにお母さんがいると分かってはいても、中々返事が出来ない。
「愛美。学校で何かあったから涙声なのよね」
 そんな中、少しの間、母娘(おやこ)でドア越しの会話をする。
「そんな大したことじゃないよ。だから夕ご飯の時には下に降りるから」
 だから、私の顔が見えていないお母さんに嘘を並べ立てる。
「愛美が涙声になるくらいの事があったんでしょ。私――愛美にとってはそれほど辛い事があったんでしょ」
 だけれど、私の嘘すらも気にする事なく的確に言い当てるお母さん。
「……」
 だから私は、たちまち二の句を継げなくなる。
「何年私が愛美の母親をやっていると思ってるのよ。愛美が“頑固”なのは分かってるから、愛美が部屋から出て来るまでは、愛美の顔を一目見るまではお母さん。ここで待つわよ」
 そう言ったきり、一度もドアノブに触れる事無く、無言になるお母さん。
 そうなると私は鍵も扉も開けるしか選択肢が無くなってしまう。
「……」
 それでも最後の抵抗として、お母さんの視線から顔を逸らすのだけれど、
「愛美……先にお風呂に入って来なさい。その間にお母さん準備してしまうから」
 私の横顔を見たお母さんが、一度私を抱きしめてくれてから一階へ降りて行く。


 その後、慶にもお母さんが何かを言ってくれたのか、お風呂に入る時も、リビングをのぞいた時にも慶の姿を見る事は無かった。
 そして気づけば慶が独りになってしまうにも拘らず、鍵をかけてしまった私の部屋で、お母さんと二人向かい合って夕ご飯を食べる事になる。
「慶は良いの?」
「良いわよ。今日は愛美の体調が悪いから、お母さんが面倒見るって慶久(のりひさ)には言ってあるから」
 そして、今度は女二人だけで顔を突き合わせた、母娘(おやこ)の会話が始まる。
「そう言えば帰って来た時に慶久が嬉しそうに、愛美がお昼の足しにおにぎりを作ってくれたって喜んでたわよ」
 そう言えば今朝、そんな事をしたような気がする。
 学校で起こった事、聞いた話で頭がいっぱいで、今朝の事なのに遠い過去のように感じる。
「慶が食器だけはちゃんと自分で洗っているから、お小遣いが足りないっていう慶の足しになればと思って」
 お母さんが作ってくれた、温かさを感じる夕ご飯を食べながら答える。その温かさと優しさが、冷えた私の心と体に染み渡る。
「そう言えばお父さんも、慶久のお小遣いを増やして欲しいって言ってたわね」
 その温かさに私の心が涙を流す間、慶に対して溜息をつくお母さん。
「それに比べて愛美は本当に、どこに出しても恥ずかしくない娘に育ってくれたわね――そんな愛美の顔をこんなにしたのは“優希君”?」
 私は普通に答えたはずなのに、私が心の中で涙しているのを見つけてくれたかのように、お母さんが実祝さんのお姉さんみたいにズバリと言い当てる。
「……」
 だけれど、何をどう言っても優希君の印象が悪くなりそうで、説明するのが難しい。
 そんな私を見てお母さんが一つため息をついて、
「前にも言ったけど、お母さんのひいき目を差し引いたとしても愛美は可愛いわよ。だから自信を持たないと駄目よ。後、好きならちゃんと捕まえておかないと駄目よ。“優希君”ハンサムで女子からの競争率、高いんでしょ?」
 そう言えば前にもよく似た事を言われた気がする。 (63話)
「男ってすぐに勘違いするから、もし浮気でもしようものなら、しっかり懲らしめておきなさいね」
 しかも優希君の動きが分かったかのような言い方をするお母さん。
「……ひょっとして。お父さんも浮気した事あるの?」
 その言い方に妙な実感がこもっていたから、恐る恐るお母さんに聞き返す。
「そうね。社会人になってからだけど、同じ職場の女の子とデレッデレしながらしょっちゅうご飯食べに行ってるのを見聞きして知ったから、その現場に思いっきり乱入した事はあったわね」
 お母さんはサラッと口にしたけれど、考えただけで胃が痛くなりそうな修羅場にしか聞こえない。
「ら……乱入って……それでどうしたの?」
「その場で相手の女をひっぱたいて、そのままお父さんにお仕置きするために店から連れ帰ったわよ」
 お母さんに恐る恐る続きを聞くと、私では出来そうにない事を次々と口にするお母さん。
「お父さんの浮気はそれ一回だけ?」
 いや、一回あっただけでも十分酷いと思うし、私なら今みたいにずっと泣いている事しかできないかも知れない……と言うか、今の私の姿がそのままだ。
「いいえ。結婚する直前にもう一回浮気しようとしていたわよ」
 結婚直前って……お父さん最低だよ。
「直前って……そんなことされたら私、不安で結婚なんて出来ないよ」
「さすがにお母さんもその時は泣いたわよ。だからお母さんからお父さんに、別の女の人と結婚でも何でもして下さいって、三下半(みくだりはん)(※)を突きつけてやったのよ」
 お母さんからって……女の人から出すなんて聞いた事が無いけれど、お母さんがお父さんに宛てた気持ちを考えると意味自体は外れてはいないのか。
「お父さん。そこまでひどい事したのに、お母さんはお父さんと結婚したの?」
 私なら涙して、涙を流して……どうするのかな。今の状況と重ねても分からない。
「お母さんもさすがにそのつもりだったけど、泣きながらお父さんがお母さんに言ったのよ“

を本当に幸せに出来るのか不安になった。だけど俺以外の男で知恵が幸せになるのはどうしても耐えられない”って。その時になって始めて分かったのよ。お父さんなりに、女には分からない男だけの恐怖って言うのか、プレッシャーを感じていた事を。ちょうど女側がマリッジブルーになるのと同じようなのが、男の人にもあるのよ」
「だからって他の女の人に浮気するなんて、お父さん最低だよ」
 今の私の気持ちと相まって、また私の目に涙が浮かぶ。
「愛美。そこは女が泣く所じゃ無いわよ。これは女性側だけが泣く事じゃないの。愛美にはまだ分からない事だとは思うけど、男性の中では“結婚は男の墓場”と言う言葉があるくらいプレッシャーのかかる事なの。そんな中で、女性側がマリッジブルーを盾にして、他の男性と浮気する事も多いのよ」
 お母さんの話を聞いて、私が考えもしなかった男の人の気持ちと言うか、心の内を思いがけず垣間見る。
 それに好きな男の人、結婚するくらいこの人と歩んで行こうと思ってまでも、他の男の人と浮気する女の人もいるって……色々と信じられない事を立て続けに聞いている気がする。
「少し話がそれたけど、だから女もただ待ってるだけじゃ駄目なのよ。男から優しくしてもらうだけじゃ、男の人に幸せにしてもらうだけじゃ駄目なのよ。ちゃんと女も男を幸せに出来るように、女からも幸せになれるように、自分が選んだ人と幸せになれるように努力は必要なのよ」
 ただ単に情熱だけじゃない、女のとしての気構えと言うか、女としての在り方を聞かされている気がする。
「それに良い男に鍛えるのも、良い女の一つだから、ビシッと行かないと駄目な事もあるのよ」
 ――良い男にしてやるのも良い女の務めだからね―― (84話)
 そう言えばボランティアの時のおばさんもそんな事言ってた気がする。
 そして気づけばいつの間にか、お母さんの情熱話に変わっている。
「あれ? でもこの前、お父さんって浮気できるほどモテないって言ってなかった?」
 私が疑問を挟むと、何故かお母さんの表情が優しい表情に変わる。
「そうよ。だって初めの女の子なんて、お父さんがご飯おごってくれる

ついて来ただけだって言ってたし、結婚前なんて、相手の女の人、既婚者だったのよ」
 お母さんは好きだからそんな顔できるのかもしれないけれど、お父さん……本当に最低だよ。
「でね。その既婚者の人に直接電話して聞いたら、既婚者の女性に、結婚するまでの間、お父さん自身がどうしたらお嫁さんが不安にならずに済むか聞いていたのよ。そのために少しで良いから、その人と同棲して、アドバイスを求めたらしいのよ。それを聞いちゃったらもう怒れないでしょ? だから、そう言うのは直接全部お母さんに聞きなさいって、お父さんを懲らしめたのよ」
 そう言って、結局嬉しそうに話すお母さん。聞く限りじゃ、今のお父さんとは似ても似つかないくらい破天荒だったんじゃないだろうか。普通に考えたらあり得ないくらい、すごい話をしているようにしか聞こえない。だから最後に聞く。
「どうやってお父さんを懲らしめたの?」
 お父さんがそれ以降浮気をしていない、男の人が浮気をしない、女の人が涙をしなくても良いっていう方法があるのなら聞きたかったのだけれど、お母さんは私を優しく見つめるだけで、
「それは愛美の想像に任せるわよ」
 答えを聞かせてもらえない。
 その後はお片づけをするからと言う事で、部屋には私一人になる。


 ただ、最終的にはお父さんがお母さんの事を考えていたのが伝わったから、お母さんはお父さんを許したのだと言う事は分かったけれど、優希君は雪野さんと口付けをして、雪野さんの……に直接触れて……。
 そのどこかに私への気持ちが入っていたのかな……私には分からないよ。
 お母さんはああ言ってくれたけれど、私はそんなに簡単に切り替える事も、割り切ることも出来ない。
 私はにじむ視界の中で、この顔だから朱先輩に明日は休む旨の連絡を入れようと、電源を入れてメッセージを打つ。

題名:明日は体調不良で休みます
本文

 ただ、なんて打てば良いのか分からなくて、迷いに迷った後、題名だけで空メールを送ったら、妹さんや蒼ちゃんを始め、親友・友人からたくさんの不在着信があったお知らせが大量に届く。
 ただ私にはもう気力が残っていないから、最低限今日話すと約束をした彩風さんにだけはメッセージを飛ばす。

題名:今日はごめん
本文:明日か明後日までには話せるように気持ちを切り替えるから、今日は統括会の時と合わ
   せてごめんね。

 そしてにじむ視界の中で何とかメッセージを送り終えたところで、予想通り朱先輩から電話がかかって来る。
『愛さん。また悲しい事があったんだね』
 本当、初めの頃、朱先輩が電話だけは苦手だって言っていた頃が懐かしい。
『ちょっと優希君と雪野さんの事で……』
 ただそれ以上に私の心が弱っていたのか、何も言わなくても私の気持ちを分かってくれている朱先輩の心に触れて、また私の声音が変わる。
『分かったんだよ。じゃあ明日はわたしの家でお泊りなんだよ』
『私、さっきメッセージで休むって……』
 朱先輩の気持ちは嬉しいけれど、この顔で外には出たくない。
『分かったんだよ。じゃあ、明日はわたしが愛さんの家まで行って愛さんのお顔を、笑顔が似合うお顔にするんだよ。それに愛さんからは体調不良ってメッセージを貰ったんだよ』
 そう言えば初めにそんなメッセージを送ってしまっていた。もう本当に今日は何をやっても駄目な一日になってしまってる。
『ごめんなさい。ちょっと明日は本当に家から出たくなくて……』
『……愛さん。わたしにも会いたくない? わたしと一緒でも家から出るの、しんどい?』
 朱先輩が私に寄り添おうとしてくれる。
『でも、私のお顔。本当にひどいので……』
 泣いて目を腫れぼったくして、目自体も充血していて、涙を流し過ぎて頭も痛い。
『愛さんのお顔はわたしが何とでもするんだよ?』
『……』
『……愛さんの一番の理解者でいたいわたしにも話してもらえない?』
 私が黙っていると、朱先輩がいつもの問答を始めようとしてくれる。
『……でも、いつも私、朱先輩に甘えてばかりですし』
 それに、優希君の事はもう少し自分で考えようって思ってもいたし……
『前に水臭いのは悲しいってわたしは、言ったんだよ?』
 でも、もう何をしても優希君との初めては戻って来ない訳で……
『……』
 それとも男の人にとっては初めてとかはどっちでも良いのかな……記念日とかにも無頓着って聞くし。
 やっぱり私は、お母さんみたいには中々考えられない。
『分かったんだよ。明日は雨が降っても活動が始まって一人ぼっちになっても、愛さんが来てくれるまでずっと、ずぅーっと公園の入り口で待ってるんだよ』
 私の鼻を啜る音を聞いた朱先輩が、無茶を言い出す。
『そんな事をしたら朱先輩が風邪をひいてしまいます』
『わたしが風邪をひいてしまったとしても、愛さんが一人で涙してしまう事を想えば、そんなのは何でも無いんだよ』
 私のために朱先輩が体を崩すなんてことは、どう考えても私自身が許せない。
『分かりました。明日ちゃんと行きますけれど――』
『大丈夫。どんな事があっても愛さんの心はわたしが守るんだよ』
 そしていつも通りなし崩し的にではあるけれど、明日も雨の中、参加する事が決まってしまう。
『それと、涙した後はとっても疲れるから、今日はもう、何も考えずに頭を空っぽにして寝るんだよ』
 その上で、私の今の状態の事までちゃんと分かってくれているんだから、私にとって朱先輩は大魔法使いみたいだ。
『ありがとうございます。じゃあ今日はこのまま寝ますね』
 そして気が付けば、雨であろう明日の予定も決まって、私にとっては本当に長かった金曜日が終わる。


※女性側から渡すのは先渡し離縁状
※男性側から渡すのが、三行半(みくだりはん)



―――――――――――――――――――次回予告―――――――――――――――――――
   「そんなにキョロキョロして、ひょっとして俺の事、探してくれてた?」
             待ってくれない周りの環境
       「いつも二人は仲いいね。良かったらこれどうぞ」
          もちろんそれは悪い事だけでは無くて
             「えっとそれって……」
               その戸惑いは……

 「私の目が曇っていただけで、私にとっては先生はやっぱり頼れる先生でした」

         103話 寄り添いとは 1 ~準備・心構え~
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