第67話 翌朝 帷子家
文字数 3,480文字
翌朝 帷子 家
そろそろ大学に行く時間だ。1限目から授業があるのなら、帷子伸 は支度 をして朝食を食べなければ、遅刻してしまう。綾子は、もうリビングで朝食を摂 っている。
マイクは階段を上って伸の部屋に向かった。ドアを開けると、伸は既 に出掛ける支度 を済ませていた。鏡の前でそれほど変わり映 えがするとは思えない前髪の向きを気にしている。
「伸、出かける前にちゃんと朝食を食べて行ってください。」
昨日の夜は飲んで帰って来た。恐らく、ちゃんと食事を摂 っていないに違いない。出掛ける前に腹に何か入れておいた方が良いとマイクは判断した。
「…名前で呼ぶのに抵抗がないなら、そうしてくれよ。」
非建設的なやり取りの挙句 、結局、伸はマイクの忠告を聞かずに、捨て台詞 を残して部屋を出て行った。
「呼び捨てなら親しみがあるでしょうか。」
ロボットに呼び捨てにされることを、孝一と理恵は良しとしてくれるだろうか。過去のデータから得られる答えは、NGの確率が84%だ。少なくとも、『さん』を付けるべきだ。
マイクは伸が居なくなった後の部屋の中を見回す。ベッドの乱れを直し、開けっ放しのクローゼットの扉 を閉め、脱ぎ捨てたままの昨日の服を持って部屋出る。服は洗濯機に入れて、洗濯を始めなければならない。洗濯機を回すところまでがマイクの仕事で、洗濯物を干すのは母親である理恵の仕事だ。洗濯物を干す仕事をマイクが出来 ない訳 ではない。洗濯物をベランダに干す姿は外から見える。そんな事までロボットにやらせているのかという世間体 ダメージを回避するのと、自分は家族のために働いているという理恵自身の満足を得るために、それは理恵の仕事になっている。マイクはちゃんと理解し、彼女の聖域 を侵 すことはしない。料理についても同じことが言える。マイクが料理をするのは、理恵がNPO活動で遅くなる時だけだ。
洗濯機を動かした後、マイクはリビングへと廊下を歩き出す。視界に伸が玄関から出掛けて行くのが見える。やっぱり、伸は朝食を摂 らずに出掛けて行ったに違いない。
「ねえ、マイク、父さんに夏休みにそっちに遊びに行って良いか、訊 いてくれた?」
マイクがリビング入るなり、朝食を食べていた綾子が話し掛けて来る。そう言えば、昨日の午後、綾子が友達とアメリカに行きたいから、父親である孝一の所に泊まって良いか、聞いておいてくれと言っていた。孝一との定期連絡時間は日本時間で午前9時から12時までの間。ロサンゼルスは夕方で、仕事が終わった孝一からアクセスしてくる。マイクから連絡を入れるのは緊急の場合に限られている。孝一の仕事の邪魔 をしないためだ。
「私が綾子に言われたのは、昨日の午後だったので、まだ、訊 けていません。」
マイクはありのままに返事をする。この会話をきっかけに母親と綾子の間に一悶着 始まってしまった。しかしこの件は、何か条件が付いたとしても、結局綾子の意見が通る事になる確率が72%だ。これまでの帷子家に関するデータの蓄積 からそう結論付けられる。
「…ねえ、マイクも何か言ってよ。父さん、反対しないでしょ?」
綾子がマイクに助けを求めて来る。綾子は来年受験生だ。来年の夏休みは遊んでいられないだろう。今年の我儘 は少し大目 に見てあげるのが良さそうだ。
「お父様…孝一さんの意見はまだこれからです。後で訊 いておきましょう。」
マイクは前向きの回答をする。
「よろしくね。『父さんに会いに行くからね』って言っておいて。」
「何言ってるんですか、ついでに顔を見るだけでしょ。マイク、『簡単にOKしちゃ駄目 よ』って父さんに言っておいて。『甘やかさないで』って。」
母親の理恵はいかにも反対しているように言うが、そもそも孝一に訊 くなとは言っていない。簡単にOKしては駄目と言う事は、裏を返せば簡単でなければOKしても良いと取れる。マイクは、皆が望む方向へ物事を進めようと判断した。
孝一からの定期連絡は10時15分に入って来た。
〈マイク、そっちの具合はどうだい?何か変わった事は無いかい。〉
いつもの質問からWIFIでの通信が始まった。マイクは掃除機をかけながら、孝一との会話に臨 む。
〈特に変わったことはありません。皆さん元気にしています。〉
〈そうか、伸はちゃんと大学へ行っているかい。〉
〈はい、今日も大学に行きました。〉
伸が昨夜、飲んで遅く帰って来た事など報告しない。些末 な事を報告しても、徒 に孝一を心配させるだけで何も良い事は無い。
〈綾子は吹奏楽の部活を頑張っているかい。〉
〈高校での様子は回答できません。けれど、家での練習は毎日やっています。高校野球の応援にかり出されるので、その練習に余念 がないです。〉
〈そうか。〉
子供達に対する質問はあっても、自分の妻に対する質問は殆 ど無い。他の家族もそうなのだろうか。
〈孝一さん、綾子さんからお願いを伺 っています。聞いてもらえますでしょうか。〉
〈なんだ、妙 に改 まるじゃないか。〉
〈綾子さんが夏休みを利用してお友達とアメリカに遊びに行きたいそうです。孝一さんの所に泊まってディズニーランドに行きたいと言っています。孝一さんと何年も顔を合わせていないので、この機会に会って話がしたいのでしょう。〉
〈ははは、そんな殊勝 な心掛けの子だったかな。まあ、出汁 に使われていると思った方が良さそうだな。〉
〈綾子さんは高校2年生です。来年は受験生になりますから、アメリカに行く機会は今年を逃すと暫 く無いかも知れません。〉
〈うーん、それは確かにそうだ。どうしたもんかなぁ。〉
孝一が考えている間、マイクは黙って待つ。マイクが彼の思考を邪魔 するような真似 はしない。
〈でも、女の子ばかりの旅じゃあ、心配だ。昼間娘達の相手をしている時間は取れないだろうし、何かあったら大変だ。〉
〈どうでしょう。伸さんを引率 にしたら。伸さんも孝一さんと何年も会っていませんし、妹さん達と一緒に行動できると思います。〉
〈成程 。マイクは考えていてくれたか。ならば、もう家族の了解も取ってあるのかな。〉
〈いいえ。あくまで私の提案ですので、孝一さんの裁可 が下 るまでは実行に移しません。綾子さんからアメリカに行きたいと孝一さんに伝えるよう依頼を受けただけです。〉
〈伸は承知するかな。妹の付き合いよりもやりたい事があるんじゃないか。〉
〈おそらく、渋 ると思います。〉
長年の帷子家での経験データがマイクにそう判断させる。
〈じゃあ、何で提案したんだい?〉
〈伸さんは孝一さんの仕事、それと孝一さん自身に対する理解が不足しています。この機会に顔を合わせて話すことで、少しでも改善出来 れば良いと判断しました。〉
〈ストレートな言い方だねぇ。そういうところは『サラ』だな。相手の反応を推測し慮 るプロセスが不足だ。プロジェクトに反映させるべきだな。…それで、私と伸が会って話せば、事態は改善されるのかな。〉
〈変数の個数に対して、孝一さんと伸が会って話をするという事例のデータが不足しています。回答できません。〉
〈そうか、私が自分で蒔 いた種 だと言う事か。いつの間にかマイクに頼り過ぎていたかも知れん。結果を自分で刈 り取る行動をしないといけないな。…判ったよ、マイク。伸が保護者としてついて来る事を条件に綾子の渡米 を許可する事にしよう。そうだ、理恵はどう言っている。理恵はまだ知らないのかい?〉
〈理恵さんは綾子さんがアメリカに行きたがっている事を知っています。簡単にOKしないように孝一さんに伝えてと承 りました。〉
〈ははは、それじゃあ、ここでOKしちゃ駄目 じゃないか。〉
〈いいえ、伸さんが保護者として付いて行く条件を出せば、簡単には話が進まないと予測します。十分に当事者達が考える事になるでしょう。〉
〈大 したもんだ。マイクが居て良かったよ。さっきは配慮 が不足している様な事を言ってしまって、失礼したね。〉
〈いいえ、演算 回数には限界がありますので、そう言われても仕方 ありません。〉
〈じゃあ、理恵達に提案してくれ。また、話が進んだら教えておくれ。…他に話しておく事が有るかな?〉
〈いいえ、私の持っている案件 は終了しました。〉
〈そうか。じゃあ、また明日連絡をするよ。〉
〈了解しました。ごゆっくりお休みください。〉
〈まだ寝るには早過ぎる。少し飲んでからにするさ。また明日。〉
孝一との通信は切れた。掃除ももう少しで終了する。理恵がNPO活動から帰って来るのは3時頃だろう。まず、理恵にこの件について知らせよう。マイクは掃除機を片付けながら、理恵との会話をシミュレーションした。
そろそろ大学に行く時間だ。1限目から授業があるのなら、帷子
マイクは階段を上って伸の部屋に向かった。ドアを開けると、伸は
「伸、出かける前にちゃんと朝食を食べて行ってください。」
昨日の夜は飲んで帰って来た。恐らく、ちゃんと食事を
「…名前で呼ぶのに抵抗がないなら、そうしてくれよ。」
非建設的なやり取りの
「呼び捨てなら親しみがあるでしょうか。」
ロボットに呼び捨てにされることを、孝一と理恵は良しとしてくれるだろうか。過去のデータから得られる答えは、NGの確率が84%だ。少なくとも、『さん』を付けるべきだ。
マイクは伸が居なくなった後の部屋の中を見回す。ベッドの乱れを直し、開けっ放しのクローゼットの
洗濯機を動かした後、マイクはリビングへと廊下を歩き出す。視界に伸が玄関から出掛けて行くのが見える。やっぱり、伸は朝食を
「ねえ、マイク、父さんに夏休みにそっちに遊びに行って良いか、
マイクがリビング入るなり、朝食を食べていた綾子が話し掛けて来る。そう言えば、昨日の午後、綾子が友達とアメリカに行きたいから、父親である孝一の所に泊まって良いか、聞いておいてくれと言っていた。孝一との定期連絡時間は日本時間で午前9時から12時までの間。ロサンゼルスは夕方で、仕事が終わった孝一からアクセスしてくる。マイクから連絡を入れるのは緊急の場合に限られている。孝一の仕事の
「私が綾子に言われたのは、昨日の午後だったので、まだ、
マイクはありのままに返事をする。この会話をきっかけに母親と綾子の間に
「…ねえ、マイクも何か言ってよ。父さん、反対しないでしょ?」
綾子がマイクに助けを求めて来る。綾子は来年受験生だ。来年の夏休みは遊んでいられないだろう。今年の
「お父様…孝一さんの意見はまだこれからです。後で
マイクは前向きの回答をする。
「よろしくね。『父さんに会いに行くからね』って言っておいて。」
「何言ってるんですか、ついでに顔を見るだけでしょ。マイク、『簡単にOKしちゃ
母親の理恵はいかにも反対しているように言うが、そもそも孝一に
孝一からの定期連絡は10時15分に入って来た。
〈マイク、そっちの具合はどうだい?何か変わった事は無いかい。〉
いつもの質問からWIFIでの通信が始まった。マイクは掃除機をかけながら、孝一との会話に
〈特に変わったことはありません。皆さん元気にしています。〉
〈そうか、伸はちゃんと大学へ行っているかい。〉
〈はい、今日も大学に行きました。〉
伸が昨夜、飲んで遅く帰って来た事など報告しない。
〈綾子は吹奏楽の部活を頑張っているかい。〉
〈高校での様子は回答できません。けれど、家での練習は毎日やっています。高校野球の応援にかり出されるので、その練習に
〈そうか。〉
子供達に対する質問はあっても、自分の妻に対する質問は
〈孝一さん、綾子さんからお願いを
〈なんだ、
〈綾子さんが夏休みを利用してお友達とアメリカに遊びに行きたいそうです。孝一さんの所に泊まってディズニーランドに行きたいと言っています。孝一さんと何年も顔を合わせていないので、この機会に会って話がしたいのでしょう。〉
〈ははは、そんな
〈綾子さんは高校2年生です。来年は受験生になりますから、アメリカに行く機会は今年を逃すと
〈うーん、それは確かにそうだ。どうしたもんかなぁ。〉
孝一が考えている間、マイクは黙って待つ。マイクが彼の思考を
〈でも、女の子ばかりの旅じゃあ、心配だ。昼間娘達の相手をしている時間は取れないだろうし、何かあったら大変だ。〉
〈どうでしょう。伸さんを
〈
〈いいえ。あくまで私の提案ですので、孝一さんの
〈伸は承知するかな。妹の付き合いよりもやりたい事があるんじゃないか。〉
〈おそらく、
長年の帷子家での経験データがマイクにそう判断させる。
〈じゃあ、何で提案したんだい?〉
〈伸さんは孝一さんの仕事、それと孝一さん自身に対する理解が不足しています。この機会に顔を合わせて話すことで、少しでも改善
〈ストレートな言い方だねぇ。そういうところは『サラ』だな。相手の反応を推測し
〈変数の個数に対して、孝一さんと伸が会って話をするという事例のデータが不足しています。回答できません。〉
〈そうか、私が自分で
〈理恵さんは綾子さんがアメリカに行きたがっている事を知っています。簡単にOKしないように孝一さんに伝えてと
〈ははは、それじゃあ、ここでOKしちゃ
〈いいえ、伸さんが保護者として付いて行く条件を出せば、簡単には話が進まないと予測します。十分に当事者達が考える事になるでしょう。〉
〈
〈いいえ、
〈じゃあ、理恵達に提案してくれ。また、話が進んだら教えておくれ。…他に話しておく事が有るかな?〉
〈いいえ、私の持っている
〈そうか。じゃあ、また明日連絡をするよ。〉
〈了解しました。ごゆっくりお休みください。〉
〈まだ寝るには早過ぎる。少し飲んでからにするさ。また明日。〉
孝一との通信は切れた。掃除ももう少しで終了する。理恵がNPO活動から帰って来るのは3時頃だろう。まず、理恵にこの件について知らせよう。マイクは掃除機を片付けながら、理恵との会話をシミュレーションした。