文字数 1,839文字

 バイトへ行く前に電車の中で三枝ちゃんに会った。三枝ちゃんはふなっしーが好きで、リュックサックにいくつもぶら下げていた。
「これね、最近高校生の男の子からもらったの」
 箱に入ったふなっしーフィギュアのキーホルダーを見せる。
 なんでも電車に乗っていたところ、男子高校生のかばんにフィギュアをつけていたらしい。それを物欲しそうな顔で三枝ちゃんは眺めてから、
「ねえ、これどこで買ったの?」
と聞いたという。
 男子高校生は困った顔をして、フィギュアをかばんからはずし、三枝ちゃんにキーホルダーを渡したのだという。
「誰かもわからない人にくれるなんてね。優しい子もいるものねえ」
 三枝ちゃん、それはカツアゲじゃない? とは思いつつも、超年の差の二人のエピソードにほっこり萌えた。

 電車を降りて、職場へ向かう。ちょっと早く着いたので、施設で働くスタッフと話す。このスタッフは聴者だが、大学生の時、ろう者の彼氏ができたことがきっかけで手話を始めた。彼の言いたいことをすべて知りたくて、必死に手話を修得。『愛していると言ってくれ』みたいなこと、実際にあるんだ。
 手話が使えるだけでは飽き足らず、国際手話や手話の歴史など周辺知識の造詣(ぞうけい)が深い。彼女から基本的に手話に関する知識、ろう社会など下ネタを含めてわたしは学んできた。
 今回話をしているのは『誰』という意味の手話だ。右手4指の背を2回ほど右頬に軽く当てる。
「この手話は昔、盲の子どもとろうの子どもが一緒の施設で生活してて、盲の子どもは相手が誰かを確かめる時に顔を触るから、そこから手話で“誰”って意味になったんだって言われてるの」
「へえ」
 昔は盲とろうを一緒に育ててたんだ。盲のこどもがろうのこどもの頬に触れる瞬間を想像する。一人は眼が見えなくて、だけど声でしゃべれて、もう一人は眼は見えるけど、声でしゃべれなくて。そんな世界の全く違う二人が触れることによって意思を通わせられるのか。その場面を想像して眼を閉じた。


 その後、いつも通りに仕事をし、帰り道。今は11月も終わりの冬だ。
「寒い」
 わたしは雪だるまのようにもっこもこに着こんでいる。しかし翼はマフラーこそしているが、全体的に薄い。愛知という土地は一見すると、太平洋側で寒くなさそうだが、風が強い。温度以上に体感する温度は低いのだ。
「薄着だからだよ、いい加減エミネムスタイルやめなって」
 わたしたちの間には人一人入れそうな距離感で並んで帰る。
「エミネムじゃないし。つうか腰痛い」
 子どもの遊びの要求は女性スタッフよりも男性スタッフに容赦がない。いつもアクロバットな遊びを要求する。寒さ染みるだろう。
「来年は就活かあ」
「そうだね」
 わたしは不安だった。バイトも解雇された人間が今後やっていけるのだろうかと思っていた。その予感は見事的中してしまうのだということはこの時のわたしは知らない。
「おれ不安なんだよね」
 わたしは驚いた。不安? あんたが? いつも自信満々という態度ではないことがかえって自信があるように見える翼が?
「おれ、男じゃん。将来のこと考えると、誰かのことを支えなきゃいけなくなるはずだから、簡単に妥協しちゃいけないと思う」
 そんなこと思うんだと思った。翼が、というより男性は。わたしは何かと女性であることに不平等に感じることはままある。不平等に感じても声に出せない風潮も感じる。女性であることを自分が選んだ訳じゃないからこそ、納得がいかないこともある。特に就活なんて、女子の就職率は男子より低かったりする。だからわたしも生きづらさというのはやっぱり感じるけど、男性も男性で背負うものがあるということにこの時はじめてちゃんと認識したように感じた。
「…そっか、お互い大変だよね」
 マフラーに顔を(うず)める翼の横顔を見る。白い肌に長いまつ毛。こんな顔しているんだ、と思った。翼の顔なんてちゃんと見たことがなかった気がする。いつだってこの陽キャと話して飽きられたらどうしようかと考えていたものだから、眼なんて合わせられなかった。顔もまともに見てこなかったし、ましてや何を考えてるなんて全然知らなかった。
 もっと、話してよ。
 手を伸ばして、自分の指の背を翼の頬を当てたら、あなたが誰かってもう少し解るのかな。そんなことを一瞬考えて、自分で自分の手をぎゅっと握りしめた。…何考えてんだろ。嫌だ。こういうこと、翼で考えたくない。
 人一人入れる空間を埋められないまま、わたしたちは並んで歩き続けた。
 
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